8月に入って

気が付くと北京五輪まで
あと、18日だそうです。
と前回放送時に書いていましたが

あれから二週間がたっていますから
当然4日前です。

今回は、中国で縁起がよいとされている数字
8を揃えた、8月8日に開会式。
と、いうことで、最初はそんな話を
する予定だったのですが、

8月4日オンエアー 第173回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
放送を終えました。

最近、ニュースで話題となっているのが
竹島をめぐる問題です。

そんな話題となる頻度が増えるとともに
色々な人に説明を求められるようになりました。

で、説明をしているうちに

一番端的にまとまっていて
時系列をおって説明できるのが

外務省のホームページでした。

これが、日本国の正式見解ですから
間違いないでしょう。

と、いうことで
文部省のホームページに掲載されいた
以下の文章を

番組内で、読ませてもらいました

竹島の領有権に関する我が国の一貫した立場

1.竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに我が国固有の領土です。
2.韓国による竹島の占拠は、国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり、韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではありません。

※韓国側からは、我が国が竹島を実効的に支配し、領有権を確立した以前に、韓国が同島を実効的に支配していたことを示す明確な根拠は提示されていません。


1.竹島の認知
 今日の竹島は、我が国では明治時代の初め頃までは「松島」の名前で呼ばれており、当時「竹島」(または「磯竹島」)と呼ばれていたのは、現在の鬱陵島のことでした。しかし、我が国が、古くから「竹島」や「松島」をよく認知していたことは、多くの文献や地図等により明白です。
 (例えば、経緯線を投影した刊行日本図として最も代表的な長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(1779年)ほか、鬱陵島と竹島を朝鮮半島と隠岐諸島との間に的確に記載している地図は多数存在します。)
【日本における竹島の認知】
1.概説
現在の竹島は、かつて「松島」と呼ばれ、逆に鬱陵島が「竹島」や「磯竹島」と呼ばれていました。この後、ヨーロッパの探検家等による鬱陵島の測位の誤りにより島名が混乱することになりますが、1880(明治13)年、日本政府は鬱陵島の現地調査を行って島名の整合性を確認するとともに、1905年に「松島」(現在の竹島)を島根県に編入する際、その混乱を防ぐ観点から、現在の竹島を「竹島」と正式に命名しました。
 竹島や鬱陵島の名称については、一時的な混乱があったものの、我が国が「竹島」と「松島」の存在を古くから承知していたことは各種の文献からも確認できます。
2.ヨーロッパ探検家等による測位の誤り
(1)1787年、フランスの航海家ラ・ペルーズが鬱陵島に至り、これを「ダジュレー(Dagelet)島」と命名しました。続いて、1789年には、イギリスの探検家コルネットも鬱陵島を発見しましたが、彼はこの島を「アルゴノート(Argonaut)島」と名付けました。しかし、ラ・ペルーズとコルネットが測定した鬱陵島の経緯度にはズレがあったことから、その後にヨーロッパで作成された地図には、鬱陵島があたかも別の2島であるかのように記載されることとなりました。
(2)1840年、長崎出島の医師シーボルトは「日本図」を作成しました。
彼は、隠岐島と朝鮮半島の間には西から「竹島」(現在の鬱陵島)、「松島」(現在の竹島)という2つの島があることを日本の諸文献や地図により知っていました。その一方、ヨーロッパの地図には、西から「アルゴノート島」「ダジュレー島」という2つの名称が並んでいることも知っていました。このため、彼の地図では「アルゴノート島」が「タカシマ」、「ダジュレー島」が「マツシマ」と記載されることになりました。これにより、それまで一貫して「竹島」又は「磯竹島」と呼ばれてきた鬱陵島が、「松島」とも呼ばれる混乱を招くこととなりました。
(3)このように、我が国内では、古来の「竹島」、「松島」に関する知識と、その後に欧米から伝えられた島名が混在していましたが、その最中に「松島」を望見したとする日本人が、同島の開拓を政府に願い出ました。政府は、島名の関係を明らかにするため1880(明治13)年に現地調査を行い、同請願で「松島」と称されている島が鬱陵島であることを確認しました。
(4)以上の経緯をふまえ、鬱陵島は「松島」と称されることとなったため、現在の竹島の名称をいかにするかが問題となりました。このため、政府は島根県の意見も聴取しつつ、1905(明治38)年、これまでの名称を入れ替える形で現在の竹島を正式に「竹島」と命名しました。
【韓国における竹島の認知】
1.概説
 韓国側は、朝鮮の古文献に出てくる「于山(うざん)島」等の島が今日の竹島であると主張しています。しかし、この「于山島」等が今日の竹島に該当していることを確かに裏付ける根拠を見いだすことはできません。
2.韓国側の主張
(1)韓国側は、朝鮮の古文献「世宗実録地理誌」(1454年)や「新増東国輿地勝覧」(1531年)などの記述をもとに、「鬱陵島」と「于山島」という二つの島を古くから認知していたのであり、その「于山島」こそ今日の竹島であると主張しています。
(2)しかし、この「新増東国輿地勝覧」ですら、「于山島」と「鬱陵島」の二島説をとりつつ、一島二名の可能性を示唆する文言を含んでいます。また、その他の朝鮮の古文献には、「于山島」は鬱陵島の別名であり、そもそも同一の島を指しているとするものもあります。
(3)さらに、朝鮮の古文献中にある「于山島」の記述には、その島には多数の人々が住み、大きな竹を産する等、竹島の実状に見合わないものがあり、むしろ、鬱陵島を想起させられるものとなっています。
(4)なお、「新増東国輿地勝覧」に添付された地図には、鬱陵島と「于山島」が別個の2つの島として記述されています。もし、韓国側が主張するように「于山島」が竹島を示すのであれば、この島は、鬱陵島の東方に、鬱陵島よりもはるかに小さな島として描かれるはずです。しかし、この地図における「于山島」は、鬱陵島とほぼ同じ大きさで描かれ、さらには朝鮮半島と鬱陵島の間(鬱陵島の西側)に位置している等、全く実在しない島であることがわかります。

2.竹島の領有
 我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立していたと考えられます。この当時、鳥取藩米子の大谷・村川両家は、鬱陵島への渡海を幕府から公認され、交互に毎年1回、同島に渡海して漁労や竹木の伐採等を行うとともに、これによって得られた鮑(あわび)を幕府に献上してきました。この間、今日の竹島は、鬱陵島への渡海の船がかりの地として、また、漁採地として利用されていました。
【鬱陵島への渡海免許】
1.概説
 日本人による竹島に関する知見は、鬱陵島の開発の歴史と不可分の関係にあります。鳥取藩の町人が幕府より鬱陵島への渡海免許を受け、その公認のもとに同島の開発に乗り出すことになった17世紀前半以降、同島への途次にあたる竹島もまた、漁業等に利用されるようになりました。
2.鬱陵島への渡海免許と竹島の利用
(1)1618年、鳥取藩伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛は、同藩主を通じて幕府から鬱陵島(当時の「竹島」)への渡海免許を受けました。これ以降、両家は交替で毎年年1回鬱陵島に渡航し、あわびの採取、あしかの捕獲、竹などの樹木の伐採等に従事しました。
(2)両家は、将軍家の葵の紋を打ち出した船印をたてて鬱陵島で漁猟に従事し、採取したあわびについては将軍家等に献上するのを常としており、いわば同島の独占的経営を幕府公認で行っていました。
(3)この間、隠岐から鬱陵島への道筋にある竹島は、航行の目標として、途中の船がかりとして、また、あしかやあわびの漁獲の好地として自然に利用されるようになりました。
(4)なお、当時、幕府が鬱陵島や竹島を外国領であると認識していたのであれば、鎖国令を発して日本人の海外への渡航を禁止した1635年には、これらの島に対する渡海を禁じていたはずですが、そのような措置はなされませんでした。

3.鬱陵島への渡海禁止
大谷・村川両家による鬱陵島の開発は約70年間平穏に続けられていました。しかし、1692年に村川家が、また、1693年に大谷家が鬱陵島に出向くと、多数の朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事しているのに遭遇しました。これを契機に、日本と朝鮮の政府間で鬱陵島の領有権を巡る交渉が開始されましたが、最終的に幕府は、1696年1月、鬱陵島への渡海を禁止することとしました(いわゆる「竹島一件」)。ただし、竹島への渡航は禁じませんでした。
【竹島一件】
1.いわゆる「竹島一件」
(1)幕府より鬱陵島への渡海を公認された米子の大谷・村川両家は、約70年にわたり、他から妨げられることなく独占的に事業を行っていました。
(2)1692年、村川家が鬱陵島におもむくと、多数の朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事しているのに遭遇しました。また、翌年には、今度は大谷家が同じく多数の朝鮮人と遭遇したことから、安龍福(アン・ヨンボク)、朴於屯(パク・オドゥン)の2名を日本に連れ帰ることとしました。なお、この頃の朝鮮王朝は、同国民の鬱陵島への渡航を禁じていました。
(3)状況を承知した幕府の命を受けた対馬藩は、安と朴の両名を朝鮮に送還するとともに、朝鮮に対し、同国漁民の鬱陵島への渡海禁制を要求する交渉を開始しました。しかし、この交渉は、鬱陵島の帰属をめぐって意見が対立し合意を得るにいたりませんでした。
(4)対馬藩より交渉決裂の報告を受けた幕府は、1696年1月、「鬱陵島には我が国の人間が定住しているわけでもなく、同島までの距離から見ても朝鮮領であると判断される。無用の小島をめぐって隣国との好を失うのは得策ではない。鬱陵島を奪ったわけではないので、ただ渡海を禁じればよい」と鬱陵島への渡海を禁止することを決定し、これを朝鮮側に伝えるよう対馬藩に命じました。
 この鬱陵島の帰属をめぐる交渉の経緯は、一般に「竹島一件」と称されています。
(5)なお、幕府が鬱陵島への渡航を禁じる決定をした後、安龍福は再び我が国に渡来しました。この後、再び朝鮮に送還された安龍福は、鬱陵島への渡航の禁制を犯した者として朝鮮の役人に取り調べを受けますが、この際の安の供述は、現在の韓国による竹島の領有権の主張の根拠の1つとして引用されることになります。
2.安龍福の供述とその疑問点
(1)韓国側の文献によれば、安龍福は、来日した際、鬱陵島及び竹島を朝鮮領とする旨の書契を江戸幕府から得たものの、対馬の藩主がその書契を奪い取ったと供述したとされています。しかし、日本側の文献によれば、安龍福が1693年と1696年に来日した等の記録はありますが、韓国側が主張するような書契を安龍福に与えたという記録はありません。
(2)さらに、韓国側の文献によれば、安龍福は、1696年の来日の際に鬱陵島に多数の日本人がいた旨述べたとされています。しかし、この来日は、幕府が鬱陵島への渡航を禁じる決定をした後のことであり、当時、大谷・村川両家はいずれも同島に渡航していませんでした。
(3)安龍福に関する韓国側文献の記述は、同人が、国禁を犯して国外に渡航し、その帰国後に取調を受けた際の供述によったものです。その供述には、上記に限らず事実に見合わないものが数多く見られますが、それらが、韓国側により竹島の領有権の根拠の1つとして引用されてきています。

4.竹島の島根県編入
 1904(明治37)年9月、島根県在住の中井養三郎は、内務・外務・農商務の三大臣に対し、「りやんこ島領土編入並に貸下願」を提出しました(「りやんこ島」とは、竹島を「リアンクール島」とする洋名の俗称です。)。これは、竹島でアシカ漁を行っていた中井が、過当競争の状態にあったアシカの乱獲を防止すること、また、竹島の領有権を明確にすることにより他国とのトラブルを避けることを目的として政府に提出したものです。これを受けた政府は、島根県の意見を聴取しつつ、1905(明治38)年1月28日の閣議決定をもって竹島を領有する意思を再確認するとともに、同島を「島根県所属隠岐島司ノ所管」と明確にしました。この後、竹島でのアシカ漁は許可制となり、第二次大戦によって1941(昭和16)年に中止されるまで続けられました。
1.概説
 1905(明治38年)1月、政府は閣議決定により竹島を領有する意思を再確認した上で、これを「島根県所属隠岐島司ノ所管」と定めるとともに、その名称を「竹島」と命名しました。
2.経緯
(1)今日の竹島において、あしかの捕獲が本格的に行われるようになったのは、1900年代初期のことでした。しかし、間もなくあしかは過当競争の状態となったことから、島根県隠岐島民の中井養三郎は、その事業の安定を図るため、1904(明治37)年9月、内務・外務・農商務三大臣に対して「りやんこ島」(注:竹島の洋名「リアンクール島」の俗称)の領土編入及び10年間の貸し下げを願い出ました。
(2)中井の出願を受けた政府は、島根県の意見を聴取の上、竹島を隠岐島庁の所管として差し支えないこと、「竹島」の名称が適当であることを確認しました。これをもって、1905(明治38)年1月、閣議決定によって同島を「隠岐島司ノ所管」と定めるとともに、「竹島」と命名し、この旨を内務大臣から島根県知事に伝えました。
(3)島根県知事は、この閣議決定及び内務大臣の訓令に基づき、1905(明治38)年2月、竹島が「竹島」と命名され隠岐島司の所管となった旨を告示するとともに、隠岐島庁に対してもこれを伝えました。なお、これらは当時の新聞にも掲載され広く一般に伝えられました。
(4)また、島根県知事は、竹島が「島根県所属隠岐島司ノ所管」と定められたことを受け、竹島を官有地台帳に登録するとともに、あしかの捕獲を許可制としました。あしかの捕獲は、その後、1941(昭和16)年まで続けられました。
(5)なお、朝鮮では、1900年の「大韓帝国勅令41号」により、鬱陵島を鬱島と改称するとともに島監を郡守とする旨公布した記録があるとされています。そして、この勅令の中で、鬱陵郡が管轄する地域を「鬱陵全島と竹島、石島」と規定しており、この「竹島」は鬱陵島の近傍にある「竹嶼」という小島であるものの、「石島」はまさに現在の「独島」を指すと指摘する研究者もいます。その理由は、韓国の方言で「トル(石)」は「トク」とも発音され、これを発音どおりに漢字に直せば「独島(トクド)」につながるためというものです。
(6)しかし、「石島」が今日の竹島(「独島」)であるならば、なぜ勅令で「独島」が使われなかったのか、また、韓国側が竹島の旧名称であると主張する「于山島」等の名称が使われなかったのかという疑問が生じます。
 いずれにせよ、仮にこの疑問が解消された場合であっても、同勅令の公布前後に、朝鮮が竹島を実効的に支配してきたという事実はなく、韓国による竹島の領有権は確立していなかったと考えられます。

5.第二次大戦直後の竹島
 1946(昭和21)年1月、連合国総司令部により発せられた「若干の外郭地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する覚書」(SCAPIN第677号)により、竹島は、日本が政治上又は行政上の権力を停止すべき特定地域の1つとされました。また、同年6月には、いわゆる「マッカーサー・ライン」の設定に関する「日本の漁業及び捕鯨業許可区域に関する覚書」(SCAPIN第1033号)が発せられ、竹島は、日本漁船の操業区域外の地域として指定されました。しかし、これらの連合国総司令部覚書の文中には、いずれも日本国領土帰属の最終的決定に関するものではないことが明記されており、これらが竹島を日本の領土から除外したものではないことは明らかです。
【第二次大戦直後の連合国による竹島の扱い】
1.概説
 連合国は占領下の日本に対し、政治上または行政上の権力の行使を停止すべき地域、また、漁業及び捕鯨を行ってはならない地域を指令し、この中に竹島を含めました。しかし、これらの連合国による規定には、いずれもこれは領土帰属の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない旨が明記されています。
2.連合国総司令部覚書(SCAPIN)
(1)SCAPIN第677号
(イ)1946(昭和21)年1月、連合
国はSCAPIN第677号をもって、一部の地域に対し、日本国政府が政治上または行政上の権力を行使すること及び行使しようと企てることを暫定的に停止するよう指令しました。
(ロ)その第3項には、「この指令において、日本とは、日本四大島(北海道、本州、九州及び四国)及び約一千の隣接諸小島を含むものと規定される。右隣接諸小島は、対馬及び北緯30度以北の琉球(南西)諸島(口ノ島を除く)を含み、また次の諸島を含まない」とし、日本が政治上・行政上の権力を行使しうる地域に「含まない」地域として鬱陵島や済州島、あるいは伊豆、小笠原群島等に並び竹島も列挙しました。
(ハ)しかし、同第6項には、「この指令中のいかなる規定も、ポツダム宣言の第8項に述べられている諸小島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない」(ポツダム宣言第8項:「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」)と明記されています。
(2)SCAPIN第1033号
(イ)1946(昭和21)年6月、連合国は、いわゆる「マッカーサー・ライン」を規定するSCAPIN第1033号をもって、日本の漁業及び捕鯨許可区域を定めました。
(ロ)その第3項には、「日本船舶又はその乗組員は竹島から12マイル以内に近づいてはならず、またこの島との一切の接触は許されない。」と記されました。
(ハ)しかし、同第5項には、「この許可は、当該区域又はその他のいかなる区域に関しても、国家統治権、国境線又は漁業権についての最終的決定に関する連合国の政策の表明ではない。」と明記されています。
3.SCAPINの効果
 「マッカーサー・ライン」は、1952(昭和27)年4月に廃止が指令され、またその3日後の4月28日には平和条約の発効により、行政権停止の指令等も必然的に効力を失うこととなりました。
 韓国側は、上記SCAPINをもって、連合国は竹島を日本の領土と認めていなかったとし、韓国による竹島の領有権の根拠の1つとしています。しかし、いずれのSCAPINにおいても領土帰属の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならないことが明示されており、そのような指摘が全く当たらないことは明らかです。
 なお、我が国の領土を確定したのは、その後に発効したサンフランシスコ平和条約です。このことからも、同条約が発効する以前の竹島の扱いにより、竹島の帰属の問題が影響を受けるということがないことは明らかです。

6.サンフランシスコ平和条約起草過程における竹島の扱い
 1952(昭和27)年4月に発効した「日本国との平和条約」、いわゆる「サンフランシスコ平和条約」の草案起草過程において、韓国は米国に対し、日本が権利、権原及び請求権を放棄する地域の1つに竹島を加えるよう要求しました。これに対し米国は、かつて竹島は朝鮮領土として扱われたことはなく、朝鮮によって領有権が主張されたとも思われない旨回答し、この要求を受け入れませんでした。
サンフランシスコ平和条約における竹島の扱い
1.概説
 1952年1月、韓国は「海洋主権宣言」を行い、いわゆる「李承晩ライン」を公海上に線引きして、国際法に反して同ラインの内側の広大な水域への漁業管轄権を一方的に主張するとともに、竹島をそのライン内に取込みました。韓国はその後、SCAPIN677やSCAPIN1033を根拠に、連合国もまた竹島を韓国領土であると認めていたとの主張をしています。しかし、李承晩ラインの設定に先立つ「日本国との平和条約」(サンフランシスコ平和条約)の草案起草過程において、日本が放棄すべき地域の1つに竹島を明記するよう要求した韓国政府に対し、米国は、竹島は「朝鮮の一部として取り扱われたことがなく」、「かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない」として、明確に韓国側の主張を否定しています。
2.経緯
(1)1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約は、日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定しました。
(2)この部分に関する米英両国による草案内容を承知した韓国は、同年7月、梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソン米国務長官宛の書簡を提出しました。その内容は、「我が政府は、第2条a項の『放棄する』という語を『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換えることを要望する。」というものでした。
(3)この韓国側の意見書に対し、米国は、同年8月、ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡をもって以下のとおり回答しました。
 「・・・合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。・・・・」
 これらのやり取りを踏まえれば、竹島は我が国の領土であるということが肯定されていることは明らかです。

7.「李承晩ライン」の設定
 1952(昭和27)年4月、連合国総司令部は「マッカーサー・ライン」を撤廃し、その直後には「サンフランシスコ平和条約」が発効しました。しかし、これに先立つ同年1月、李承晩韓国大統領は「海洋主権宣言」を行って、いわゆる「李承晩ライン」を国際法に反して一方的に設定し、そのライン内に竹島を取り込みました。
 韓国側の措置は、公海上における違法な線引きであり、また、竹島の領有権に関する我が国の立場と相容れません。これ以降、我が国としては、竹島が日本の領土であることを裏付ける根拠等を提示しつつ、機会あるごとに韓国政府に対して抗議を重ねています。

8.米軍爆撃演習場としての竹島
 1952(昭和27)年7月、日米安全保障条約の実施のために設立された日米合同委員会は、日米行政協定(当時)に基づき、在日米軍の使用する海上演習及び訓練区域の1つとして竹島を指定しました。この合同委員会の協議の対象となるのは「日本国内の施設又は区域」と規定されていたことからしても、竹島が「日本国内の」施設又は区域として扱われていたことが理解できます。
米軍爆撃演習場としての竹島
1.概説
 1952(昭和27)年、竹島は、在日米軍の使用する海上演習及び訓練区域の1つとして指定されました。この指定が、「日本国内の施設又は区域」を協議対象とする日米合同委員会により行われたことを見ても、竹島が日本の領土として扱われていたことは明らかです。
2.経緯
(1)我が国がいまだ占領下にあった1950(昭和25)年7月、連合国総司令部は、SCAPIN第2160号をもって、竹島を米軍の海上爆撃演習地区として指定しました。
(2)1952(昭和27)年7月、米軍が引き続き竹島を訓練場として使用することを希望したことを受け、日米安全保障条約の実施のために設立された日米合同委員会は、日米行政協定(注:旧日米安保条約に基づく取り決め。現在の「日米地位協定」に引き継がれる。)に基づき、在日米軍の使用する海上演習及び訓練区域の1つとして竹島を指定するとともに、外務省はその旨を告示しました。
(3)しかし、竹島周辺海域におけるあしかの捕獲、あわびやわかめの採取を望む地元からの強い要請があること、また、米軍も同年冬から竹島の爆撃演習場としての使用を中止していたことから、1953(昭和28)年3月の合同委員会において、同島を演習場区域から削除することが決定されました。
(4)日米安全保障条約及び行政協定によれば、日米合同委員会の協議の対象となるのは「日本国内の施設又は区域」とされていました。したがって、竹島がこの委員会で協議され、かつ、在日米軍の使用する区域としての決定を受けているということは、とりも直さず竹島が日本の領土であることを示しています。

9.韓国による竹島占拠
 1953(昭和28)年3月、日米合同委員会で竹島の演習区域からの解除が決定しました。これにより、竹島での漁業が再び行われることとなりましたが、韓国人も竹島やその周辺で漁業に従事していることが確認されました。同年7月には、不法漁業に従事している韓国漁民に対し竹島から撤去するよう要求した海上保安庁巡視船が、韓国漁民を援護していた韓国官憲によって銃撃されるという事件も発生しました。
 翌1954(昭和29)年6月、韓国内務部は「韓国沿岸警備隊は、竹島を日本の侵略から守るため、駐留部隊を同島に急派した。」と発表しました。なお、同年8月には、竹島周辺を航行中の海上保安庁巡視船が同島から銃撃され、これにより韓国の警備隊が竹島に駐留していることが確認されました。また、この際、韓国側により竹島に灯台が建設されていることを確認しました。

10.国際司法裁判所への提訴の提案
 韓国による「李承晩ライン」の設定以降、韓国側が行う竹島の領有権の主張、漁業従事、巡視船に対する射撃、構築物の設置等につき、我が国は累次にわたり抗議を積み重ねました。そして、この問題の平和的手段による解決を図るべく、1954(昭和29)年9月、我が国は韓国側に対してこの紛争を国際司法裁判所に付託することにつき提案しました。しかし、同年10月、韓国側はこの提案を拒否しました。また、1962(昭和37)年3月の日韓外相会談の際にも、我が国としては同様の提案を行いましたが、韓国側からは前向きな反応が得られませんでした。
国際司法裁判所への提訴
1.国際司法裁判所は、紛争の両当事者が同裁判所において解決を求めるという合意があって初めて動き出すという仕組みになっています。したがって、仮に我が国が一方的に提訴を行ったとしても、韓国側がこれに応ずる義務はなく、韓国が自主的に応じない限り国際司法裁判所の管轄権は設定されないこととなります。
2.我が国は、1954(昭和29)年9月、口上書をもって竹島の領有権問題につき国際司法裁判所に提訴することを韓国側に提案しましたが、韓国はこれに応じませんでした。また、1962(昭和37)年3月の日韓外相会談の際にも、小坂善太郎外務大臣より崔徳新韓国外務部長官に対し、本件問題を国際司法裁判所に付託することを提案しましたが、韓国はこれを受け入れず、現在に至っています。

11.竹島の近況
 韓国側は、引き続き警備隊員を常駐させるとともに、宿舎や監視所、灯台、接岸施設等を構築しています。このような行為は、何ら法的な正当性を有しない不法な占拠であり、竹島の領有権を巡る我が国の立場に照らして決して容認できるものではありません。我が国としては、竹島をめぐり韓国側が何らかの措置等を行う毎に厳重な抗議を重ねるとともに、その撤回を求めてきています。
【韓国本土からの竹島入域自粛について】
 韓国による竹島の不法占拠が続いている状況の中で、我が国国民が韓国本土を経由する等により竹島に入域することは、このような我が国国民が竹島において韓国側の管轄権に服することを認めたとか、竹島に対する韓国の領有権を認めたというような誤解を与えかねません。この点につき、国民の皆様の御理解と御協力をお願いいたします。


URLはこちらです。興味があれば
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/gaiyo.html



ダライ・ラマ14世の、チベットに対する提案は以下の通り。
(1987年、アメリカ議会の人権問題小委員会での「チベットに関する5項目の和平案」)

・チベット全土を平和地域とする
・チベット民族の存続を脅かす中国の人口移動政策を放棄する
・チベット民族の基本的人権および民主主義に基づく自由を尊重する
・チベットの自然環境を保護し、回復させる。チベットでの核兵器の製造、核廃棄物の投棄をしない
・チベットの将来の地位について、また、チベット人と中国人との関係について、真剣な交渉を開始する

そして、チベット人による本当の自治権が得られれば独立は求めないと譲歩しました。(1988年、「ストラスブール」提案)



このところ国際問題ばかりを取り上げて
そろそろ日本史のお話がしたいなぁ、と思っている
「イトー×ani」がお届けする 
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北海道富良野市とその周辺で聴くことが出来る
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7月21日のオンエアー曲

♪7月21日オンエアー 第172回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」の
番組内でオンエアーをした曲です♪


♪「星間飛行」 ランカ・リー=中島愛
TV「マクロスF」挿入歌


ポップなギターのカッティング、
ストリングスっぽいシンセの刻みと
スキャットのコーラスに加えて
曲前の十六分音符の上昇音といった、
正統アイドルポップの文法で貫かれている
イントロがキャッチーですし、
しかもそんなイントロに導かれていますから
明るい歌声がよくハマる曲調も、
メジャーコードの正統アイドルポップ。
この曲調は、21世紀には貴重な楽曲ではないでしょうか。
グロッケンの音とか、チャイムの音とか
サビの締めのところではいるタタタンというリズムとか、
タンバリンの刻みとか、間奏のユルい感じのギターの旋律とかも
懐かしいを通り越して、新しい世界に感じます。
アニメーションの挿入歌ではあるのですが
声優さん独特のキンとした声ではなくて
中島さんの声質自体が、
あくまでも明るいアイドルの声っぽいところも
コダワッテ楽曲を作っている感じがします。
歌詞もそんな世界を補完しているので
すげーなーと思ったのですが
作曲菅野よう子、作詞松本隆といったところで
大納得をしてしまったのです。
マクロス曲といえば、いまだに
飯島真理さんの「愛、覚えていますか」とか
「私の彼はパイロット」が脳裏にこびりついているのですが
(僕はそんな世代なんですよ。
高校生の時に部活サボって見ていましたし)
確実に曲世界というのは進歩をしていることを実感しました。
ってことで、今度は、中島さんの
泣きそうになるくらいセツナイバラードとか
出されたら、これまた速攻で買ってしまうでしょう。
ちなみに、オリコン週間シングルランキングでは
初登場5位でした。その数字にも納得です。



♪「goodbye & good luck」 the brilliant green
「Ash Like Snow」カップリング
「劇団キャラメルボックスクリスマス公演」エンディング・テーマ

穏やかでシンプルなピアノの伴奏にのせて
舌足らずで甘えたような感じの歌声が
アメリカの民謡や童謡を思わせる英語詞の曲です。
川瀬さんの歌声は、そんな歌声もハマりますし
サビの部分で聞くことが出来るような、
ビブラートをきかせ、ろうろうと歌う歌い方もハマっていて、
彼女自身が幅広い歌声の持ち主であることが実感できるのです。
楽曲自体、基本はピアノの伴奏に、
チェロなどのストリングスが控えめに加わるので
ボーカルのウマさや芸幅の広さがはっきりと
浮き出てくるみたいでいいですね。
カップリング曲がエレキサウンドを
前面に押し出したアップビートの曲ということで
そんな対比もいい感じで
ブリグリの広い世界をいろいろと垣間見ることが
出来ます。




♪「砂塵の彼方へ…」 Revo & 梶浦由記
「FURANO History Factory」7月のマンスリーパワープレイ
 「Dream Port」所収


今まで、この曲について
オーケストレーションの妙であるとか
効果音的な楽器などの使い方のウマさとか
哀調のある旋律から教会合唱のチャントのような
コーラスを挟んで間奏、Cメロパートを経てから
転調をしてメジャーコードになる過程が
救いみたいだとか書いておりました。
確かに、ずっとマイナーコードできていて
時間にして4分してから曲調が動いての、
メジャーコードへの転調ですから
それはジワジワときいてきます。
そして、こんなに曲の構成だ云々だを
言っているのですが
やはり、それは個性的なボーカル群が
あってのことなのです。
魅力的な声が、かけあいのように
不思議な旋律の歌詞を橋渡ししていって、
そして、ユニゾンやコーラスで
個性が重なっていく。
あたかも一枚の抽象画を鑑賞する感覚で
聴くことができるのです。
だから、救いみたいに感じるメジャーコードに
転調する伏線となっている
教会音楽みたいなチャントの部分というのが
心洗われるくらい穏やかに響いて
天上の歌声のおもむきなのです。
そして、メジャーコードの部分が幻であったかのように
哀調帯びたイントロと同じ主題で締められるという
そんな構成と、構成を支える歌声や楽器の音に
メロメロになるのです。
こんな曲の直後に、私の
「富良野っ印度化計画ぅ」などと
ナレが入って、フンイキブチコワシで
すまんですのう。



♪「another life」 美郷あき
「sad rain」カップリング

ギター・ピアノなどで演奏される
さわやかな音に導かれて
少々大人びて、透明感のある彼女の歌声がのっかる
ミディアムテンポでメジャーコードの楽曲です。
16分音符で刻まれるのが曲のサワヤカな雰囲気を
かもしだしていますし
曲が直球でサワヤカなところと
詩が等身大なところとかがあいまって
するすると心のひだにしみてくる感じの
ポップな佳曲です。
その曲を聴いているうちに
「どこかでこんな体験をしたかな」と
デジャブを覚えるような曲には
彼女がオープニングを歌っていましたが
「げんしけん」のエンディングとかでも
普通にいい感じではないでしょうか。
「げんしけん2」の時は、
オープニングを歌っていましたが
その曲(ディスアーム・ドリーマー)は
栗林みな実さんの楽曲もかくやという
サンライズっぽいアニメオープニング曲(に映像)
でしたからね。



♪「サヨナラのおまじない」栗コーダーカルテット&松本素生
TV「アリソンとリリア」Ed

松本さんの、青く、さわやかな感じの歌声の
アカペラではじまるところに
まずひきつけられますし
その後楽器が入ると、テンポが落とされていながらも
アコースティックギターが明るく響き展開をする
カレッジポップ的な世界に
次第に、栗コーダーのリコーダーの音が
フィーチャーされるのです。
栗コーダーといえば、「ピタゴラスイッチ」とか
「あずまんが」のことが思い出されます。
あと「情けないダースベーダー」とかですか。
最初は、この声にあうのかなーと思ったのですが
これが不思議とマッチをして
ある意味いい世界をかもしだしています。
転調部分とかもさわやかでして
夢・希望なんて歌詞が
てらいもなく響くのがいいですね。
番組の雰囲気にのぴったりでして
最近この手のOP・Ed曲には、
少しだけ変化球っぽい曲が採用をされることが多いで、
番組を見る楽しみの一つとなっていますね。
余談ですが、最初に楽曲を聞いたときは、
ボーカルの声がスキマスイッチの大橋さんっぽいと
思ったのですが、リコーダーの音が響くや
元「たま」の柳原幼一朗さんの歌声っぽく
聞こえてしまうのは、
リコーダーマジックというか
なんというか。




このような曲をかけているFHFですが
リクエストも受け付けています。

リクエストは、このブログのコメント欄でも
受け付けます。

よろしければ。


来月イベにむけて、作業のBGはこんな曲ばっかな
「イトー×ani」がお届けする 
FURANO History Factory (F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
コールサインJOZZ1AS-FM  周波数77.1MHz
北海道富良野市とその周辺で聴くことが出来る
コミュニティーFM局「ラジオふらの」で
来週より、毎週月曜日午後五時からオンエアー中

番組へリクエスト・メッセージは
〒076-0026 富良野市朝日町5-17
レストランふらの広場内ラジオふらの
E-mail radio@furano.ne.jp FAX 0167-22-2787

追 夏のお祭り
三日目 東 ポ06 b
「東行本舗」です。

海の日に

早咲きのラベンダーが花盛りで
しかも三連休です。
富良野地方は、観光客の方で賑わっております。

ちょっと買い物にいっても、国道を通ると
その路上の車の台数が
普段と違うのです。

当番組「FURANO History Factory」も
7月からは午後5時から放送になったということで

生放送の時は、「レストランふらの広場」の営業時間と
かさなるようになりまして

そんなお客さんの姿を見ながらの
放送になります。


7月21日オンエアー 第172回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
放送を終えました。

さてと、気が付くと北京五輪まで
あと、18日だそうです。

このオリンピックは

ほぼ東西分裂開催の様相を呈していた
モスクワ五輪にロス五輪
その前のパレスチナゲリラの襲撃をイスラエル選手団が受けた
ミュンヘン事件の起きたミュンヘン五輪などにはおとるものの、

政治的な話題が多く話題となっている気がします。

気が付いたら
聖火リレーとチベット自治の問題に
耳目が集まるようになったのですが

そんな政治的話題のなかで、早くに話題になったのが
スーダンと中国の関係を批判して

映画監督のスピルバーグ氏が、
北京オリンピック組織委員会芸術顧問を
今年の2月に辞退をしたことではないでしょうか。


先週はそんな件をふまえて、
スーダンの国のあらましをお話させてもらいましたが、


そもそも、イギリスがお得意とする分断統治で
〈印パ問題も、パレスチナ問題も、その手法こそ違いますが
20世紀のイギリス統治の残した負の遺産です。〉
ただでさえ、民族間の対立があったスーダンが混乱をし
独立後の紛争につながります。

そんな混乱の中、次のニュースの原因の
芽が出てくることになります。


まずは、19日産経新聞の記事です。

【ニューヨーク=長戸雅子】国際刑事裁判所(ICC)検察官がスーダンのバシル大統領の逮捕状を請求したことが波紋を広げている。スーダンで平和維持活動(PKO)や人道支援活動を展開する国連内には、訴追の動きが西部ダルフール地方の情勢に影響を及ぼしかねないと危惧(きぐ)する声があがっている。ダルフールで国連と合同部隊(UNAMID)を構成するアフリカ連合(AU)などは、逮捕の手続き停止に向け協力する構えだ。バシル政権を糾弾してきた欧州の世論も「安定か正義か」で割れている。

 「私の仕事は事件を調査し、証拠を裁判官に提示することだ。政治的責任はない」

 国連本部で17日に記者会見したモレノオカンポICC主任検察官は、逮捕状請求問題が論議を呼んでいることを踏まえ、訴追によるバシル体制の転換など政治的な動機はないと強調した。

 ICCは国連から独立した組織だが、設立条約には、国連安全保障理事会の決議によって捜査や訴追を凍結できるとの規定がある。スーダンのモハマド国連大使は同日、「安保理は訴追を凍結すべきだ」と述べ、ロシア、中国、AUやアラブ連合加盟国とともに協議を進めていることを明らかにした。

 ダルフールでは8日にPKO要員7人が襲撃されたばかり。国連内には逮捕状請求によって現地情勢が悪化するのではないか、との懸念が強い。潘基文事務総長もそうした懸念を表明したと一部で報じられ、事務総長が打ち消すひと幕もあった。

 スーダンのラジオは「潘事務総長がICCの逮捕状請求に深刻な懸念を示した」と伝え、ドイツを訪れていた潘事務総長は南ドイツ新聞との会見でこれを全面否定した。英紙フィナンシャル・タイムズ(ドイツ版)が「(潘氏の発言は)ICCを背後から刺すようなものだ」と批判したことに対しても、誤解に基づく見解だと一蹴し、国連にはICCの司法手続きを尊重する義務があると強調した。

 訴追という「正義」に重きをおいた同紙の主張に対し、英紙ガーディアンは「逮捕状請求はスーダンの人々を危険にさらす恐れがある」と、安定を優先する見解を示した。


こちらは15日 毎日新聞の記事です

【ブリュッセル福島良典】スーダン西部ダルフール地方の紛争をめぐり、国際刑事裁判所(ICC、オランダ・ハーグ)のモレノオカンポ主任検察官は14日、大量虐殺と「人道に対する罪」、戦争犯罪の容疑でスーダンのバシル大統領(64)の逮捕状を請求したと発表した。02年のICC設立条約発効以来、現職国家元首の逮捕状請求は初めて。スーダン政府は大統領訴追の動きに反発しており、ダルフール和平協議への影響も懸念されている。

 主任検察官は14日、バシル大統領指揮下の「部隊と要員」が少なくとも3万5000人の民間人を殺害し、「(大統領は)国家機関や軍部隊、民兵組織ジャンジャウィドを使って虐殺を犯した」と指弾する文書を法廷に提出。会見で虐殺の模様を詳述し、「ダルフールで起きたことはバシル(大統領)の意思の結果だ」と断じた。

 しかし、大統領は14日、国営テレビを通じて初めて声明を発表。「(スーダンは)ICC加盟国ではなく、ICCの権限がわが国の司法権に及ぶことはない」と、訴追を拒否した。また、スーダン政府は「ダルフール紛争に対する和平プロセスの望みを打ち砕く」とICCを批判する一方、国連との紛争解決への協力関係は維持していく方針を示した。

 ダルフール紛争は03年初めの発生後、ジャンジャウィドの住民襲撃などで約20万人が死亡。国連安保理は05年、残虐行為に関与した容疑者を訴追するよう決議し、ICCが捜査を続けていた。

 ICCは今後、判事3人で構成する予審法廷が逮捕状を発行するかどうかを決める。ただ逮捕状が出てもスーダン政府が引き渡しに応じないのは確実だ。

 バシル氏は陸軍出身で、89年のクーデターで全権を掌握。93年の民政移管に伴い大統領に就任した。

 ダルフールには現在、国連平和維持活動(PKO)である国連・アフリカ連合(AU)ダルフール合同部隊(UNAMID)が駐留しており、潘基文(バンギムン)国連事務総長は訴追の動きについて「誰も法の裁きから逃れられない」とする一方、「PKOや政治プロセスに重大な結果をもたらす」と懸念を表明した。



さて、この両方の文章に出てきた大統領の逮捕の原因となった
ダルフール紛争とはなんなのでしょうか。


ダルフール紛争とは、スーダン西部の
ダルフール地方で、2003年に衝突をして以来
2008年現在も進行中の紛争のことです。


そもそも、黒人系住民が多かったダルフール地方や
南部でしたが、第二次スーダン内戦によって
混乱をしたのですが2003年の包括和平協定で
一応の収束を見たのです。

ところが、この合意のなかの非アラブ系民族の扱いについて
公正でないことを批判し、
当時の政権に対して反乱をおこしたことがきっかけで
紛争となります。

さらに状況が悪化をしたのが
スーダン政府軍とスーダン政府に支援されたアラブ系
「ジャンジャウィード」と呼ばれる民兵が、
地域の非アラブ系住民の大規模な虐殺や
村落の破壊をしたことなのです。



ユニセフホームページの
スーダンダルフール情報には、このように書かれています。

2003年以来、何千という村人がジャンジャウィードと呼ばれる民兵組織に殺害され、略奪に遭い、レイプされ、およそ160万人の住民が国内避難民となっている現在のダルフールの状況を、国連は世界最悪レベルの人道危機とし、警告を発しています。
スーダンでは、11月9日に休戦のための2つの協定がスーダン政府と反政府勢力との間で調印されました。一つはダルフール上空に軍用機飛行禁止空域を設定すること、もう一つは人道的状況を改善することへの合意です。しかしながら、治安回復に向けてこうした前向きな1歩を踏み出したにもかかわらず、依然として紛争は止む気配を見せず、それどころか略奪や衝突はいまだ増加しています。その結果さらに多くの国内避難民を生み出し、人々は人道支援に頼らざるを得ない状況になっています。この紛争の影響を受けた住民はすでに202万人に達し、そのうち160万人が国内避難民となって家を追われています。
いま懸念されているのは、その国内避難民に警察や武装兵士が圧力をかけ強制移動させている点です。国連のアナン事務総長は、強制移動とそれに伴う暴力行為は人権侵害であり、国際法に抵触するとして、スーダン政府に対し強制移動の停止を呼びかける声明を発表しました。
また、11月下旬には休戦協定に違反する武力攻撃が激化し、人道支援物資を避難民へ届ける道が絶たれています。人道支援のために設置された栄養補給センターのおよそ50m先に爆弾が落とされるといった事態に、支援機関は職員を退避させるなど緊張状態が続いています。11月19日、国連安全保障理事会は、隣国ケニアにおいてスーダンの問題解決に向けた異例の協議を開催し、スーダン政府と反政府勢力に和平をせまる決議を採択しました。
増え続ける支援ニーズに応え、さらなる人々の移動や帰還に備えるために、今後さらに支援活動を拡大していかなければなりません。



このダルフールでのスーダンの軍事行動をはじめ
国を統括しているのが


オマル・ハサン・アフマド・アル=バシル大統領です。

大統領であり、首相であり
軍事政権のトップである人物です。

軍に入ったあと、第四次中東戦争や、スーダン内戦に動員
そして1989年のクーデターで政権を掌握し、
すべての政党や労働組合を禁止し報道を抑圧
議会を解散しました。

しかも、かつてのイギリス植民地統治と似たような
民族間の対立をあおることによって自分の権力を強化します。


スーダンの内戦で20年にわたり約100万人強の難民と
数百万の国内避難民が発生し、
約200万人が飢餓や戦闘の犠牲となったうえ

ダルフールで民兵に約7万人を虐殺させ、
2万人以上の難民を発生させたことから、
『ワシントン・ポスト』の付録誌『パレード』の
「世界最悪の独裁者ランキング」という特集記事で、
2005年〜2007年度にかけて
3年連続の第一位に選ばれました。

さて、このような紛争に
なんで中国が?
というお話ですが、


これまた15日 毎日新聞の記事です。


【ロンドン町田幸彦】英BBC放送(電子版)は14日までに、紛争が続くスーダン西部ダルフールに展開する政府軍に中国が軍用車両を提供し、中国製攻撃機の操縦士養成を支援していると報じた。BBCは国際法専門家の話として、対スーダン武器禁輸を定めた国連安保理決議1591(05年3月)に中国は違反していると指摘した。

 BBCはダルフール西部で中国の自動車企業「東風」の軍用トラック1台を反政府武装勢力が所有しているのを確認し、「昨年12月にスーダン政府軍から奪った車両だ」と目撃者が証言した。また別の中国製軍用トラック1台もビデオカメラに撮影した。いずれの軍用車も対空高射砲を備え、国連決議採択後にスーダンに送られた中国製軍用車両212台に含まれることが車の製造番号などから判明した。

 またダルフール南部で今年2月、数機の中国製攻撃機Q−5(強撃5、ファンタン)が飛行していた事実をBBCは突き止めた。同攻撃機は国連制裁決議発動の前にスーダンに渡されたとみられるが、消息筋によると中国はQ−5機操縦士を養成しているという。国際法専門家の見解では、武器禁輸決議の対象には操縦士養成などの技術支援も含まれる。



スーダンへの武器の大半は中国が輸出している一方で、
中国はスーダンから産出量の約70%の石油を輸入しています。

スーダン政府は、その武器を「ジャンジャウィード」にも供与して、
それがアフリカ系住民の虐殺に使われています。


16日産経新聞の記事によると
中国政府はICCやBBCに対して


「中国外務省の劉建超報道官は15日、定例記者会見で、国際刑事裁判所(ICC)の検察官が「人道に対する罪」などでバシル・スーダン大統領の逮捕状を請求したことについて「重大な関心と憂慮を表明する」とした上で、「ICCの政策決定はスーダンの安定とダルフール問題の適切な解決に有益であるべきだが、それと反対になっている」と批判した。また、英BBC放送がダルフールに展開する政府軍に中国が軍事援助していると報じたことについて、「(対スーダン武器禁輸を定めた)国連安保理決議に違反することはしていない。報道は不公平、不正確だ。政治的意図がある」と否定した。」


とのべていることです。

だから、何が真実かというのは
わかりかねるのですが


国連がアナン事務総長であった時代に
ダルフール問題を「重大な人道危機」とし
積極的に紛争解決に当たろうとしたのですが、
国連安保理制裁案に対し中国が拒否権を行使したこととか

現在の国連事務総長が
「紛争原因は気候変動が農業に被害を与え貧困問題を悪化させた事」
だとし、中国が石油や武器売買などの利権を守る為に
国連制裁案に拒否権を発動した事実については触れず。
大統領に対する国際刑事裁判所の逮捕状の発行にいたる過程でも
非常に消極的な態度を示した。

といったことからすると


奇妙な符号の一致を見たりするのですが…


ここらへんは、現在ネットのニュースで
私自身も、追いかけているニュースなのです。


興味のある方は、様々なニュースサイトを見ることを
オススメします。


さて来週は、オリンピックの舞台となります
北京のお話をする予定であります。



ダライ・ラマ14世の、チベットに対する提案は以下の通り。
(1987年、アメリカ議会の人権問題小委員会での「チベットに関する5項目の和平案」)

・チベット全土を平和地域とする
・チベット民族の存続を脅かす中国の人口移動政策を放棄する
・チベット民族の基本的人権および民主主義に基づく自由を尊重する
・チベットの自然環境を保護し、回復させる。チベットでの核兵器の製造、核廃棄物の投棄をしない
・チベットの将来の地位について、また、チベット人と中国人との関係について、真剣な交渉を開始する

そして、チベット人による本当の自治権が得られれば独立は求めないと譲歩しました。(1988年、「ストラスブール」提案)



このところ国際問題ばかりを取り上げて
そろそろ日本史のお話がしたいなぁ、と思っている
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追 夏のお祭り
三日目 東 ポ06 b
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7月14日のオンエアー曲

♪7月14日オンエアー 第171回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」の
番組内でオンエアーをした曲です♪


♪「JET BOY JET GIRL」 高橋瞳
TV「地球へ…」Op

ギターの16分で動くワウワウとなる感じの刻みと
ハイハットの刻みやベースの響きに
高橋さんのはっきりとした歌声乗りまして
次第に伴奏全体的に16分音符で動くようになり
曲の世界全体を盛り上げていく
テンション高めな一曲です。
彼女の歌声・旋律・伴奏・歌詞の内容が
4身一体となって、独特な浮遊感と上昇感を
聞き手にもたらしてくれて
そんなキモチよさを感じることができます。
やはり、目力のある彼女のジャケ写に代表されるように
青春の懊悩とか、そんなのを抱えつつ
あくまでもまっすぐだったりとか
そういう世界を体現している伸びやかで前向きな歌声は、
このような曲にはよくハマります。
2番の伴奏が違ったり
Cメロのでリズムがオフになり
ギターのアルペジオと歌声だけになったり
最後は完全に彼女の歌声だけになったりと
変幻自在にいろいろな仕掛けが曲中に多いのも
この曲の魅力の一つかと。
あと、余談ですが、Aメロの旋律ちょっとだけ
「卒業写真」っぽいと聞こえてしまったのは
僕がそういう年だからですか、そうですか。




♪「ことみち」 坂本真綾
「トライアングラー」カップリング

やわらかく響くピアノの音と
弦の音が静かに空気を震わせるギターの音にのせ
吐息混じりで少々かすれた感じがアジになっている、
セツナゲな歌声がよく溶け込んでいて、
涙がにじみ出てくるショートストーリーのような
一つの世界を作り上げている
スローで穏やかなナンバーです。
カップリングのトライアングラーは
アップテンポでメリハリのついた曲なのに加え
彼女の新境地ともいうべき
のびやかな高音が魅力的なのですが
こちらはまた、彼女の原点ともいうべき
やさしくささやきかけるような歌い方でして
その曲と曲の対比もいいですし、
曲の要所に出てくる、普通の歌声から
ファルセットに移行していくところが、
いいアクセントになっていて
彼女の歌声や存在をより魅力的に見せています。




♪「砂塵の彼方へ…」 Revo & 梶浦由記
「FURANO History Factory」7月のマンスリーパワープレイ
 「Dream Port」所収

この曲のキモは、まずは前半の哀調を帯びた旋律です。
イントロの部分のフラメンコギターのようなアルペジオに
ガットギターっぽい旋律を重ねるところ、
ストリングスのオーケストレーションで展開して
牧歌的な旋律での歌パートとか、
梶浦さん得意のコーラスワークとバイオリンの響きが、
乾いた哀調を感じるのです。
このような旋律に、ピアノソロも
セツナイ感じのポロンという優しげな音に
梶浦語のコーラスがのっかるのです。
このように、東欧民謡を思わせるように
穏やかに哀調をおびて進んでいく曲が
壮大な間奏の旋律部分をへて
次第に、教会音楽を思わせてくれるような
天上の音楽ともいうべきメジャーコードへとかわっていくところが
第二のキモですし、
バイオリンの旋律もエレキギターの旋律も
コーラスがかさなるところも
ユニゾンで、二人が歌うところとかも
えもいわれぬ開放感を得ることが出来て
救い、とか、癒しという言葉も自然と出てきます。
この変幻自在さと、不思議サウンドを駆使するのは
さすが、幻想楽団ことサウンドホライズンで、
多くの癒しの風景を音楽で表現をしているRevoさんと
いくつもの引き出しを駆使して
常に新しい世界を提示してくれる
梶浦サウンドの梶浦由記さんならではで
この二人の出会いという僥倖に
感謝をしなければならないのかもしれません。




♪「桜時計」 栗林みな実
「Love Jump」カップリング

横笛を思わせるような和の旋律と
ツリーチャイムの音に導かれて
ピアノの音、鼓のようなパーカッション
そしてストリングスで和テイストの旋律を
奏でるイントロに
栗林さんのキラキラとした歌声が乗ります。
サビの16分音符を多用した旋律も丁寧に
歌いこなされているので印象深く残ります。
2番でビートが刻まれるようになって
次第に曲世界を深く、広く、盛り上げていったところで
間奏に突入。間奏の鳴きのギターとも言うべき響きと
ストリングスの対旋律の組み合わせは
栗林さんのアップテンポの曲でも、
曲を壮大に盛り上げていくのに良く使われていますが
スローな曲での組み合わせというのは
ますます効果的にキモチヨク響きますし、
そして、ビートオフで彼女の歌声が
響くということでメッセージがきちんと伝わる
そんな曲構成もツボですね。
ストリングスはカップリング曲と同じ
大先生室屋ストリングスが演奏していますが
菊田さんのようなテンションがあがるような
攻撃的なストリングスの使い方ではなく、
あくまでも穏やかで曲のテーマの桜に象徴される
セツナげな世界を補完するような使い方で
こちらもいいですね。



♪「Heart Shaped Killing emotion」斎賀みつきfeat.JUST
ラジオ「今日からマ王!眞魔国放送協会-SHK-」Op

タイトでキレのあるドラムに
ザリッとしたギターのシンプルなカッティングと
骨太なベースが入って、
ゴツい音が大迫力で迫ってくる
90’sのビートパンクの要素が入った
カッチョいいイントロをへて、
軽く歪んだギターのカッティングと
タイトなドラムのビートのみにのせて
斎賀さんのおっとこまえなボーカルがのっかる、
アッパーテンポなロックナンバーです。
軽やかなAメロから、ギターのギュンとした音に導かれて
イントロ部分のように、音がゴツくなってサビへと突入。
そんなAメロ即サビという展開が
カッコいいですし
2番にあたる部分のAメロでは
シンセでボーカルをいじっているのもハマりますね。
何やってもカッコよいです。
間奏部分もギターとベースがユニゾンで
シンプルに響きのですが、そんなシンプルさが
この曲にはハマります。
彼女の歌のウマさは知っていたのですが
曲の構成といい、コードの使い方といい
シンプルに突っ走っていく
そんな曲でも、すごく映えます。
曲を聴いているだけで、彼女の熱傷が
ビジュアルとして浮かんできますが、
願わくは、実際に彼女が歌っているところとかも
見てみたいですね。




このような曲をかけているFHFですが
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追 夏のお祭り
三日目 東 ポ06 b
「東行本舗」です。

パリ祭

本日パリ祭です。

7月14日には、フランス各地で一日中花火が打ちあげられ
消防士はダンス・チームを組み、市民に披露する催しがあります。

午前中にはパリで軍事パレードが開催され、
フランス大統領の出席のもと
シャンゼリゼ通りを行進します。

そもそもこの日は、フランス革命の中でも
エポックメーキングとも言うべき
「バスティーユ襲撃」がありました。

マリーアントワネットと側近達に
質素倹約を提案したことで
支持を集めていた財務長官のネッケルが
罷免された報道を聞き
7月12日には廃兵院に押しかけて3万丁の小銃を奪い、
さらなる弾薬の調達のためにバスティーユ牢獄へと向かい
7月14日には襲撃が始まり、民衆と牢獄の守備兵が衝突。
100人以上の死傷者を出す惨事となりましたが、
バスティーユ牢獄は陥落しましたた。

因みに、同牢獄には民衆が考えていたような政治犯はおらず、

囚人は7人で「精神障害者2人」、「文書偽造犯4人」、「非行貴族1人」
とも
囚人は5名で、そのうち三人は窃盗犯、一人は狂人、
そしてもう一人は「変態伯爵」だったとも
いわれています。

にしても、

変態伯爵って…


ちなみに、直前まで収監されていたのが
サディズムの語源となったマルキ・ド・サドでしたが。

たぶん、この時は、修道院に移送されていたという
説が正しいようです。

ちなみに、この日をパリ祭と言っているのは
日本だけで、フランスでは単に7月14日と
よばれていますが、「7月14日」というフランス映画に
「巴里祭」というタイトルをつけた
映画が当たったことから

こう呼ばれるようになりました。

「巴里」と聞いて、すぐ「ゲキテイ」と思う人は
お友達になりましょう。



7月14日オンエアー 第171回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
放送を終えました。

先週まではサミットの話題でしたが

サミットが終わりますと
ニュースは次第にオリンピックの話題が
多くなってきたような気がします。


北京オリンピックというと、やはり聖火リレーと
その前後のチベット独立運動によって

政治的な話題が多いオリンピックという
イメージが強くなりました。


その他日本にとっては、毒入り餃子とか
反日デモ・愛国無罪といった単語もあわせて
結構耳に入って来ました。


そんな北京オリンピックの政治性について
多くの人が最初に意識したのは

映画監督のスティーヴン・スピルバーグが
要請されていた、北京オリンピック組織委員会芸術顧問を
今年の2月に辞退をしたことではないでしょうか。


これの理由が、
2007年4月、彼が中華人民共和国の胡錦濤国家主席に
ダルフール紛争を収拾させるため、
スーダン政府に圧力をかけるよう書簡を送ったのですが

黙殺され、紛争への対応を継続したことを批判し
辞退をしたのです。



さて、このは少し前の新聞の社説ですが
今回のテーマに関係があるので紹介します。


スーダンPKO―腰が引けすぎていないか 7/1朝日新聞社説

福田首相が潘基文国連事務総長との会談で、スーダン南部での国連平和維持活動(PKO)に自衛官を派遣すると表明した。
 自衛隊がアフリカでのPKOに参加するのは93年5月のモザンビーク以来である。94年、ルワンダ難民の救援で旧ザイールに派遣された際は、PKOの枠外での協力だった。
 アフリカ支援に力を入れてきた日本政府として、久々に人的な貢献に踏み出すのは評価する。
 それにしても腰が引けすぎてはいないか。政府によると、派遣するのは国連スーダン派遣団(UNMIS)の、首都ハルツームにある司令部で、連絡調整などの任務にあたる自衛官数人を出すことを検討するという。
 スーダン派遣団には現在、欧米や途上国など69カ国から約1万人の軍隊や警察が派遣され、難民の帰還支援や停戦監視にあたっている。比較的治安がいいとされ、かねて日本の参加を望む声が国連にあったところだ。
 スーダンでは80年代初めから、20年以上にわたって内戦が続いた。05年に包括和平が合意され、国連PKOが派遣された。これとは別に、5年前から西部のダルフール地方でも紛争が続く。住民が政府系の民兵に組織的な迫害を受けるなど人道問題として国際社会の関心が高い。
 スーダンはアフリカでの平和構築を語る時の象徴のような存在でもある。
 それだけに、福田首相や外務省はスーダンPKOへの参加に前向きだった。ダルフールはまだ危険すぎるが、南部ならばという判断だろう。だが、防衛省は治安などを理由にまとまった部隊を出すことに慎重で、結局、少数の司令部要員を出すという今回の折衷策に落ち着いたようだ。
 派遣部隊の安全にこだわる防衛省の立場は分かる。だが、部隊の派遣が既成事実になりかねないとばかりに、調査団を出すことにも消極的だったのはいただけない。
 イラクで活動を続ける航空自衛隊やサマワに駐留した陸上自衛隊に、100%の安全が保障されていたわけではない。憲法上の疑義さえあった。同盟国米国の期待があれば踏み出すのに、国連のPKOとなると「危ないから」といって腰を引くのでは、日本の姿勢が問われる。
 国連の統計によれば、日本は国連PKO予算の17%を負担しているのに、部隊や警察官の派遣数では全体の0.04%の36人。119カ国中の83位だ。武器使用基準の見直しなど防衛省にも言い分はあろうが、首相が「平和協力国家」を唱える国として、これはいかに何でも少なすぎないか。
 今回の司令部派遣を手がかりに、現地の安全状況や要請をよく調べ、日本の役割を広げることを考えるべきだ。


まぁ、朝日がこのような社説を書くのは
結構珍しい気がするのですが


さて


今回問題になっている、スーダンですが


エジプトの南にある国で
面積は日本の7倍、
世界10位ということで、アフリカでは一番大きい国です。


一部紅海に面しているものの
南北をナイル川(白ナイル)に貫流された
内陸部分の多い国です。

で、アフリカで面積が広いということは
民族紛争が多いということをも意味します。


もともとスーダンとは
アラビア語で「黒い人」という意味で
北アフリカのアラブ人から見て
南部に住む人が居る広い地域を
さしていました。



北隣にあるのが、エジプトであるとは
少し前で述べていますが、

エジプトは、ウマイヤ朝に始まり
アイユーブ朝とかマムルーク朝など

イスラム王朝が続きました。

その後オスマン帝国の属州時代を経て
ナポレオンの遠征をきっかけに
近代化を図ります。


ナポレオン遠征といえば
ピラミッドを見て勝手なことを言ったり
ロゼッタストーンをパクったりしたアレですが、

この後の混乱をおさめた軍人ムハンマド・アリーにより、

土地を国有化して、輸出向けの綿花産業の奨励や
それをもとでとして軍の近代化をしたり
ヨーロッパの技術を導入して工業化をします。

これが、アリーの近代化政策ですが、

近代化された軍によって、スーダンに侵攻し
スーダン北部はエジプト領になったのが1821年
そして、アリーの死後
エジプト自体がイギリスの保護下におかれると

イギリスの力を借りて
どんどん支配を広げていきます。


1883年、一時期だけ
エジプト・イギリス軍を撃退した時期もありましたが

1898年当時アフリカ大陸縦断政策をとるイギリス軍と
アフリカ大陸横断政策をとるフランス軍が
ナイル河畔のファショダ村で衝突をするかもしれないところを
フランス軍が回避をしたことにより
仇敵であったイギリスとフランスがドイツにそなえ
手を組むきっかけとなった、いわゆるファショダ事件を経て

1899年から再びエジプト・イギリス軍の支配下になります。


まぁ、交通の要所でもあったということです。

しかも、この時のイギリス・エジプトは
1924年以降、南北で分断をして
統治する手法をとりました。

この時は、徹底して
南部の住民は北部へ行かせず、
北部の住民は南部へ行かせなかったという政策をとった

と、いうことで北部のアラブ系住民を中心とした世界と
南部のアフリカ系住民を中心とした世界が
できあがってしまったのです。


この後、引き起こされた独立運動の成果により
自治政府が発足したのが1954年
独立をしたのが1956年でした。

しかし、独立運動の主体と、自治政府が
北部のイスラム教徒中心であったために、


南北で内戦が起きたのが、第一次内戦
1972年のアジスアベバ合意によって
これは停戦しますが、

この時のヌメイリ政権が
合意に反してイスラム法を
南部に強要したことによって

再び内戦がおきました。

これが第二次内戦で
約190万人が死亡し
400万人以上が家を逐われました。

しかも、このような複雑な対立を
さらにややこしくしているのが

ダルフール紛争と
スーダンの石油の利権なのですが

この問題にいかに中国が絡んでくるのか
というお話は、

時間となりましたので
また来週であります。



ダライ・ラマ14世の、チベットに対する提案は以下の通り。
(1987年、アメリカ議会の人権問題小委員会での「チベットに関する5項目の和平案」)

・チベット全土を平和地域とする
・チベット民族の存続を脅かす中国の人口移動政策を放棄する
・チベット民族の基本的人権および民主主義に基づく自由を尊重する
・チベットの自然環境を保護し、回復させる。チベットでの核兵器の製造、核廃棄物の投棄をしない
・チベットの将来の地位について、また、チベット人と中国人との関係について、真剣な交渉を開始する

そして、チベット人による本当の自治権が得られれば独立は求めないと譲歩しました。(1988年、「ストラスブール」提案)



このところ国際問題ばかりを取り上げている「イトー×ani」がお届けする 
FURANO History Factory (F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
コールサインJOZZ1AS-FM  周波数77.1MHz
北海道富良野市とその周辺で聴くことが出来る
コミュニティーFM局「ラジオふらの」の
毎週月曜日午後五時からオンエアー中

番組へリクエスト・メッセージは
〒076-0026 富良野市朝日町5-17 レストランふらの広場内ラジオふらの
E-mail radio@furano.ne.jp FAX 0167-22-2787

リクエストなどは
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