8月に入って
気が付くと北京五輪まで
あと、18日だそうです。
と前回放送時に書いていましたが
あれから二週間がたっていますから
当然4日前です。
今回は、中国で縁起がよいとされている数字
8を揃えた、8月8日に開会式。
と、いうことで、最初はそんな話を
する予定だったのですが、
8月4日オンエアー 第173回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
放送を終えました。
最近、ニュースで話題となっているのが
竹島をめぐる問題です。
そんな話題となる頻度が増えるとともに
色々な人に説明を求められるようになりました。
で、説明をしているうちに
一番端的にまとまっていて
時系列をおって説明できるのが
外務省のホームページでした。
これが、日本国の正式見解ですから
間違いないでしょう。
と、いうことで
文部省のホームページに掲載されいた
以下の文章を
番組内で、読ませてもらいました
竹島の領有権に関する我が国の一貫した立場
1.竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに我が国固有の領土です。
2.韓国による竹島の占拠は、国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり、韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではありません。
※韓国側からは、我が国が竹島を実効的に支配し、領有権を確立した以前に、韓国が同島を実効的に支配していたことを示す明確な根拠は提示されていません。
1.竹島の認知
今日の竹島は、我が国では明治時代の初め頃までは「松島」の名前で呼ばれており、当時「竹島」(または「磯竹島」)と呼ばれていたのは、現在の鬱陵島のことでした。しかし、我が国が、古くから「竹島」や「松島」をよく認知していたことは、多くの文献や地図等により明白です。
(例えば、経緯線を投影した刊行日本図として最も代表的な長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(1779年)ほか、鬱陵島と竹島を朝鮮半島と隠岐諸島との間に的確に記載している地図は多数存在します。)
【日本における竹島の認知】
1.概説
現在の竹島は、かつて「松島」と呼ばれ、逆に鬱陵島が「竹島」や「磯竹島」と呼ばれていました。この後、ヨーロッパの探検家等による鬱陵島の測位の誤りにより島名が混乱することになりますが、1880(明治13)年、日本政府は鬱陵島の現地調査を行って島名の整合性を確認するとともに、1905年に「松島」(現在の竹島)を島根県に編入する際、その混乱を防ぐ観点から、現在の竹島を「竹島」と正式に命名しました。
竹島や鬱陵島の名称については、一時的な混乱があったものの、我が国が「竹島」と「松島」の存在を古くから承知していたことは各種の文献からも確認できます。
2.ヨーロッパ探検家等による測位の誤り
(1)1787年、フランスの航海家ラ・ペルーズが鬱陵島に至り、これを「ダジュレー(Dagelet)島」と命名しました。続いて、1789年には、イギリスの探検家コルネットも鬱陵島を発見しましたが、彼はこの島を「アルゴノート(Argonaut)島」と名付けました。しかし、ラ・ペルーズとコルネットが測定した鬱陵島の経緯度にはズレがあったことから、その後にヨーロッパで作成された地図には、鬱陵島があたかも別の2島であるかのように記載されることとなりました。
(2)1840年、長崎出島の医師シーボルトは「日本図」を作成しました。
彼は、隠岐島と朝鮮半島の間には西から「竹島」(現在の鬱陵島)、「松島」(現在の竹島)という2つの島があることを日本の諸文献や地図により知っていました。その一方、ヨーロッパの地図には、西から「アルゴノート島」「ダジュレー島」という2つの名称が並んでいることも知っていました。このため、彼の地図では「アルゴノート島」が「タカシマ」、「ダジュレー島」が「マツシマ」と記載されることになりました。これにより、それまで一貫して「竹島」又は「磯竹島」と呼ばれてきた鬱陵島が、「松島」とも呼ばれる混乱を招くこととなりました。
(3)このように、我が国内では、古来の「竹島」、「松島」に関する知識と、その後に欧米から伝えられた島名が混在していましたが、その最中に「松島」を望見したとする日本人が、同島の開拓を政府に願い出ました。政府は、島名の関係を明らかにするため1880(明治13)年に現地調査を行い、同請願で「松島」と称されている島が鬱陵島であることを確認しました。
(4)以上の経緯をふまえ、鬱陵島は「松島」と称されることとなったため、現在の竹島の名称をいかにするかが問題となりました。このため、政府は島根県の意見も聴取しつつ、1905(明治38)年、これまでの名称を入れ替える形で現在の竹島を正式に「竹島」と命名しました。
【韓国における竹島の認知】
1.概説
韓国側は、朝鮮の古文献に出てくる「于山(うざん)島」等の島が今日の竹島であると主張しています。しかし、この「于山島」等が今日の竹島に該当していることを確かに裏付ける根拠を見いだすことはできません。
2.韓国側の主張
(1)韓国側は、朝鮮の古文献「世宗実録地理誌」(1454年)や「新増東国輿地勝覧」(1531年)などの記述をもとに、「鬱陵島」と「于山島」という二つの島を古くから認知していたのであり、その「于山島」こそ今日の竹島であると主張しています。
(2)しかし、この「新増東国輿地勝覧」ですら、「于山島」と「鬱陵島」の二島説をとりつつ、一島二名の可能性を示唆する文言を含んでいます。また、その他の朝鮮の古文献には、「于山島」は鬱陵島の別名であり、そもそも同一の島を指しているとするものもあります。
(3)さらに、朝鮮の古文献中にある「于山島」の記述には、その島には多数の人々が住み、大きな竹を産する等、竹島の実状に見合わないものがあり、むしろ、鬱陵島を想起させられるものとなっています。
(4)なお、「新増東国輿地勝覧」に添付された地図には、鬱陵島と「于山島」が別個の2つの島として記述されています。もし、韓国側が主張するように「于山島」が竹島を示すのであれば、この島は、鬱陵島の東方に、鬱陵島よりもはるかに小さな島として描かれるはずです。しかし、この地図における「于山島」は、鬱陵島とほぼ同じ大きさで描かれ、さらには朝鮮半島と鬱陵島の間(鬱陵島の西側)に位置している等、全く実在しない島であることがわかります。
2.竹島の領有
我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立していたと考えられます。この当時、鳥取藩米子の大谷・村川両家は、鬱陵島への渡海を幕府から公認され、交互に毎年1回、同島に渡海して漁労や竹木の伐採等を行うとともに、これによって得られた鮑(あわび)を幕府に献上してきました。この間、今日の竹島は、鬱陵島への渡海の船がかりの地として、また、漁採地として利用されていました。
【鬱陵島への渡海免許】
1.概説
日本人による竹島に関する知見は、鬱陵島の開発の歴史と不可分の関係にあります。鳥取藩の町人が幕府より鬱陵島への渡海免許を受け、その公認のもとに同島の開発に乗り出すことになった17世紀前半以降、同島への途次にあたる竹島もまた、漁業等に利用されるようになりました。
2.鬱陵島への渡海免許と竹島の利用
(1)1618年、鳥取藩伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛は、同藩主を通じて幕府から鬱陵島(当時の「竹島」)への渡海免許を受けました。これ以降、両家は交替で毎年年1回鬱陵島に渡航し、あわびの採取、あしかの捕獲、竹などの樹木の伐採等に従事しました。
(2)両家は、将軍家の葵の紋を打ち出した船印をたてて鬱陵島で漁猟に従事し、採取したあわびについては将軍家等に献上するのを常としており、いわば同島の独占的経営を幕府公認で行っていました。
(3)この間、隠岐から鬱陵島への道筋にある竹島は、航行の目標として、途中の船がかりとして、また、あしかやあわびの漁獲の好地として自然に利用されるようになりました。
(4)なお、当時、幕府が鬱陵島や竹島を外国領であると認識していたのであれば、鎖国令を発して日本人の海外への渡航を禁止した1635年には、これらの島に対する渡海を禁じていたはずですが、そのような措置はなされませんでした。
3.鬱陵島への渡海禁止
大谷・村川両家による鬱陵島の開発は約70年間平穏に続けられていました。しかし、1692年に村川家が、また、1693年に大谷家が鬱陵島に出向くと、多数の朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事しているのに遭遇しました。これを契機に、日本と朝鮮の政府間で鬱陵島の領有権を巡る交渉が開始されましたが、最終的に幕府は、1696年1月、鬱陵島への渡海を禁止することとしました(いわゆる「竹島一件」)。ただし、竹島への渡航は禁じませんでした。
【竹島一件】
1.いわゆる「竹島一件」
(1)幕府より鬱陵島への渡海を公認された米子の大谷・村川両家は、約70年にわたり、他から妨げられることなく独占的に事業を行っていました。
(2)1692年、村川家が鬱陵島におもむくと、多数の朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事しているのに遭遇しました。また、翌年には、今度は大谷家が同じく多数の朝鮮人と遭遇したことから、安龍福(アン・ヨンボク)、朴於屯(パク・オドゥン)の2名を日本に連れ帰ることとしました。なお、この頃の朝鮮王朝は、同国民の鬱陵島への渡航を禁じていました。
(3)状況を承知した幕府の命を受けた対馬藩は、安と朴の両名を朝鮮に送還するとともに、朝鮮に対し、同国漁民の鬱陵島への渡海禁制を要求する交渉を開始しました。しかし、この交渉は、鬱陵島の帰属をめぐって意見が対立し合意を得るにいたりませんでした。
(4)対馬藩より交渉決裂の報告を受けた幕府は、1696年1月、「鬱陵島には我が国の人間が定住しているわけでもなく、同島までの距離から見ても朝鮮領であると判断される。無用の小島をめぐって隣国との好を失うのは得策ではない。鬱陵島を奪ったわけではないので、ただ渡海を禁じればよい」と鬱陵島への渡海を禁止することを決定し、これを朝鮮側に伝えるよう対馬藩に命じました。
この鬱陵島の帰属をめぐる交渉の経緯は、一般に「竹島一件」と称されています。
(5)なお、幕府が鬱陵島への渡航を禁じる決定をした後、安龍福は再び我が国に渡来しました。この後、再び朝鮮に送還された安龍福は、鬱陵島への渡航の禁制を犯した者として朝鮮の役人に取り調べを受けますが、この際の安の供述は、現在の韓国による竹島の領有権の主張の根拠の1つとして引用されることになります。
2.安龍福の供述とその疑問点
(1)韓国側の文献によれば、安龍福は、来日した際、鬱陵島及び竹島を朝鮮領とする旨の書契を江戸幕府から得たものの、対馬の藩主がその書契を奪い取ったと供述したとされています。しかし、日本側の文献によれば、安龍福が1693年と1696年に来日した等の記録はありますが、韓国側が主張するような書契を安龍福に与えたという記録はありません。
(2)さらに、韓国側の文献によれば、安龍福は、1696年の来日の際に鬱陵島に多数の日本人がいた旨述べたとされています。しかし、この来日は、幕府が鬱陵島への渡航を禁じる決定をした後のことであり、当時、大谷・村川両家はいずれも同島に渡航していませんでした。
(3)安龍福に関する韓国側文献の記述は、同人が、国禁を犯して国外に渡航し、その帰国後に取調を受けた際の供述によったものです。その供述には、上記に限らず事実に見合わないものが数多く見られますが、それらが、韓国側により竹島の領有権の根拠の1つとして引用されてきています。
4.竹島の島根県編入
1904(明治37)年9月、島根県在住の中井養三郎は、内務・外務・農商務の三大臣に対し、「りやんこ島領土編入並に貸下願」を提出しました(「りやんこ島」とは、竹島を「リアンクール島」とする洋名の俗称です。)。これは、竹島でアシカ漁を行っていた中井が、過当競争の状態にあったアシカの乱獲を防止すること、また、竹島の領有権を明確にすることにより他国とのトラブルを避けることを目的として政府に提出したものです。これを受けた政府は、島根県の意見を聴取しつつ、1905(明治38)年1月28日の閣議決定をもって竹島を領有する意思を再確認するとともに、同島を「島根県所属隠岐島司ノ所管」と明確にしました。この後、竹島でのアシカ漁は許可制となり、第二次大戦によって1941(昭和16)年に中止されるまで続けられました。
1.概説
1905(明治38年)1月、政府は閣議決定により竹島を領有する意思を再確認した上で、これを「島根県所属隠岐島司ノ所管」と定めるとともに、その名称を「竹島」と命名しました。
2.経緯
(1)今日の竹島において、あしかの捕獲が本格的に行われるようになったのは、1900年代初期のことでした。しかし、間もなくあしかは過当競争の状態となったことから、島根県隠岐島民の中井養三郎は、その事業の安定を図るため、1904(明治37)年9月、内務・外務・農商務三大臣に対して「りやんこ島」(注:竹島の洋名「リアンクール島」の俗称)の領土編入及び10年間の貸し下げを願い出ました。
(2)中井の出願を受けた政府は、島根県の意見を聴取の上、竹島を隠岐島庁の所管として差し支えないこと、「竹島」の名称が適当であることを確認しました。これをもって、1905(明治38)年1月、閣議決定によって同島を「隠岐島司ノ所管」と定めるとともに、「竹島」と命名し、この旨を内務大臣から島根県知事に伝えました。
(3)島根県知事は、この閣議決定及び内務大臣の訓令に基づき、1905(明治38)年2月、竹島が「竹島」と命名され隠岐島司の所管となった旨を告示するとともに、隠岐島庁に対してもこれを伝えました。なお、これらは当時の新聞にも掲載され広く一般に伝えられました。
(4)また、島根県知事は、竹島が「島根県所属隠岐島司ノ所管」と定められたことを受け、竹島を官有地台帳に登録するとともに、あしかの捕獲を許可制としました。あしかの捕獲は、その後、1941(昭和16)年まで続けられました。
(5)なお、朝鮮では、1900年の「大韓帝国勅令41号」により、鬱陵島を鬱島と改称するとともに島監を郡守とする旨公布した記録があるとされています。そして、この勅令の中で、鬱陵郡が管轄する地域を「鬱陵全島と竹島、石島」と規定しており、この「竹島」は鬱陵島の近傍にある「竹嶼」という小島であるものの、「石島」はまさに現在の「独島」を指すと指摘する研究者もいます。その理由は、韓国の方言で「トル(石)」は「トク」とも発音され、これを発音どおりに漢字に直せば「独島(トクド)」につながるためというものです。
(6)しかし、「石島」が今日の竹島(「独島」)であるならば、なぜ勅令で「独島」が使われなかったのか、また、韓国側が竹島の旧名称であると主張する「于山島」等の名称が使われなかったのかという疑問が生じます。
いずれにせよ、仮にこの疑問が解消された場合であっても、同勅令の公布前後に、朝鮮が竹島を実効的に支配してきたという事実はなく、韓国による竹島の領有権は確立していなかったと考えられます。
5.第二次大戦直後の竹島
1946(昭和21)年1月、連合国総司令部により発せられた「若干の外郭地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する覚書」(SCAPIN第677号)により、竹島は、日本が政治上又は行政上の権力を停止すべき特定地域の1つとされました。また、同年6月には、いわゆる「マッカーサー・ライン」の設定に関する「日本の漁業及び捕鯨業許可区域に関する覚書」(SCAPIN第1033号)が発せられ、竹島は、日本漁船の操業区域外の地域として指定されました。しかし、これらの連合国総司令部覚書の文中には、いずれも日本国領土帰属の最終的決定に関するものではないことが明記されており、これらが竹島を日本の領土から除外したものではないことは明らかです。
【第二次大戦直後の連合国による竹島の扱い】
1.概説
連合国は占領下の日本に対し、政治上または行政上の権力の行使を停止すべき地域、また、漁業及び捕鯨を行ってはならない地域を指令し、この中に竹島を含めました。しかし、これらの連合国による規定には、いずれもこれは領土帰属の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない旨が明記されています。
2.連合国総司令部覚書(SCAPIN)
(1)SCAPIN第677号
(イ)1946(昭和21)年1月、連合
国はSCAPIN第677号をもって、一部の地域に対し、日本国政府が政治上または行政上の権力を行使すること及び行使しようと企てることを暫定的に停止するよう指令しました。
(ロ)その第3項には、「この指令において、日本とは、日本四大島(北海道、本州、九州及び四国)及び約一千の隣接諸小島を含むものと規定される。右隣接諸小島は、対馬及び北緯30度以北の琉球(南西)諸島(口ノ島を除く)を含み、また次の諸島を含まない」とし、日本が政治上・行政上の権力を行使しうる地域に「含まない」地域として鬱陵島や済州島、あるいは伊豆、小笠原群島等に並び竹島も列挙しました。
(ハ)しかし、同第6項には、「この指令中のいかなる規定も、ポツダム宣言の第8項に述べられている諸小島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない」(ポツダム宣言第8項:「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」)と明記されています。
(2)SCAPIN第1033号
(イ)1946(昭和21)年6月、連合国は、いわゆる「マッカーサー・ライン」を規定するSCAPIN第1033号をもって、日本の漁業及び捕鯨許可区域を定めました。
(ロ)その第3項には、「日本船舶又はその乗組員は竹島から12マイル以内に近づいてはならず、またこの島との一切の接触は許されない。」と記されました。
(ハ)しかし、同第5項には、「この許可は、当該区域又はその他のいかなる区域に関しても、国家統治権、国境線又は漁業権についての最終的決定に関する連合国の政策の表明ではない。」と明記されています。
3.SCAPINの効果
「マッカーサー・ライン」は、1952(昭和27)年4月に廃止が指令され、またその3日後の4月28日には平和条約の発効により、行政権停止の指令等も必然的に効力を失うこととなりました。
韓国側は、上記SCAPINをもって、連合国は竹島を日本の領土と認めていなかったとし、韓国による竹島の領有権の根拠の1つとしています。しかし、いずれのSCAPINにおいても領土帰属の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならないことが明示されており、そのような指摘が全く当たらないことは明らかです。
なお、我が国の領土を確定したのは、その後に発効したサンフランシスコ平和条約です。このことからも、同条約が発効する以前の竹島の扱いにより、竹島の帰属の問題が影響を受けるということがないことは明らかです。
6.サンフランシスコ平和条約起草過程における竹島の扱い
1952(昭和27)年4月に発効した「日本国との平和条約」、いわゆる「サンフランシスコ平和条約」の草案起草過程において、韓国は米国に対し、日本が権利、権原及び請求権を放棄する地域の1つに竹島を加えるよう要求しました。これに対し米国は、かつて竹島は朝鮮領土として扱われたことはなく、朝鮮によって領有権が主張されたとも思われない旨回答し、この要求を受け入れませんでした。
サンフランシスコ平和条約における竹島の扱い
1.概説
1952年1月、韓国は「海洋主権宣言」を行い、いわゆる「李承晩ライン」を公海上に線引きして、国際法に反して同ラインの内側の広大な水域への漁業管轄権を一方的に主張するとともに、竹島をそのライン内に取込みました。韓国はその後、SCAPIN677やSCAPIN1033を根拠に、連合国もまた竹島を韓国領土であると認めていたとの主張をしています。しかし、李承晩ラインの設定に先立つ「日本国との平和条約」(サンフランシスコ平和条約)の草案起草過程において、日本が放棄すべき地域の1つに竹島を明記するよう要求した韓国政府に対し、米国は、竹島は「朝鮮の一部として取り扱われたことがなく」、「かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない」として、明確に韓国側の主張を否定しています。
2.経緯
(1)1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約は、日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定しました。
(2)この部分に関する米英両国による草案内容を承知した韓国は、同年7月、梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソン米国務長官宛の書簡を提出しました。その内容は、「我が政府は、第2条a項の『放棄する』という語を『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換えることを要望する。」というものでした。
(3)この韓国側の意見書に対し、米国は、同年8月、ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡をもって以下のとおり回答しました。
「・・・合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。・・・・」
これらのやり取りを踏まえれば、竹島は我が国の領土であるということが肯定されていることは明らかです。
7.「李承晩ライン」の設定
1952(昭和27)年4月、連合国総司令部は「マッカーサー・ライン」を撤廃し、その直後には「サンフランシスコ平和条約」が発効しました。しかし、これに先立つ同年1月、李承晩韓国大統領は「海洋主権宣言」を行って、いわゆる「李承晩ライン」を国際法に反して一方的に設定し、そのライン内に竹島を取り込みました。
韓国側の措置は、公海上における違法な線引きであり、また、竹島の領有権に関する我が国の立場と相容れません。これ以降、我が国としては、竹島が日本の領土であることを裏付ける根拠等を提示しつつ、機会あるごとに韓国政府に対して抗議を重ねています。
8.米軍爆撃演習場としての竹島
1952(昭和27)年7月、日米安全保障条約の実施のために設立された日米合同委員会は、日米行政協定(当時)に基づき、在日米軍の使用する海上演習及び訓練区域の1つとして竹島を指定しました。この合同委員会の協議の対象となるのは「日本国内の施設又は区域」と規定されていたことからしても、竹島が「日本国内の」施設又は区域として扱われていたことが理解できます。
米軍爆撃演習場としての竹島
1.概説
1952(昭和27)年、竹島は、在日米軍の使用する海上演習及び訓練区域の1つとして指定されました。この指定が、「日本国内の施設又は区域」を協議対象とする日米合同委員会により行われたことを見ても、竹島が日本の領土として扱われていたことは明らかです。
2.経緯
(1)我が国がいまだ占領下にあった1950(昭和25)年7月、連合国総司令部は、SCAPIN第2160号をもって、竹島を米軍の海上爆撃演習地区として指定しました。
(2)1952(昭和27)年7月、米軍が引き続き竹島を訓練場として使用することを希望したことを受け、日米安全保障条約の実施のために設立された日米合同委員会は、日米行政協定(注:旧日米安保条約に基づく取り決め。現在の「日米地位協定」に引き継がれる。)に基づき、在日米軍の使用する海上演習及び訓練区域の1つとして竹島を指定するとともに、外務省はその旨を告示しました。
(3)しかし、竹島周辺海域におけるあしかの捕獲、あわびやわかめの採取を望む地元からの強い要請があること、また、米軍も同年冬から竹島の爆撃演習場としての使用を中止していたことから、1953(昭和28)年3月の合同委員会において、同島を演習場区域から削除することが決定されました。
(4)日米安全保障条約及び行政協定によれば、日米合同委員会の協議の対象となるのは「日本国内の施設又は区域」とされていました。したがって、竹島がこの委員会で協議され、かつ、在日米軍の使用する区域としての決定を受けているということは、とりも直さず竹島が日本の領土であることを示しています。
9.韓国による竹島占拠
1953(昭和28)年3月、日米合同委員会で竹島の演習区域からの解除が決定しました。これにより、竹島での漁業が再び行われることとなりましたが、韓国人も竹島やその周辺で漁業に従事していることが確認されました。同年7月には、不法漁業に従事している韓国漁民に対し竹島から撤去するよう要求した海上保安庁巡視船が、韓国漁民を援護していた韓国官憲によって銃撃されるという事件も発生しました。
翌1954(昭和29)年6月、韓国内務部は「韓国沿岸警備隊は、竹島を日本の侵略から守るため、駐留部隊を同島に急派した。」と発表しました。なお、同年8月には、竹島周辺を航行中の海上保安庁巡視船が同島から銃撃され、これにより韓国の警備隊が竹島に駐留していることが確認されました。また、この際、韓国側により竹島に灯台が建設されていることを確認しました。
10.国際司法裁判所への提訴の提案
韓国による「李承晩ライン」の設定以降、韓国側が行う竹島の領有権の主張、漁業従事、巡視船に対する射撃、構築物の設置等につき、我が国は累次にわたり抗議を積み重ねました。そして、この問題の平和的手段による解決を図るべく、1954(昭和29)年9月、我が国は韓国側に対してこの紛争を国際司法裁判所に付託することにつき提案しました。しかし、同年10月、韓国側はこの提案を拒否しました。また、1962(昭和37)年3月の日韓外相会談の際にも、我が国としては同様の提案を行いましたが、韓国側からは前向きな反応が得られませんでした。
国際司法裁判所への提訴
1.国際司法裁判所は、紛争の両当事者が同裁判所において解決を求めるという合意があって初めて動き出すという仕組みになっています。したがって、仮に我が国が一方的に提訴を行ったとしても、韓国側がこれに応ずる義務はなく、韓国が自主的に応じない限り国際司法裁判所の管轄権は設定されないこととなります。
2.我が国は、1954(昭和29)年9月、口上書をもって竹島の領有権問題につき国際司法裁判所に提訴することを韓国側に提案しましたが、韓国はこれに応じませんでした。また、1962(昭和37)年3月の日韓外相会談の際にも、小坂善太郎外務大臣より崔徳新韓国外務部長官に対し、本件問題を国際司法裁判所に付託することを提案しましたが、韓国はこれを受け入れず、現在に至っています。
11.竹島の近況
韓国側は、引き続き警備隊員を常駐させるとともに、宿舎や監視所、灯台、接岸施設等を構築しています。このような行為は、何ら法的な正当性を有しない不法な占拠であり、竹島の領有権を巡る我が国の立場に照らして決して容認できるものではありません。我が国としては、竹島をめぐり韓国側が何らかの措置等を行う毎に厳重な抗議を重ねるとともに、その撤回を求めてきています。
【韓国本土からの竹島入域自粛について】
韓国による竹島の不法占拠が続いている状況の中で、我が国国民が韓国本土を経由する等により竹島に入域することは、このような我が国国民が竹島において韓国側の管轄権に服することを認めたとか、竹島に対する韓国の領有権を認めたというような誤解を与えかねません。この点につき、国民の皆様の御理解と御協力をお願いいたします。
URLはこちらです。興味があれば
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/gaiyo.html
ダライ・ラマ14世の、チベットに対する提案は以下の通り。
(1987年、アメリカ議会の人権問題小委員会での「チベットに関する5項目の和平案」)
・チベット全土を平和地域とする
・チベット民族の存続を脅かす中国の人口移動政策を放棄する
・チベット民族の基本的人権および民主主義に基づく自由を尊重する
・チベットの自然環境を保護し、回復させる。チベットでの核兵器の製造、核廃棄物の投棄をしない
・チベットの将来の地位について、また、チベット人と中国人との関係について、真剣な交渉を開始する
そして、チベット人による本当の自治権が得られれば独立は求めないと譲歩しました。(1988年、「ストラスブール」提案)
このところ国際問題ばかりを取り上げて
そろそろ日本史のお話がしたいなぁ、と思っている
「イトー×ani」がお届けする
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受け付けています。
あと、18日だそうです。
と前回放送時に書いていましたが
あれから二週間がたっていますから
当然4日前です。
今回は、中国で縁起がよいとされている数字
8を揃えた、8月8日に開会式。
と、いうことで、最初はそんな話を
する予定だったのですが、
8月4日オンエアー 第173回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
放送を終えました。
最近、ニュースで話題となっているのが
竹島をめぐる問題です。
そんな話題となる頻度が増えるとともに
色々な人に説明を求められるようになりました。
で、説明をしているうちに
一番端的にまとまっていて
時系列をおって説明できるのが
外務省のホームページでした。
これが、日本国の正式見解ですから
間違いないでしょう。
と、いうことで
文部省のホームページに掲載されいた
以下の文章を
番組内で、読ませてもらいました
竹島の領有権に関する我が国の一貫した立場
1.竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに我が国固有の領土です。
2.韓国による竹島の占拠は、国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり、韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではありません。
※韓国側からは、我が国が竹島を実効的に支配し、領有権を確立した以前に、韓国が同島を実効的に支配していたことを示す明確な根拠は提示されていません。
1.竹島の認知
今日の竹島は、我が国では明治時代の初め頃までは「松島」の名前で呼ばれており、当時「竹島」(または「磯竹島」)と呼ばれていたのは、現在の鬱陵島のことでした。しかし、我が国が、古くから「竹島」や「松島」をよく認知していたことは、多くの文献や地図等により明白です。
(例えば、経緯線を投影した刊行日本図として最も代表的な長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(1779年)ほか、鬱陵島と竹島を朝鮮半島と隠岐諸島との間に的確に記載している地図は多数存在します。)
【日本における竹島の認知】
1.概説
現在の竹島は、かつて「松島」と呼ばれ、逆に鬱陵島が「竹島」や「磯竹島」と呼ばれていました。この後、ヨーロッパの探検家等による鬱陵島の測位の誤りにより島名が混乱することになりますが、1880(明治13)年、日本政府は鬱陵島の現地調査を行って島名の整合性を確認するとともに、1905年に「松島」(現在の竹島)を島根県に編入する際、その混乱を防ぐ観点から、現在の竹島を「竹島」と正式に命名しました。
竹島や鬱陵島の名称については、一時的な混乱があったものの、我が国が「竹島」と「松島」の存在を古くから承知していたことは各種の文献からも確認できます。
2.ヨーロッパ探検家等による測位の誤り
(1)1787年、フランスの航海家ラ・ペルーズが鬱陵島に至り、これを「ダジュレー(Dagelet)島」と命名しました。続いて、1789年には、イギリスの探検家コルネットも鬱陵島を発見しましたが、彼はこの島を「アルゴノート(Argonaut)島」と名付けました。しかし、ラ・ペルーズとコルネットが測定した鬱陵島の経緯度にはズレがあったことから、その後にヨーロッパで作成された地図には、鬱陵島があたかも別の2島であるかのように記載されることとなりました。
(2)1840年、長崎出島の医師シーボルトは「日本図」を作成しました。
彼は、隠岐島と朝鮮半島の間には西から「竹島」(現在の鬱陵島)、「松島」(現在の竹島)という2つの島があることを日本の諸文献や地図により知っていました。その一方、ヨーロッパの地図には、西から「アルゴノート島」「ダジュレー島」という2つの名称が並んでいることも知っていました。このため、彼の地図では「アルゴノート島」が「タカシマ」、「ダジュレー島」が「マツシマ」と記載されることになりました。これにより、それまで一貫して「竹島」又は「磯竹島」と呼ばれてきた鬱陵島が、「松島」とも呼ばれる混乱を招くこととなりました。
(3)このように、我が国内では、古来の「竹島」、「松島」に関する知識と、その後に欧米から伝えられた島名が混在していましたが、その最中に「松島」を望見したとする日本人が、同島の開拓を政府に願い出ました。政府は、島名の関係を明らかにするため1880(明治13)年に現地調査を行い、同請願で「松島」と称されている島が鬱陵島であることを確認しました。
(4)以上の経緯をふまえ、鬱陵島は「松島」と称されることとなったため、現在の竹島の名称をいかにするかが問題となりました。このため、政府は島根県の意見も聴取しつつ、1905(明治38)年、これまでの名称を入れ替える形で現在の竹島を正式に「竹島」と命名しました。
【韓国における竹島の認知】
1.概説
韓国側は、朝鮮の古文献に出てくる「于山(うざん)島」等の島が今日の竹島であると主張しています。しかし、この「于山島」等が今日の竹島に該当していることを確かに裏付ける根拠を見いだすことはできません。
2.韓国側の主張
(1)韓国側は、朝鮮の古文献「世宗実録地理誌」(1454年)や「新増東国輿地勝覧」(1531年)などの記述をもとに、「鬱陵島」と「于山島」という二つの島を古くから認知していたのであり、その「于山島」こそ今日の竹島であると主張しています。
(2)しかし、この「新増東国輿地勝覧」ですら、「于山島」と「鬱陵島」の二島説をとりつつ、一島二名の可能性を示唆する文言を含んでいます。また、その他の朝鮮の古文献には、「于山島」は鬱陵島の別名であり、そもそも同一の島を指しているとするものもあります。
(3)さらに、朝鮮の古文献中にある「于山島」の記述には、その島には多数の人々が住み、大きな竹を産する等、竹島の実状に見合わないものがあり、むしろ、鬱陵島を想起させられるものとなっています。
(4)なお、「新増東国輿地勝覧」に添付された地図には、鬱陵島と「于山島」が別個の2つの島として記述されています。もし、韓国側が主張するように「于山島」が竹島を示すのであれば、この島は、鬱陵島の東方に、鬱陵島よりもはるかに小さな島として描かれるはずです。しかし、この地図における「于山島」は、鬱陵島とほぼ同じ大きさで描かれ、さらには朝鮮半島と鬱陵島の間(鬱陵島の西側)に位置している等、全く実在しない島であることがわかります。
2.竹島の領有
我が国は、遅くとも江戸時代初期にあたる17世紀半ばには、竹島の領有権を確立していたと考えられます。この当時、鳥取藩米子の大谷・村川両家は、鬱陵島への渡海を幕府から公認され、交互に毎年1回、同島に渡海して漁労や竹木の伐採等を行うとともに、これによって得られた鮑(あわび)を幕府に献上してきました。この間、今日の竹島は、鬱陵島への渡海の船がかりの地として、また、漁採地として利用されていました。
【鬱陵島への渡海免許】
1.概説
日本人による竹島に関する知見は、鬱陵島の開発の歴史と不可分の関係にあります。鳥取藩の町人が幕府より鬱陵島への渡海免許を受け、その公認のもとに同島の開発に乗り出すことになった17世紀前半以降、同島への途次にあたる竹島もまた、漁業等に利用されるようになりました。
2.鬱陵島への渡海免許と竹島の利用
(1)1618年、鳥取藩伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛は、同藩主を通じて幕府から鬱陵島(当時の「竹島」)への渡海免許を受けました。これ以降、両家は交替で毎年年1回鬱陵島に渡航し、あわびの採取、あしかの捕獲、竹などの樹木の伐採等に従事しました。
(2)両家は、将軍家の葵の紋を打ち出した船印をたてて鬱陵島で漁猟に従事し、採取したあわびについては将軍家等に献上するのを常としており、いわば同島の独占的経営を幕府公認で行っていました。
(3)この間、隠岐から鬱陵島への道筋にある竹島は、航行の目標として、途中の船がかりとして、また、あしかやあわびの漁獲の好地として自然に利用されるようになりました。
(4)なお、当時、幕府が鬱陵島や竹島を外国領であると認識していたのであれば、鎖国令を発して日本人の海外への渡航を禁止した1635年には、これらの島に対する渡海を禁じていたはずですが、そのような措置はなされませんでした。
3.鬱陵島への渡海禁止
大谷・村川両家による鬱陵島の開発は約70年間平穏に続けられていました。しかし、1692年に村川家が、また、1693年に大谷家が鬱陵島に出向くと、多数の朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事しているのに遭遇しました。これを契機に、日本と朝鮮の政府間で鬱陵島の領有権を巡る交渉が開始されましたが、最終的に幕府は、1696年1月、鬱陵島への渡海を禁止することとしました(いわゆる「竹島一件」)。ただし、竹島への渡航は禁じませんでした。
【竹島一件】
1.いわゆる「竹島一件」
(1)幕府より鬱陵島への渡海を公認された米子の大谷・村川両家は、約70年にわたり、他から妨げられることなく独占的に事業を行っていました。
(2)1692年、村川家が鬱陵島におもむくと、多数の朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事しているのに遭遇しました。また、翌年には、今度は大谷家が同じく多数の朝鮮人と遭遇したことから、安龍福(アン・ヨンボク)、朴於屯(パク・オドゥン)の2名を日本に連れ帰ることとしました。なお、この頃の朝鮮王朝は、同国民の鬱陵島への渡航を禁じていました。
(3)状況を承知した幕府の命を受けた対馬藩は、安と朴の両名を朝鮮に送還するとともに、朝鮮に対し、同国漁民の鬱陵島への渡海禁制を要求する交渉を開始しました。しかし、この交渉は、鬱陵島の帰属をめぐって意見が対立し合意を得るにいたりませんでした。
(4)対馬藩より交渉決裂の報告を受けた幕府は、1696年1月、「鬱陵島には我が国の人間が定住しているわけでもなく、同島までの距離から見ても朝鮮領であると判断される。無用の小島をめぐって隣国との好を失うのは得策ではない。鬱陵島を奪ったわけではないので、ただ渡海を禁じればよい」と鬱陵島への渡海を禁止することを決定し、これを朝鮮側に伝えるよう対馬藩に命じました。
この鬱陵島の帰属をめぐる交渉の経緯は、一般に「竹島一件」と称されています。
(5)なお、幕府が鬱陵島への渡航を禁じる決定をした後、安龍福は再び我が国に渡来しました。この後、再び朝鮮に送還された安龍福は、鬱陵島への渡航の禁制を犯した者として朝鮮の役人に取り調べを受けますが、この際の安の供述は、現在の韓国による竹島の領有権の主張の根拠の1つとして引用されることになります。
2.安龍福の供述とその疑問点
(1)韓国側の文献によれば、安龍福は、来日した際、鬱陵島及び竹島を朝鮮領とする旨の書契を江戸幕府から得たものの、対馬の藩主がその書契を奪い取ったと供述したとされています。しかし、日本側の文献によれば、安龍福が1693年と1696年に来日した等の記録はありますが、韓国側が主張するような書契を安龍福に与えたという記録はありません。
(2)さらに、韓国側の文献によれば、安龍福は、1696年の来日の際に鬱陵島に多数の日本人がいた旨述べたとされています。しかし、この来日は、幕府が鬱陵島への渡航を禁じる決定をした後のことであり、当時、大谷・村川両家はいずれも同島に渡航していませんでした。
(3)安龍福に関する韓国側文献の記述は、同人が、国禁を犯して国外に渡航し、その帰国後に取調を受けた際の供述によったものです。その供述には、上記に限らず事実に見合わないものが数多く見られますが、それらが、韓国側により竹島の領有権の根拠の1つとして引用されてきています。
4.竹島の島根県編入
1904(明治37)年9月、島根県在住の中井養三郎は、内務・外務・農商務の三大臣に対し、「りやんこ島領土編入並に貸下願」を提出しました(「りやんこ島」とは、竹島を「リアンクール島」とする洋名の俗称です。)。これは、竹島でアシカ漁を行っていた中井が、過当競争の状態にあったアシカの乱獲を防止すること、また、竹島の領有権を明確にすることにより他国とのトラブルを避けることを目的として政府に提出したものです。これを受けた政府は、島根県の意見を聴取しつつ、1905(明治38)年1月28日の閣議決定をもって竹島を領有する意思を再確認するとともに、同島を「島根県所属隠岐島司ノ所管」と明確にしました。この後、竹島でのアシカ漁は許可制となり、第二次大戦によって1941(昭和16)年に中止されるまで続けられました。
1.概説
1905(明治38年)1月、政府は閣議決定により竹島を領有する意思を再確認した上で、これを「島根県所属隠岐島司ノ所管」と定めるとともに、その名称を「竹島」と命名しました。
2.経緯
(1)今日の竹島において、あしかの捕獲が本格的に行われるようになったのは、1900年代初期のことでした。しかし、間もなくあしかは過当競争の状態となったことから、島根県隠岐島民の中井養三郎は、その事業の安定を図るため、1904(明治37)年9月、内務・外務・農商務三大臣に対して「りやんこ島」(注:竹島の洋名「リアンクール島」の俗称)の領土編入及び10年間の貸し下げを願い出ました。
(2)中井の出願を受けた政府は、島根県の意見を聴取の上、竹島を隠岐島庁の所管として差し支えないこと、「竹島」の名称が適当であることを確認しました。これをもって、1905(明治38)年1月、閣議決定によって同島を「隠岐島司ノ所管」と定めるとともに、「竹島」と命名し、この旨を内務大臣から島根県知事に伝えました。
(3)島根県知事は、この閣議決定及び内務大臣の訓令に基づき、1905(明治38)年2月、竹島が「竹島」と命名され隠岐島司の所管となった旨を告示するとともに、隠岐島庁に対してもこれを伝えました。なお、これらは当時の新聞にも掲載され広く一般に伝えられました。
(4)また、島根県知事は、竹島が「島根県所属隠岐島司ノ所管」と定められたことを受け、竹島を官有地台帳に登録するとともに、あしかの捕獲を許可制としました。あしかの捕獲は、その後、1941(昭和16)年まで続けられました。
(5)なお、朝鮮では、1900年の「大韓帝国勅令41号」により、鬱陵島を鬱島と改称するとともに島監を郡守とする旨公布した記録があるとされています。そして、この勅令の中で、鬱陵郡が管轄する地域を「鬱陵全島と竹島、石島」と規定しており、この「竹島」は鬱陵島の近傍にある「竹嶼」という小島であるものの、「石島」はまさに現在の「独島」を指すと指摘する研究者もいます。その理由は、韓国の方言で「トル(石)」は「トク」とも発音され、これを発音どおりに漢字に直せば「独島(トクド)」につながるためというものです。
(6)しかし、「石島」が今日の竹島(「独島」)であるならば、なぜ勅令で「独島」が使われなかったのか、また、韓国側が竹島の旧名称であると主張する「于山島」等の名称が使われなかったのかという疑問が生じます。
いずれにせよ、仮にこの疑問が解消された場合であっても、同勅令の公布前後に、朝鮮が竹島を実効的に支配してきたという事実はなく、韓国による竹島の領有権は確立していなかったと考えられます。
5.第二次大戦直後の竹島
1946(昭和21)年1月、連合国総司令部により発せられた「若干の外郭地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する覚書」(SCAPIN第677号)により、竹島は、日本が政治上又は行政上の権力を停止すべき特定地域の1つとされました。また、同年6月には、いわゆる「マッカーサー・ライン」の設定に関する「日本の漁業及び捕鯨業許可区域に関する覚書」(SCAPIN第1033号)が発せられ、竹島は、日本漁船の操業区域外の地域として指定されました。しかし、これらの連合国総司令部覚書の文中には、いずれも日本国領土帰属の最終的決定に関するものではないことが明記されており、これらが竹島を日本の領土から除外したものではないことは明らかです。
【第二次大戦直後の連合国による竹島の扱い】
1.概説
連合国は占領下の日本に対し、政治上または行政上の権力の行使を停止すべき地域、また、漁業及び捕鯨を行ってはならない地域を指令し、この中に竹島を含めました。しかし、これらの連合国による規定には、いずれもこれは領土帰属の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない旨が明記されています。
2.連合国総司令部覚書(SCAPIN)
(1)SCAPIN第677号
(イ)1946(昭和21)年1月、連合
国はSCAPIN第677号をもって、一部の地域に対し、日本国政府が政治上または行政上の権力を行使すること及び行使しようと企てることを暫定的に停止するよう指令しました。
(ロ)その第3項には、「この指令において、日本とは、日本四大島(北海道、本州、九州及び四国)及び約一千の隣接諸小島を含むものと規定される。右隣接諸小島は、対馬及び北緯30度以北の琉球(南西)諸島(口ノ島を除く)を含み、また次の諸島を含まない」とし、日本が政治上・行政上の権力を行使しうる地域に「含まない」地域として鬱陵島や済州島、あるいは伊豆、小笠原群島等に並び竹島も列挙しました。
(ハ)しかし、同第6項には、「この指令中のいかなる規定も、ポツダム宣言の第8項に述べられている諸小島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない」(ポツダム宣言第8項:「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」)と明記されています。
(2)SCAPIN第1033号
(イ)1946(昭和21)年6月、連合国は、いわゆる「マッカーサー・ライン」を規定するSCAPIN第1033号をもって、日本の漁業及び捕鯨許可区域を定めました。
(ロ)その第3項には、「日本船舶又はその乗組員は竹島から12マイル以内に近づいてはならず、またこの島との一切の接触は許されない。」と記されました。
(ハ)しかし、同第5項には、「この許可は、当該区域又はその他のいかなる区域に関しても、国家統治権、国境線又は漁業権についての最終的決定に関する連合国の政策の表明ではない。」と明記されています。
3.SCAPINの効果
「マッカーサー・ライン」は、1952(昭和27)年4月に廃止が指令され、またその3日後の4月28日には平和条約の発効により、行政権停止の指令等も必然的に効力を失うこととなりました。
韓国側は、上記SCAPINをもって、連合国は竹島を日本の領土と認めていなかったとし、韓国による竹島の領有権の根拠の1つとしています。しかし、いずれのSCAPINにおいても領土帰属の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならないことが明示されており、そのような指摘が全く当たらないことは明らかです。
なお、我が国の領土を確定したのは、その後に発効したサンフランシスコ平和条約です。このことからも、同条約が発効する以前の竹島の扱いにより、竹島の帰属の問題が影響を受けるということがないことは明らかです。
6.サンフランシスコ平和条約起草過程における竹島の扱い
1952(昭和27)年4月に発効した「日本国との平和条約」、いわゆる「サンフランシスコ平和条約」の草案起草過程において、韓国は米国に対し、日本が権利、権原及び請求権を放棄する地域の1つに竹島を加えるよう要求しました。これに対し米国は、かつて竹島は朝鮮領土として扱われたことはなく、朝鮮によって領有権が主張されたとも思われない旨回答し、この要求を受け入れませんでした。
サンフランシスコ平和条約における竹島の扱い
1.概説
1952年1月、韓国は「海洋主権宣言」を行い、いわゆる「李承晩ライン」を公海上に線引きして、国際法に反して同ラインの内側の広大な水域への漁業管轄権を一方的に主張するとともに、竹島をそのライン内に取込みました。韓国はその後、SCAPIN677やSCAPIN1033を根拠に、連合国もまた竹島を韓国領土であると認めていたとの主張をしています。しかし、李承晩ラインの設定に先立つ「日本国との平和条約」(サンフランシスコ平和条約)の草案起草過程において、日本が放棄すべき地域の1つに竹島を明記するよう要求した韓国政府に対し、米国は、竹島は「朝鮮の一部として取り扱われたことがなく」、「かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない」として、明確に韓国側の主張を否定しています。
2.経緯
(1)1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約は、日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定しました。
(2)この部分に関する米英両国による草案内容を承知した韓国は、同年7月、梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソン米国務長官宛の書簡を提出しました。その内容は、「我が政府は、第2条a項の『放棄する』という語を『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換えることを要望する。」というものでした。
(3)この韓国側の意見書に対し、米国は、同年8月、ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡をもって以下のとおり回答しました。
「・・・合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。・・・・」
これらのやり取りを踏まえれば、竹島は我が国の領土であるということが肯定されていることは明らかです。
7.「李承晩ライン」の設定
1952(昭和27)年4月、連合国総司令部は「マッカーサー・ライン」を撤廃し、その直後には「サンフランシスコ平和条約」が発効しました。しかし、これに先立つ同年1月、李承晩韓国大統領は「海洋主権宣言」を行って、いわゆる「李承晩ライン」を国際法に反して一方的に設定し、そのライン内に竹島を取り込みました。
韓国側の措置は、公海上における違法な線引きであり、また、竹島の領有権に関する我が国の立場と相容れません。これ以降、我が国としては、竹島が日本の領土であることを裏付ける根拠等を提示しつつ、機会あるごとに韓国政府に対して抗議を重ねています。
8.米軍爆撃演習場としての竹島
1952(昭和27)年7月、日米安全保障条約の実施のために設立された日米合同委員会は、日米行政協定(当時)に基づき、在日米軍の使用する海上演習及び訓練区域の1つとして竹島を指定しました。この合同委員会の協議の対象となるのは「日本国内の施設又は区域」と規定されていたことからしても、竹島が「日本国内の」施設又は区域として扱われていたことが理解できます。
米軍爆撃演習場としての竹島
1.概説
1952(昭和27)年、竹島は、在日米軍の使用する海上演習及び訓練区域の1つとして指定されました。この指定が、「日本国内の施設又は区域」を協議対象とする日米合同委員会により行われたことを見ても、竹島が日本の領土として扱われていたことは明らかです。
2.経緯
(1)我が国がいまだ占領下にあった1950(昭和25)年7月、連合国総司令部は、SCAPIN第2160号をもって、竹島を米軍の海上爆撃演習地区として指定しました。
(2)1952(昭和27)年7月、米軍が引き続き竹島を訓練場として使用することを希望したことを受け、日米安全保障条約の実施のために設立された日米合同委員会は、日米行政協定(注:旧日米安保条約に基づく取り決め。現在の「日米地位協定」に引き継がれる。)に基づき、在日米軍の使用する海上演習及び訓練区域の1つとして竹島を指定するとともに、外務省はその旨を告示しました。
(3)しかし、竹島周辺海域におけるあしかの捕獲、あわびやわかめの採取を望む地元からの強い要請があること、また、米軍も同年冬から竹島の爆撃演習場としての使用を中止していたことから、1953(昭和28)年3月の合同委員会において、同島を演習場区域から削除することが決定されました。
(4)日米安全保障条約及び行政協定によれば、日米合同委員会の協議の対象となるのは「日本国内の施設又は区域」とされていました。したがって、竹島がこの委員会で協議され、かつ、在日米軍の使用する区域としての決定を受けているということは、とりも直さず竹島が日本の領土であることを示しています。
9.韓国による竹島占拠
1953(昭和28)年3月、日米合同委員会で竹島の演習区域からの解除が決定しました。これにより、竹島での漁業が再び行われることとなりましたが、韓国人も竹島やその周辺で漁業に従事していることが確認されました。同年7月には、不法漁業に従事している韓国漁民に対し竹島から撤去するよう要求した海上保安庁巡視船が、韓国漁民を援護していた韓国官憲によって銃撃されるという事件も発生しました。
翌1954(昭和29)年6月、韓国内務部は「韓国沿岸警備隊は、竹島を日本の侵略から守るため、駐留部隊を同島に急派した。」と発表しました。なお、同年8月には、竹島周辺を航行中の海上保安庁巡視船が同島から銃撃され、これにより韓国の警備隊が竹島に駐留していることが確認されました。また、この際、韓国側により竹島に灯台が建設されていることを確認しました。
10.国際司法裁判所への提訴の提案
韓国による「李承晩ライン」の設定以降、韓国側が行う竹島の領有権の主張、漁業従事、巡視船に対する射撃、構築物の設置等につき、我が国は累次にわたり抗議を積み重ねました。そして、この問題の平和的手段による解決を図るべく、1954(昭和29)年9月、我が国は韓国側に対してこの紛争を国際司法裁判所に付託することにつき提案しました。しかし、同年10月、韓国側はこの提案を拒否しました。また、1962(昭和37)年3月の日韓外相会談の際にも、我が国としては同様の提案を行いましたが、韓国側からは前向きな反応が得られませんでした。
国際司法裁判所への提訴
1.国際司法裁判所は、紛争の両当事者が同裁判所において解決を求めるという合意があって初めて動き出すという仕組みになっています。したがって、仮に我が国が一方的に提訴を行ったとしても、韓国側がこれに応ずる義務はなく、韓国が自主的に応じない限り国際司法裁判所の管轄権は設定されないこととなります。
2.我が国は、1954(昭和29)年9月、口上書をもって竹島の領有権問題につき国際司法裁判所に提訴することを韓国側に提案しましたが、韓国はこれに応じませんでした。また、1962(昭和37)年3月の日韓外相会談の際にも、小坂善太郎外務大臣より崔徳新韓国外務部長官に対し、本件問題を国際司法裁判所に付託することを提案しましたが、韓国はこれを受け入れず、現在に至っています。
11.竹島の近況
韓国側は、引き続き警備隊員を常駐させるとともに、宿舎や監視所、灯台、接岸施設等を構築しています。このような行為は、何ら法的な正当性を有しない不法な占拠であり、竹島の領有権を巡る我が国の立場に照らして決して容認できるものではありません。我が国としては、竹島をめぐり韓国側が何らかの措置等を行う毎に厳重な抗議を重ねるとともに、その撤回を求めてきています。
【韓国本土からの竹島入域自粛について】
韓国による竹島の不法占拠が続いている状況の中で、我が国国民が韓国本土を経由する等により竹島に入域することは、このような我が国国民が竹島において韓国側の管轄権に服することを認めたとか、竹島に対する韓国の領有権を認めたというような誤解を与えかねません。この点につき、国民の皆様の御理解と御協力をお願いいたします。
URLはこちらです。興味があれば
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/gaiyo.html
ダライ・ラマ14世の、チベットに対する提案は以下の通り。
(1987年、アメリカ議会の人権問題小委員会での「チベットに関する5項目の和平案」)
・チベット全土を平和地域とする
・チベット民族の存続を脅かす中国の人口移動政策を放棄する
・チベット民族の基本的人権および民主主義に基づく自由を尊重する
・チベットの自然環境を保護し、回復させる。チベットでの核兵器の製造、核廃棄物の投棄をしない
・チベットの将来の地位について、また、チベット人と中国人との関係について、真剣な交渉を開始する
そして、チベット人による本当の自治権が得られれば独立は求めないと譲歩しました。(1988年、「ストラスブール」提案)
このところ国際問題ばかりを取り上げて
そろそろ日本史のお話がしたいなぁ、と思っている
「イトー×ani」がお届けする
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