2009.07.27 大黒屋っ!
FHF
七月も最終週に突入しまして、
明日より富良野では
平成 21 年 7 月 28 日 ( 火 ) ~ 7 月 29 日 ( 水 )
の日程、富良野市新相生商店街祭り広場で、
「第41回 北海へそ祭り」が行われます。

へそ祭りといえば、お祭りの性質上
やはり気温が心配されます。

今年は、例年より強い太平洋高気圧の影響で
梅雨前線が押し上げられたせいか、
雨が多く、なかなか気温が上がらない状況が続いています。

農作物にも影響が出ているようで、
農家の皆さんのご苦労には頭が下がります。

また、ラベンダーは盛りの時期でもありますが、
少々黒ずんだものも目につくようになり、

これが、盛りを過ぎたせいか、
これまでが涼しく、雨が多いせいなのかは
わかりません。

ただ、週間天気によると
明日こそはお天気が少々怪しいものの
(祭りの本番には雨は上がりそうです)
その後はいよいよ夏らしい天気になるとのこと。

農家の方も、観光客の方も
富良野の夏を満喫できるような
天気になってほしいものです。


7月27日オンエア 第224回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
です

先週は当番組でも取り上げましたが、
北海道でも日食を観測できましたが、
みなさんはごらんになりましたが。

僕はこの日は、年に数度のボランティアである
「富良野ことぶき大学」の講師の
今年度、第一回目講義の日でしたが、

講義と講義の合間の休憩時間に、運良く雲が薄くなり、
太陽を覆うベールの役割を果たしてくれたということで、
生徒さんと一緒に観測をすることが出来ました。

よかったよかった。

さて、先週は日食のお話でしたが、
その前まで、北方領土問題について話していました。

一週空いたら、また新しいニュースが入ってきます。


最初に時事通信です。

89%が北方領土返還に反対=ロシア世論調査
7月24日19時47分配信 時事通信

【モスクワ時事】全ロシア世論調査センターは24日、ロシア国民の89%が日本への北方領土返還に反対しているとの世論調査結果を公表した。ナショナリズムの高揚を反映しているとみられ、ロシア政府の今後の対日外交にも影響しそうだ。
 北方領土返還反対はこれまでの調査で最も多く、1998年の調査の79%から10ポイント増加。返還賛成は4%にとどまり、98年の8%から半減した。
 返還反対の比率は、地域別では極東、政党別では野党・共産党と極右・自民党支持者で高かった。
 また、メドベージェフ大統領が北方領土返還を決断した場合、大統領への評価が悪化するとの回答は63%に上り、評価が改善するとの回答は3%だった。 


ついで、こちらは産経新聞です。

北方領土 進む露の実効支配 友好ムードどこへ
7月24日22時40分配信 産経新聞

 北方領土で最大の択捉島。日本のビザなし交流団は一時、ロシア側の担当者に上陸を拒否された。ロシア側の強気の姿勢が目立つ。ロシア政府の大規模な投資が始まり、実効支配は強化されていた。7月上旬、ビザなし交流団に同行し、日露双方の主張がぶつかり合う領土問題の最前線をみた。(択捉、国後島 内藤泰朗)

 ■恫喝(どうかつ)
 「ロシア固有の領土クリールへようこそ」
 8日、択捉島を管轄する露サハリン州クリール地区のラズミシキン地区長は、こう言ってビザなし交流団を“歓迎”した。その5日前に、北方領土を「日本固有の領土」と明記した北方領土解決促進特別措置法(北特措法)の改正案が、参院で可決されたことへの抗議の意思表示でもある。そして、“歓迎”の言葉は「日本側がこの一方的で誤った議決を取り消さない限り、次のビザなし訪問団は受け入れない」という警告となっていった。
 それにとどまらない。地区長は、島に滞在中は勝手な行動を慎むよう注意し、前回訪問した交流団が、許可なく建立した墓標を持ち帰るよう求めた。「日本語で書かれた墓標を島に置くことは許さない」というのがその理由だ。従わないのであれば「実力を行使する」とまで言う。その墓標はすでに引き抜かれ、行政府の建物の入り口に立てかけられていた。
 日本側は鈴木宗男衆議院議員が「あなたの対応や領土問題への間違った認識は、今後の日露関係に悪影響を与えかねない」と反論した。すると、地区長は「では、視察前に新型インフルエンザの検査をみなさん全員にやりましょうか」。ソ連時代を想起させる恫喝である。
 対立の予兆は、訪問前からあった。今年1月、日本の北方四島への医療物資支援が中断された。日本側が「出入国カード」の提出を拒否したためだ。
 今回も、サハリン州が交流団に、択捉島上陸を拒否すると、訪問直前に通告してきた。結局、上陸は許可されたものの、艀(はしけ)が「故障した」との理由で、交流団員を乗せた船は沖合に停泊したまま約3時間も待たされた。

 ■自信と不安
 記者(内藤)が10年前に択捉、国後島を訪れたときの友好ムードとはうって変わっていた。
 ロシアは当時、財政難にあり、日本からの支援が島の頼りだった。しかし、石油価格の高騰で復活したロシアは2007年、15年までに総額179億ルーブル(約555億円)を投じて、北方四島を含む島々の総合発展計画をぶちあげた。
 世界的な経済危機の影響で、計画は縮小される予定だという。それでも択捉島では、大型トラックや重機が茶色の砂ぼこりを巻き上げ、埠頭(ふとう)や空港、病院などの建設が進んでいた。「停電王国」と揶揄(やゆ)されたこの島では、火山の熱を利用した地熱発電所も稼働していた。国後島の古釜布(ふるかまつぷ)でも、埠頭の建設などが進む。かつて「地の果て」「棄民(きみん)の島」と呼ばれた島々は、活気づいている。
 「日本の支援がなくてもやっていける」。そうしたロシア側の自信が、かつての友好ムードを変えた。
 択捉島の商店には、中国、韓国製の輸入品が並ぶ。日本製はビールだけ。島民の平均月収は10万円近い。モスクワなど大都市並みだが、物価もモスクワ以上である。娯楽もない。人口は約7千人。島民の流出は続いている。それは国後島でも同じだ。
 将来が見えない島の地位に不安を抱く島民の心もかいま見えた。

今後も北方領土に関するニュースは
適宜紹介していきたいと思います。


さて、千島列島などを仲介にした
ロシアとの本格的な交渉が始まったのは
江戸時代のことですが、

ロシア人と交渉をしたロシア人ということで
先々週は最上徳内を紹介しましたが、

今回はロシア人と交渉をせざるを得なかった
日本人のお話です。


その人は
大黒屋光太夫です。

大黒屋光太夫は宝暦元(1751)年、
伊勢国南若松村(現在の鈴鹿市)に生まれ、
伊勢国白子(現在の鈴鹿市)の港を本拠地にして
廻船の船頭として生活をしていました。

光太夫が32歳の天明2(1783)年12月
光太夫ら十八人の乗組員と紀州藩の年貢米や伊勢木綿などの
江戸向けの物資を積んだ神昌丸は、
白子の港から、江戸を目指して出港をしました。

ところが、出港してから4日後に、
現在の静岡県の沖合、遠州灘で突然の暴風雨にあい、
帆柱・櫨などを失って、
船は操縦不能となってしまい、

このまま遭難・漂流してしまうことになります。

食料は積み荷であった年貢米で
何とか工面をしたのですが、
米や魚しか食べる事が出来ないことから
乗組員はビタミン不足となり
中でも1人が死亡するなど苦難の漂流生活でしたが、

漂流すること8ケ月、神昌丸はアリューシャン列島の
アムチトカ島に漂着しました。
ただ、この時、神昌丸は大風のため座礁してしまいました。

光太夫一行がたどり着いたアムチトカ島は
極寒の不毛の島で、わずかな原地人と
毛皮を商うロシア商人が住んでいるにすぎませんでした。

光太夫らは当たり前のことですが、最初は言葉もわからず、
漂流並みの苦難の生活をおくることになり、
飢えと寒さにより、ここで8人の仲間が死にました。

しかし、現地の人やロシア人との交流を通じ
次第に言葉を覚えていきましたし、
4年後には、この島に滞在しているロシア人を迎えるとともに
ラッコの皮を取りに来たロシア人がやってきて、
光太夫一行らに遭遇しました。

しかし、そのロシア人たちを乗せた船が
神昌丸のように、座礁してしまて、
帰る手段を無くしてしまったロシア人に対して、
座礁した神昌丸の古材や釘、流木などを集めて
船を造ることを提案、そして船を完成させ、
やっとの思いでアムチトカから出発します。

アムチトカから、カムチャッカ半島のロシア人の町
ニジニカムチャッカに向かった光太夫らは、
帰国の願いを出しますが、
当時、日本が鎖国中であるということもあり、
良い返事はもらえませんでした。


ニジニカムチャッカには2年間滞在しましたが、
この間にも3人の仲間が亡くなっています。


この間の生活で、ロシア語に加えて
ロシアの国情を理解するようになった光太夫らは、
帰国のためには、シベリアの中心都市イルクーツクの
シベリア総督に願い出るのが早道であると考えて、
乗組員十八人のうち、死亡した12人以外の残った6人は
翌1788(天明8)年、カムチャッカからイルクーツクへ移動しました。

この移動は、約4000kmの道のりを
馬車からトナカイのそりに移ってするもので、
マイナス50度以下の極寒のシベリアを
8ヶ月間も要する苛酷なものでした。

しかし、ここまでしてたどり着いたイルクーツクですが、
シベリア総督の返事は色良いものではなく、
光太夫一行は、イルクーツクの日本語学校の講師になることを
すすめられました。

当時、鎖国中の日本との通商を希望していたロシアは
日本語の通訳が必要であり、
ロシア語を覚えた光太夫一行が適役であると
判断をしたのでした。

この申し出を光太夫一行は辞退しますが、
ロシアは一行に対して、イルクーツクに家を提供し、
生活費を提供してくれました。

イルクーツクで八方ふさがりになっていまった
光太夫に対して救いの手を伸べたのが、
フィンランド出身の博物学者
キリル・ラクスマンでした。

彼はシベリアの植物の研究で名を上げており
ロシア科学アカデミーの会員にも名を連ね
王室など様々なところに顔の利く人物でした。

彼はイルクーツクで光太夫たちと知り合うと
自分と一緒に首都ペテルブルグ(現 サンクトペテルブルグ)まで行き
皇帝から、直接帰国の許可と支援を願い出ようと誘います。

また、帰国への協力だけではなく、
生活の援助などをも親切にしてもらいました。


しかし、このイルクーツクでも1人が亡くなり、
2人が帰国をあきらめて
ロシア正教に入信してしまうことになります。


そんな中ですが、
寛政2(1791)年、ロシアの首都・ペテルブルグにいる
女帝に直接願い出る決心をして一行を代表した光太夫は、
ラクスマンと共に、馬そりで約6200km離れた
ペテルブルグまで向かいます。
この時も極寒のシベリアでしたが、
昼夜なく横断し、2か月あまりで到着しました。

ペテルブルクでラクスマンと光太夫は
皇帝エカチェリーナ2世に謁見することに成功します。

エカチェリーナ2世は彼らに同情するとともに、
これを機会に、かねてから考えていた日本との交易を
実現したいという狙いもあって、
キリル・ラクスマンの息子の
アダム・ラクスマン陸軍中尉(当時26歳)に
遣日使節の命を与え、
光太夫らと共に日本に行くよう命じました。


そして、使命を終えた光太夫は、
ペテルブルグから、イルクーツクに戻り、
ロシア正教に改宗し日本語教師としてロシアにとどまる決心をした
2名の仲間とも別れ、帰国の途へつきます。


3年前に横断したシベリアを戻り、
オホーツク港に到着。

ここからエカテリーナ2世号と名付けられた船に乗り、
エトロフ島を経由し、
蝦夷地のバラサン(現在の北海道別海町茨散)に到着
しかしここには幕府の役人はいないので根室に迂回、
到着したのが寛政4(1792)年のことで、
伊勢白子を出てからちょうど十年弱年の歳月が
流れていたことになります。

当時の根室は松前藩の詰所と
アイヌの人たちとの運上所がある程度の小さな港でした。
ラクスマンたちは小舟で上陸すると、
来航目的を告げ、海岸に宿舎と兵舎の建築を願い出て
許可されました。

これは越冬を考えてのものですが、
越冬中、さらに一人が病死しました。


ラクスマンと光太夫は箱館、そして松前に船を回され、
ここで通商の交渉をもとうとしましたが、

幕府は国法である鎖国令が読み上げ、
「ロシア使節に対し、漂流民送還の労をねぎらい、今回に限り松前において漂流民受領の用意がある。なお望むところがあれば長崎に至るべし」
との趣旨の意向を伝えました。

これに対し、ラクスマンは、日本との交易を望むという
ロシア側の意思を伝えましたが、
幕府はこの次の長崎での交渉権(信牌)だけを
与えたに過ぎませんでした。

しかし、二度の会談を経て、
光太夫と残ったメンバーである最年少の磯吉の二名を引き渡して、
ラックスマン一行はロシアに帰っていき。

光太夫と磯吉は松前を出発、江戸に送られました。

ちなみにラックスマンは、
帰国後この功績により中尉から大尉に昇進しています。


時の権力者であった、幕府の老中・松平定信は、
光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んでいたために、
寛政5(1793)年、将軍家斉と老中松平定信らが見守る中で、
江戸城吹上御物見所で、漂民御覧を行いました。

漂民御覧の後は、光太夫と磯吉は番町の薬草園内の屋敷に
幽閉生活を強いられることとなりました。

が、幽閉生活といっても、
外からの出入りは比較的自由で、
伊勢から親戚の訪問も受けていますし、
桂川甫周や大槻玄沢などの学者たちと交流を深めました。

中でも、桂川甫周は、漂民御覧の記録を
『漂民御覧之記』としてまとめ、
これは多くの写本がのこされることになりましたし、
更に、光太夫らがロシアで見聞したことの口述と
『ゼオガラヒ』という地理学書をもとにして
『北槎聞略』11巻としてまとめ、
幕府にとって貴重な外国の様子に関する資料となりました。

これは現在では岩波文庫に収録されています。

また、二人は一時帰郷も許されています。

礒吉が寛政10年(1798)、光太夫は享和2年(1802)のことです。

二人はそれぞれ16年振り、20年振りに故郷の地を踏むことになり
親類縁者と涙の対面を果たしました。
しかし、光太夫の妻は光太夫が駿河沖で消息を絶った時に
彼が亡くなったものと思い、
しかも、故郷の南若松村では、
光太夫ら乗組員は難破して海に沈んだと思われて、
心海寺に供養碑が建てられたりしていたこともあり、
既に再婚していました。

彼は伊勢に自分の場所がないことを悟り、
江戸に戻って薬草園内で別の人と結婚し
子供ももうけています。

そして光太夫は文政11(1828)年に78歳で、
磯吉は天保9(1838)年に73歳で、
それぞれ波瀾の生涯を閉じることになります。

ま、ここらへんの話は、
映画化もされた、井上靖さんの小説
『おろしや国酔夢譚』などでご存じの方も多いのではないでしょうか。


そして、この後、ロシアに漂流した日本人(津大夫一行)と
光太夫一行のメンバーで、
イルクーツクに残ったうちの一人が親交を持ったり、

別の1人は、以前お話した、日本の領土を守ることになった
林子平の『三国通覧図説』の外国語訳にも
一役買ったりという、

素晴らしい小説の絶妙な伏線のような
エピソードもあるのですが。

機会があれば、そんな話も
したいものです。


さて、このラックスマンに渡った信牌が
この後の日露関係にどのような影響を与えるのか。

そして、そのことをきっかけとして
また一人の民間人が巻き込まれていく

なんて話は

また来週のお楽しみであります。








チベットに対する提案は以下の通り。
(1987年、アメリカ議会の人権問題小委員会での「チベットに関する5項目の和平案」)

・チベット全土を平和地域とする
・チベット民族の存続を脅かす中国の人口移動政策を放棄する
・チベット民族の基本的人権および民主主義に基づく自由を尊重する
・チベットの自然環境を保護し、回復させる。チベットでの核兵器の製造、核廃棄物の投棄をしない
・チベットの将来の地位について、また、チベット人と中国人との関係について、真剣な交渉を開始する

そして、チベット人による本当の自治権が得られれば独立は求めないと譲歩しました。(1988年、「ストラスブール」提案)




ヘタリアに言論と表現の自由を!
民族浄化[ここでは、ある民族のみを浄化した姿で描けという要求]反対!
自由ヘタリア救国民族解放戦線の「イトー×ani」がお届けする
FURANO History Factory(F.H.F.フラノヒストリーファントリー)
北海道富良野市と上富良野町・中富良野町など限定で聴く事が出来る、
コミュニティー放送局FM「ラジオふらの」の
月曜午後五時からオンエアー中

番組へのリクエスト・メッセージは
〒076-0026富良野市朝日町5-17レストランふらの広場内「ラジオふらの」
E-mail radio@furano.ne.jp FAX 0167-22-2775

リクエストなどは
当ブログのコメント欄でも
受け付けています。

よろしければ。

追 
夏のお祭り、参加します。
3日目 西 む-21b「東行本舗」です。
畏友GMクンも出ます
3日目 東 O-37b「北蝦夷共和會」です。

追2
訃報です。
アニメーターの金田伊功さんが心筋梗塞のため
お亡くなりになりました。

毎日新聞のおくやみ欄では
「スタジオジブリのアニメ映画「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」などの原画を手がけた。」

などと書かれていましたが、

それよりも枚数制限のあるアニメの作画の世界で
いかにカッコ良く画面が映えるかということを考え

次々にアイディア溢れる革新的な演出を考え、
現在のアニメーション表現の発展に

大きい影響を与えた人物です。

まだ57歳でしたが…

はやすぎます。

心より金田さんのご冥福を
お祈りします。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://radiofhf.blog65.fc2.com/tb.php/992-bfd9116c