FHF
ワタクシ現在東京
滞在継続中デアリマス。

ということで、今年度最後の番組は
収録でお届けする予定ですが
無事お届け出来たでしょうか。

12月29日オンエアー 第194回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
放送を終えました。


先日、富良野市教育委員会社会教育課主催
「ふらの市民講座」2008年度の第一講目で
お話をさせていただきました
直江兼続の話の最終回であります。

柴田勝家を牽制するという
共通の利害をきっかけとして
急接近していった、上杉と豊臣

結局、景勝が五大老となるまでに信頼をされ
秀吉のおこす戦の要所要所で活躍をしてきました。

が、1598(慶長3)年、秀吉が死去すると、徳川家康が台頭します。

秀吉に「義」を果たしてい上杉景勝と
家康の台頭を快く思っていない石田三成と親交深い直江兼続の存在は
当然目の上のコブであります。

しかもこの時の景勝は兼続のすすめで
軍事力の増強をしておりました。


上杉家中にも徳川家との融和を主張する
藤田信吉などもいましたが、結局彼と対立をして
追放して、対立姿勢を明らかにします。

また、景勝の旧領である越後にきた堀秀治が、
景勝は謀叛を企てると家康に密告したりするものですから

家康は4月1日、軍事力増強を進める景勝に対し
五奉行の一人増田長盛の家臣である
伊奈昭綱、河村長門の両名を、問罪使として派遣し、
このとき、家康は兼続と親交もあった
西笑承兌に弾劾状を認めさせています。

その内容は、景勝の軍事力増強を咎め、
異心が無いのであれば、誓書を差し出した上で上洛し、
弁明するべきというものでした。

これに対して兼続は、
いわゆる「直江状」という書状をおくったとされます。

これは、道路・橋などの普請や新城、武器購入の必要を説明し、
密告者を究明してその真偽を確かめるべきという内容の、
堂々とした申し開きの書なのですが、
いわば家康に対する挑戦状でした。


以下は、史料として最も有名なものの引用です。


直江状
今朔の尊書昨十三日下着具に拝見、多幸々々。

一、当国の儀其元に於て種々雑説申すに付、内府様御不審の由、尤も余儀なき儀に候、併して京・伏見の間に於てさへ、色々の沙汰止む時なく候、況んや遠国の景勝弱輩と云ひ、似合いたる雑説と存じ候、苦しからざる儀に候、尊慮易かるべく候、定て連々聞召さるべく候事。

一、景勝上洛延引に付何かと申廻り候由不審に候、去々年国替程なく上洛、去年九月下国、当年正月時分上洛申され候ては、何の間に仕置等申付らるべく候、就中当国は雪国にて十月より三月迄は何事も罷成らず候間、当国の案内者に御尋ねあるべく候、然らば何者が景勝逆心具に存じ候て申成し候と推量せしめ候事。

一、景勝別心無きに於ては誓詞を以てなりとも申さるべき由、去年以来数通の起請文反古になり候由、重て入らざる事。

一、太閤以来景勝律儀の仁と思召し候由、今以て別儀あるべからず候、世上の朝変暮化には相違候事。

一、景勝心中毛頭別心これなく候へども、讒人の申成し御糾明なく、逆心と思召す処是非に及ばず候、兼て又御等閑なき様に候はば、讒者御引合せ是非御尋ね然るべく候、左様これなく候 内府様御表裏と存ずべく候事。

一、北国肥前殿の儀思召のままに仰付られ候、御威光浅からざる事。

一、増右・大刑少御出頭の由委細承り及び候、珍重に候、自然用所の儀候へば申越すべく候、榊式太は景勝表向の取次にて候、然らば景勝逆心歴然に候へば、一往御意見に及んでこそ侍の筋目、内府様御為にも罷成るべく候処に、左様の分別こそ存届けず候へども、讒人の堀監物奏者を仕られ、種々の才覚を以て妨げ申さるべき事にはこれなく候(や)、忠信か、佞心か、御分別次第重て頼入るべく候事。

一、第一雑説ゆえ上洛延引候御断り、右に申宣べる如に候事。

一、第二武具集候こと、上方の武士は今焼・炭取・瓢べ以下人たらし道具御所持候、田舎武士は鉄砲弓箭の道具支度申し候、其国々の風俗と思召し御不審あるまじく候、不似合の道具を用意申され候へば、景勝不届の分際何程の事これあるべく候や、天下に不似合の御沙汰と存じ候事。

一、第三道作り、船橋申付られ、往還の煩なきようにと存ぜらるるは、国を持たるる役に候条 此の如くに候、越国に於ても舟橋道作り候、然らば端々残ってこれあるべく候、淵底堀監物存ずべく候、当国へ罷り移られての仕置にこれなきことに候、本国と云ひ、久太郎踏みつぶし候に何の手間入るべく候や、道作までにも行立たず候、景勝領分会津の儀は申すに及ばず、上野・下野・岩城・相馬・正宗領・最上・由利・仙北に相境へ、何れも道作同前に候、自余の衆は 何とも申されず候、堀監物ばかり道作に畏れ候て、色々申鳴らし候、よくよく弓箭を知らざる無分別者と思召さるべく候、縦とへ他国へ罷出で候とも、一方にて(こそ)景勝相当の出勢罷成るべく候へ、中々是非に及ばざるうつけ者と存じ候、景勝領分道作申付くる体たらく、江戸より切々御使者白河口の体御見分為すべく候、その外奥筋へも御使者上下致し候条、御尋ね尤もに候、御不審候はば御使者下され、所々境目を御見させ(候はば)、合点参るべく候事。

一、景勝事当年三月謙信追善に相当り候間、左様の隙を明け、夏中御見舞の為上洛仕らるべく内存に候、武具以下国の覚、仕置の為に候間、在国中きっと相調い候様にと用意申され候処、増右・大刑少より御使者申分され(候)は、景勝逆心不穏便に候間、別心なきに於ては 上洛尤もの由、内府様御内証の由、迚も内府様御等間なく候はば、讒人申分有らまし仰せ越され、きっと御糾明候てこそ御懇切の験したるべき処に、意趣逆心なしと申唱へ候間、別心なきに於ては上洛候へなどと、乳呑子の会釈、是非に及ばず候、昨日まで逆心企てる者も、其行はずれ候へば、知らぬ顔にて上洛仕り、或は縁辺、或は新知行など取り、不足を顧みざる人と交り仕り候当世風は、景勝身上には不相応に候、心中別心なく候へども、逆心天下にその隠れなく候、妄りに上洛、累代弓箭の覚まで失い候条、讒人引合御糾明これなくんば、上洛罷成るまじく候、右の趣景勝理か否か、尊慮過すべからず候、就中景勝家中藤田能登守と申す者、七月半ばに当国を引切り、江戸へ罷移り、それより上洛候、万事は知れ申すべく候、景勝罷違い候か、内府様御表裏か、世上御沙汰次第に候事。

一、千言万句も入らず候、景勝毛頭別心これなく候、上洛の儀は罷成らざる様に御仕掛け候条、是非に及ばず候、内府様御分別次第上洛申さるべく候、たとえこのまま在国申され候とも太閤様御置目に相背き、数通の起請文反故になり、御幼少の秀頼様へ首尾なく仕られ(なば)、此方より手出し候て天下の主になられ候ても、悪人の名逃れず候条、末代の恥辱と為すべく候、此処の遠慮なく此事を仕られ候や、御心易かるべく候、但し讒人の儀を思召し、不義の御扱に於ては是非に及ばず候間、誓言も堅約も入るまじき事。

一、爰許に於て景勝逆心と申唱え候間、燐国に於て、会津働とて触れ廻り、或は人数、或は兵粮を支度候へども、無分別者の仕事に候条、聞くも入らず候事。

一、内府様へ使者を以てなりとも申宣ぶべく候へども、燐国より讒人打ち詰め種々申成し、家中よりも藤田能登守引切候条、表裏第一の御沙汰あるべく候事、右条々御糾明なくんば申上られまじき由に存じ候、全く疎意なく通じ、折ふし御取成し、我らに於て畏入るべきこと。

一、何事も遠国ながら校量仕り候有様も、嘘のように罷成り候、申すまでもなく候へども、御目にかけられ候上申入れ候、天下に於て黒白御存知の儀に候間、仰越され候へば実儀と存ずべく候、御心安きまま、むさと書き進じ候、慮外少なからず候へども、愚慮申述べ候、尊慮を得べきためその憚りを顧みず候由、侍者奏達、恐惶謹言。

慶長五年    四月十四日    
                                             直江山城守兼続

豊光寺    

侍者御中




これを読んで激怒した家康は、景勝征伐のため、
1860(慶長5)年6月18日、伏見を出発。
江戸で進撃方策を定め、約5万余の兵を率いて、
7月24日小山に着きました。
これが関ヶ原の戦いの遠因となる所謂会津征伐です。


家康の家臣などの日記等から、
上杉側から何らかの返書があり、
これを見て家康が激怒したことで
会津遠征を決意させる
直接のきっかけとなったことは確かなようであります。

が、直江状の文面自体は
後世の偽作であるともいわれています


それにしても、通常であれば普通の旅行者でも
二週間強の道のりを
5週間かけて移動をしています。
史料にも「遅々たる進軍」と書き残されているほどですが
それは、石田などとの戦の大義名分を考えつつ、
家康にとっての誰が味方で・誰が敵かを識別しつつ、
石田方を挑発するように、出兵を狙ってのこの進軍速度なのです。

その後、
景勝も家康の進撃に備えて、白河の南、革籠原に陣して、
この地で家康方を粉砕しようと待っていました。


そんな家康の狙い通りに、石田三成等の挙兵を聞き、
8月4日、小山を出発して再び上方へと戻っていきました。

これが関ヶ原の戦いの東軍となります。

小山で家康方が引き返してしまったために
この地で戦いは行われなかった革籠原ですが
ここで兼続は、家康方を盆地へ追い込んだ後に、
川をせき止める。という陣を張ったのでした。

上杉家中の戦いぶりなどを研究して、
陸大の卒論をはじめ、いくつもの論文に使っている
陸軍の鬼才、石原莞爾は、この陣形と戦い方を評して
「革籠原が、家康軍数万の墓になるところだった。」
ともらしたとか…。



その後兼続らは米沢に帰り、
東軍に与した最上義光征伐の計画をたて、
9月に約4万の兵をもって侵攻します。
義光は戦力を集中させる為に、
一部の城を捨てるよう命じますが、
それを拒否して籠城している畑谷城を兼続は攻め落し、
その後は、上山城や長谷堂城を囲み、
最上軍及び援軍の伊達軍と戦いました。


これが東の関ヶ原こと、慶長出羽合戦の中心となった
長谷堂城の戦いです。


ただ、この戦いは、上杉方はどうにも分が悪く
人数が上回る戦いであっても
ナカナカ攻めきれないところがあったようです。
2万近い大軍を率いながら1000名ほどで長谷堂城を守る
最上勢に苦戦するところは、兼続らしくない
戦いでもあります。

また、長谷堂城の戦いについては
当時の良質の史料がほとんど残されておらず
兵数も後世の軍記などに頼ることになるのですが、
これらは誇張された部分も多く
それぞれに数の開きがあり、確実な兵数は不明です。

ただ、数に優る上杉方であっても
戦局的には不利な状況が続いたのにくわえて
関が原で三成が敗戦したという報が到着することによって
直ちに退却をします。

退却にさいしては、劣勢を挽回し勢いに乗る最上軍と、
義光を救援するために伊達政宗のおくった援軍が
追撃をしてきて激戦になりますが、

この時に、兼続は全軍を13隊に分け、鉄砲隊の援護により、
余り損害なく10月6日米沢に帰ることになります。

この戦法は、「懸かり引きの戦法」といい
良く薩摩のステガマリと対比されます。


敵中深く侵入した布陣から、退却をするということで

ただ逃げるのでは、敵の思う壺になってしまう。

これを鉄砲隊のカーテンを作って
少しでも遠くへ逃がすのが
ステガマリです。

一方、懸かり引きは、
しんがりが攻撃態勢を保ちつつ
別働隊が退路を作って少しずつ引きながら
迎撃の隊形を作るという形をとります。

迎撃の隊形が作られていますから
おいそれとは攻め込めない。

追うのと、敵の罠に飛び込むのの違いです。

13段にわかれた軍が
ある軍は引き、ある軍は迎撃するワナを作りと、
交互に応戦をしながら、
結果的には徐々に撤退をしていくという戦法です。

前述のステガマリが、決死の覚悟の鉄砲隊を
足止めのために切り離して
彼らの命を犠牲にするのに比べて
合理的であるということから

後に帝国陸軍参謀本部も参考にしたほどです。

そして、この戦いのキーであった殿をつとめ
兼続とともに、激戦をしたのが
1595年、南下和尚より紹介をされた
前田慶次郎でした。

余談ですが、職場の休憩時間中に
ふらの市民講座の準備のため
「愛」の前立てのついた兜の写真を見ていると
職場の同僚が

「えー、こんな兜本当にあったんだ〜」

などと言いまして

??、と思って聞いてみると

その人いわく
「CR花の慶次」をやっていた時に
「愛」の兜をかぶった武将が出てくると
なんかいいリーチになるそうで

出てきた時とかはウレしいんだけど

こんな兜ってあるわけね〜よな〜
などと思いながら

打っていたそうです。

Uさん、かってにネタにしちゃてました。
ゴメンなさい。


閑話休題

結果として上杉軍の最上侵攻は、
山形攻略が成らなかったばかりか、
逆に反撃に出た最上軍に庄内地方を奪われて、
伊達軍の福島侵攻をも誘発することになりました。

結局、1601(慶長6)年7月、景勝、兼続ともに上洛をして
家康に謝罪をし、徳川家に忠誠を誓います。
そして1608(慶長13)年に兼続は、直江重光と改名します。

家康から罪を許された景勝は出羽米沢30万石へ減移封となり、
上杉氏の存続を許されることになります。

ただし、120万石が30万石に減らされて
しかも、家臣のリストラを一切行わなかった。
(このツケをはらうことになるのが上杉鷹山なのですが…)
当時の家臣の数が約6千
米沢の人口も約6千、ということで
移ってきた家臣は殆ど住む家もなく食物も不十分。
大部分は掘立小屋で極めて粗末な仮住まいをしました。
このような苦しい生活をしながら
直江兼続の指揮のもとに上下ともども約10年間苦労して、
1609 (慶長14) 年、米沢城下町の形が出来てきたのです。

そして米沢城下に堤防を築いて町を整備し、
殖産興業・鉱山の開発を推進するなど、
米沢藩の藩政の基礎を築きました。


兼続は、自分の石高6万石のうち五万石を返上、
のこりも5千石下級藩士へ配るとともに
開墾、用水、植林及び農業生産にも力を入れました。

用水のために堰をつくりましたが、
これは、現在でも、直江石提と呼ばれております。

堰近くに今も「龍師火帝」(りょうしかてい)と刻んだ大石があります。

これは兼続が堰をつくった時に水神及び火帝をまつり、
用水不足することなく、
水害のないよう祈祷したものと伝えられていまして。

水の神様「愛宕神」が、兜の前立ての「愛」だという
説もある、兼続らしいエピソードです。


また、深く耕し土が肥えることから、ゴボウの栽培を奨励し
強壮剤としてのウコギの栽培、の他
商品作物として漆、楮、桑、紅花の栽培も薦めました。

農民に作物の栽培等の諸注意を示し、農業を励ませ
武士にも農業をやらせる手引き書である「四季農戒書」を作らせて、
配ったといいます。

また、1604(慶長9)年には近江国住友村や和泉国堺から
鉄砲つくりを米沢に呼び、それぞれ200石ずつ与えて鉄砲製造をさせ、
10年間に約千挺製造させたのにくわえ、
鉄砲打ちの稽古も奨励し、年に何回か鉄砲打ちを藩主が御覧になり、
成績の良いものに褒美を与えるようにもしましたし。

鉱脈を探し山へも行ったとのことで

殖産興業ということを強く意識して
領国経営の片腕となったのです。

加えて、以前から収集していた蔵書を生かして
藩士子弟の学問修業の道場、禅林文庫を作りました。

どうしても、ここらへんは
のちの米沢の名君「上杉鷹山」のしたことと
ダブって見えるのです。

鷹山は、当時り米沢藩で憚られていた直江兼続の法要を
「上杉家で直江殿夫妻の法要も営まず、
香典も添えないのは人情ではない」と述べて、
兼続の200回忌を挙行し、香華料を捧げましたし。

しかも、禅林文庫が全身となった学問所は
興譲館と名前を変えて
現在の山形県立高校に受け継がれています。

ちなみに興譲館と命名したのは
鷹山の師匠である学者細井平洲です。

ここらへんも、なかなかいい話だと思います。


1614(慶長19)年からの大坂の陣においても、
兼続は徳川方として参戦し、武功を挙げましたが

1620(元和5)年、江戸屋敷で病気によって
波乱万丈に満ちた生涯を終えたのでした。
享年60歳でした。


あと、兼続には、以下のような
有名なエピソードがあります。

最後に紹介します。

景勝の代理として大坂城に上った際、伊達政宗が
同席の諸大名に「めずらしいものを」と
天正大判を回覧しました。
その際、兼続は、素手ではなく扇子で受け、
撥ねるようにして表裏を見ました。
政宗は、兼続が陪臣であるために遠慮していると思って
「山城、手にとって見るも苦しゅうないぞ」と言ったところ、
兼続は「冗談召さるな。不肖兼続の右手は戦場にあっては
先代・上杉謙信の代よりの采配を預かるもの。
左様に不浄なものを触れるわけには参りません」
と、政宗の膝元へ投げて返したそうです。


後年、江戸城内で伊達政宗とすれ違った時、
兼続は知らぬ顔で会釈をしませんでした。
政宗が「陪臣の身で大名に会釈せぬとは無礼ではないか」と咎めると
「これはご無礼いたしました。これまで兼続は
中納言様(政宗)とは戦場で相まみえる間柄だったゆえ、
(戦に負けて逃げる)後姿しか拝見した事がなく、
お顔を存じ上げませんでした」と慇懃に答えたそうです。

伊達政宗の心中いかに…って感じですが。



さて、そんな兼続を、どのように描いてくれるか
と、いうのは
来年のお楽しみで
アリマスな。


ダライ・ラマ14世の、
チベットに対する提案は以下の通り。
(1987年、アメリカ議会の人権問題小委員会での「チベットに関する5項目の和平案」)

・チベット全土を平和地域とする
・チベット民族の存続を脅かす中国の人口移動政策を放棄する
・チベット民族の基本的人権および民主主義に基づく自由を尊重する
・チベットの自然環境を保護し、回復させる。チベットでの核兵器の製造、核廃棄物の投棄をしない
・チベットの将来の地位について、また、チベット人と中国人との関係について、真剣な交渉を開始する

そして、チベット人による本当の自治権が得られれば独立は求めないと譲歩しました。(1988年、「ストラスブール」提案)


「イトー×ani」がお届けする 
FURANO History Factory (F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
コールサインJOZZ1AS-FM  周波数77.1MHz
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コミュニティーFM局「ラジオふらの」の
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受け付けています。


お祭り終了しました。

お祭りでお会いした方々におかれましては
大変お世話になりました。
あなたがたからかけていただいた
過分なる一言一言を、今も有り難くかみしめておりますし、
それらのお言葉や、みなさんの行動のすべてが
僕を動かすパワーとなりました。
心よりお礼を申し上げたいと思います。
本当にありがとうございました。

と、いうことで、心の充電も終わりましたので
次は夏のお祭りにむけて
頑張りたいと思います。

なお簡単なお祭りのレポートは
こちらの「ぶろぐ」を見てください。

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