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2008.12.22
冬至におもふ
昨日は冬至でした。
札幌では、日の出が7時3分
日の入りが16時3分
9時間の昼と15時間の夜という
一年で一番日中が短い日です。
この後から段々
朝が早くなるイメージがありますが
日の出の時間が遅くなるのが早く
日の入りの時間はまだまだ
遅くなるようです。
柚子湯や、冬至粥(小豆粥)や南瓜を食べると
風邪をひかないという風習は有名ですが
中国の北方では餃子を、
南方では餡の入った団子をゆでたものを食べる
習慣もあるそうです。
先日訪れたスーパーでも
「冬至かぼちゃ」の名前で
白玉団子とカボチャが餡であえられたものが
売っていました。
ってことで、ワタクシ昨日は
カボチャ団子と餃子をいただきました。
12月22日オンエアー 第193回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
放送を終えました。
先日、富良野市教育委員会社会教育課主催
「ふらの市民講座」2008年度の第一講目で
お話をさせていただきました
直江兼続の話の続きであります。
越後の国を強固な一枚岩にまとめあげた
戦国最強といっても過言ではない、上杉謙信。
近衛前久との血書の起請文を交わしたことから
朝廷・幕府のために戦い、
関東管領に対しての仇敵北条氏と抗争し
村上義清や高梨政頼(景虎の叔父)の要請を受けて
武田信玄と激闘を繰り返す
このような「義」の戦いを繰り返したと上
下克上の風潮が当たり前の戦国時代に関わらず
一旦結んだ同盟は破らず、見返りの領土を求めないという
潔癖なところに
魅力を感じた人も少なくないでしょう。
このような薫陶を受けたのが
幼少時の直江兼続(当時は樋口与六)だという設定で
大河ドラマははじまるものと思われます。
直江兼続は、永禄3年(1560)、
越後国魚沼郡上田庄坂戸城に生れました。
父は同城主の長尾政景に仕えた「樋口惣右衛門兼豊」
(源義仲(木曾義仲)の重臣である樋口兼光の末裔といっております)
母は信州泉氏の娘(直江景綱の妹説もあります)と
伝えられています。
彼は、謙信の姉であり、政景の正室であり
次男、長尾顕景(のちの上杉景勝)の実母でもある
仙桃院の薦めで、幼い頃から景勝に仕え
長尾政景の死をきっかけとして
顕景に従い謙信の居城である春日山城へ入っていった
というストーリーで
ドラマはすすんでいくのでしょう。
この時、謙信34歳 兼続4歳 顕景(景勝)9歳でした。
ですが、
ここらへんのことを裏付けする史料はありません。
面白おかしく歴史をエンターティンメントにした
江戸時代後期の講談とか、
明治時代以降の講釈本などには
兼続は謙信に才気と美貌を見出され、小姓・近習として近侍、
その寵愛深い衆道の相手、かつ、
信頼の篤い近臣であったという「俗説」が
世間に「定説」として広く流布し、
現代でも時代小説や、一般向けの歴史解説本などが
この「俗説」を「事実」として採り上げています。
が、実際には生前の謙信と兼続の関わりを示す
信憑性のある史料は今の所、ないということで、
青少年期の兼続が謙信との関係は
全く不明なのです。
だから、1577(天正5)年、
上杉謙信軍が織田信長軍に大勝した
手取川の戦いに参戦しているかどうかも
当然全くわからないことなのです。
が、ドラマ的には「いる」ってことで
盛り上がるのでしょう。
何回かこのブログでも
NHKのプロデューサー氏が、歴史作家の加来耕三氏に語った話を
彼ご自身が出演されているラジオ番組でお話をされて
僕はラジオでこの話しを聞いたのですが
史料がないことについて
歴史ドラマ制作をする立場としては
しめた と思うとのこと。
ナルホドーって感じです。
さて、そんな謙信と兼続が出逢った
とされた14年後に
謙信が急死をします。
謙信が、長尾家を継ぐ前後に
国を割るような内乱が起きますが
1578(天正6)年の謙信の死後も、上杉の家督をめぐり
謙信の養子である23歳の上杉景勝
(前述通り、実父は長尾政景)と
同じく養子の24歳の上杉景虎 (実父は北条氏康)との間で
すさまじい内乱がおきます。
これが御館の乱です。
御館とは、上杉謙信が関東管領上杉憲政を迎えた時に
その居館として作られた関東管領の館で
春日山城下に設けられ後に
謙信も政庁として使用していました。
当初この戦いは景勝方が不利のまま進んでいきますが
1万両で仇敵、武田勝頼に協力要請をし、
甲越同盟を結ぶことで形勢逆転、
1579(天正7)年、景虎が自害をするという結末で
けりがつきます。
この御館の乱では兼続は、父樋口兼豊と共に
景勝方に付いていまして、
このころから、景勝の側近としての活動が
現存する史書にも残るようになりました。
ところが、御館の乱により
越後の国中はめちゃくちゃになりますし、
しかも、1581(天正9)年には、
能登・越中を柴田勝家に奪われてしまうことになります。
そんな年、春日山城中では
景勝の側近である家老直江信綱と家老山崎秀仙が、
対談中に毛利名左衛門秀広に殺害されるという事件が起きました。
この時に殺された直江信綱に子がなかったということで、
名門直江家の断絶をおしんだ景勝の命で
兼続は、信綱の父である直江景綱の娘で、
信綱の妻であったお船の方の婿として結婚
(お船の方にとっては再婚になります)
跡取りのない直江家を継ぐことになります。
ここからいよいよ「直江兼続」になるのです。
しかし、上杉家の基盤の弱体化は変わらず、
1582(天正10)年、武田勝頼が
天目山で織田信長に滅ぼされ、
信長の部下、森長可は信濃の大部分を手に入れ
越後国境に迫りました。
同じ頃、信長の部下、滝川一益も上州廐橋城をとり、
更に越後魚沼郡上田への侵攻をねらっていました。
越中でも、信長方の前田利家、佐々成政の勢力が増大し、
上杉方の越中魚津城は信長方に攻められ、
篭城した上杉方の中条越前守景泰等十余名が
自刃して城は陥落しました。
このような織田勢に三方を囲まれる形となった
上杉にとって幸運だったのが、
信長が本能寺の変で明智光秀に殺されたことで、
織田勢が退陣をしたことです。
しかも、1583(天正11)年には、兼続の尽力で、
景勝は織田家中で台頭をしてきた
羽柴秀吉と和することで、局面は好転することになります。
さらに、賤ヶ岳の戦いこそは合戦には参加できませんでしたが
1584(天正12)年の小牧・長久手の戦い、
1585(天正13)年の富山の役でも
それぞれ秀吉に味方をして、
富山の役では、佐々成政を牽制しました。
この時に秀吉やこの後の盟友となる石田三成と
会合をした(しかも秀吉がひょこっと景勝と兼続に会いに来た)
という話がありますが…
こちらも信憑性のある史料はありません。
公式に秀吉と景勝・兼続が逢ったとされるのが
1586(天正14)年に、景勝、兼続が上洛をした時で
この時に、それまで文書を交わしたことがあった
兼続と、盟友石田三成の初対面もありました。
その際には、景勝は、越中と上野の領有を放棄することで
換わりに佐渡・出羽の切り取りを許可されます。
また、景勝は、正親町天皇に拝謁して
右近衛少将に任じられました。
その後、景勝は、
1587(天正15)年には、柴田勝家と結ぶなどして
長年にわたり抗争状態にあった新発田重家を討ち、
再び越後の統一に成功。(新発田重家の乱)
1588(天正16)年には再び上洛をして、
従三位参議に昇叙され、
この時、豊臣姓と羽柴の苗字を許されました。
また1589(天正17)年には本間氏を討ち佐渡を平定し、
1591(天正19)年の小田原攻めにも
1892(文禄元)年の秀吉の朝鮮出兵にも
それぞれ参戦をしております。
特に朝鮮出兵が始まると、
5,000人を率いて肥前名護屋に駐屯、
翌1593(文禄2)年には3か月にわたって
家臣の高梨頼親らを伴って渡鮮をし、
釜山郊外に城郭の建築などにあたりました。
これらの事業の片腕となって活躍をしたのが
兼続だったのです。
そして、蒲生氏郷の死と、その後の蒲生家の断絶により
1598(慶長3)年、秀吉の命により、蒲生の旧領
会津120万石に加増移封されました
これは、秀吉にとって目の上の瘤である
北側に境を接する最上義光や、
伊達政宗と衝突の危険性が有るので、
改易された蒲生氏に代わり
東北諸大名の監視と牽制のための配置でした。
更に景勝は、最上・伊達対策として要となる
米沢城に直江兼続に30万石
(与力を含む、直江本領は6万石との説あもります)を
与えて配置するという、異例の措置をとります。
それだけ信頼が篤かったという事でしょう。
ただ、このようなエピソードのみだと
武力の人のイメージが強いですが
そんなことはありません。
兼続は上洛する時などは、必ず
能書家の家来をつれていきます。
それは、なぜか
文書を集めるという、実益を兼ねた趣味が
あるからなのです。
南化和尚、西笑承兌などとも親交があり
文化人としても知られています。
兼続の蔵書である宋版の『史記』『漢書』『後漢書』は
南化和尚から贈られた物であり
いずれも国宝に指定されています。
そんな兼続を、ある武将がひやかしたそうです
「そんな、書ばかり求めて、田の肥やしにもなるまい」
答えて兼続曰く
「頭の肥やしになりもうす」
ここいらあたりが、兼続の真骨頂かと。
朝鮮出兵時は、激務をこなしつつも
医学書三百巻を書写させたという
ここらへんも彼のスサマジサを感じますし、
後の話になりますが、
1607年日本初の銅活字といわれる『文選』(直江版)の出版や
米沢藩の学問所である禅林寺を創立しています。
ただ、その後の秀吉の死によって、
家康の専横に加えて
武断派・文治派の権力争いがおきます。
会津120万石の有力大大名で
豊臣五大老の一人でもある上杉景勝は
家康の専横を苦々しく思い、
家康との直接対決を決意して、
直江兼続に命じ、軍事力の増強に乗り出しました。
景勝の軍事力増強は、
近隣の大名である最上義光や堀秀治らによって
逐一、家康に報告されました。
さらに3月11日には、
上杉氏の内部で唯一、時勢を見据えて
家康との関係修復に奔走していた津川城代の藤田信吉が、
直江兼続の讒言を受けて上杉氏から追放されました。
家康は、このように軍事力増強を進める景勝に対し
増田長盛の家臣の伊奈昭綱、河村長門両名を
問罪使として派遣。
このとき、家康は兼続とも親交がある
西笑承兌に弾劾状を認めさせています。
その内容は、景勝の軍事力増強を咎め、
異心が無いのであれば、誓書を差し出した上で上洛し、
弁明するべきというものである。というものでした。
これに対して、景勝と兼続が
どのような対応をしたかというのは
また、来週のお話であります。
ダライ・ラマ14世の、
チベットに対する提案は以下の通り。
(1987年、アメリカ議会の人権問題小委員会での「チベットに関する5項目の和平案」)
・チベット全土を平和地域とする
・チベット民族の存続を脅かす中国の人口移動政策を放棄する
・チベット民族の基本的人権および民主主義に基づく自由を尊重する
・チベットの自然環境を保護し、回復させる。チベットでの核兵器の製造、核廃棄物の投棄をしない
・チベットの将来の地位について、また、チベット人と中国人との関係について、真剣な交渉を開始する
そして、チベット人による本当の自治権が得られれば独立は求めないと譲歩しました。(1988年、「ストラスブール」提案)
「イトー×ani」がお届けする
FURANO History Factory (F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
コールサインJOZZ1AS-FM 周波数77.1MHz
北海道富良野市とその周辺だけでしか
聴くことが出来ない
コミュニティーFM局「ラジオふらの」の
毎週月曜日午後五時からオンエアー中
番組へリクエスト・メッセージは
〒076-0026 富良野市朝日町5-17 レストランふらの広場内ラジオふらの
E-mail radio@furano.ne.jp FAX 0167-22-2787
リクエストなどは
当ブログのコメント欄でも
受け付けています。
追 冬祭りは
畏友GMクンのサークル「北蝦夷協和会」で参戦
2日目 29日(月)東5 パ−49aです。
札幌では、日の出が7時3分
日の入りが16時3分
9時間の昼と15時間の夜という
一年で一番日中が短い日です。
この後から段々
朝が早くなるイメージがありますが
日の出の時間が遅くなるのが早く
日の入りの時間はまだまだ
遅くなるようです。
柚子湯や、冬至粥(小豆粥)や南瓜を食べると
風邪をひかないという風習は有名ですが
中国の北方では餃子を、
南方では餡の入った団子をゆでたものを食べる
習慣もあるそうです。
先日訪れたスーパーでも
「冬至かぼちゃ」の名前で
白玉団子とカボチャが餡であえられたものが
売っていました。
ってことで、ワタクシ昨日は
カボチャ団子と餃子をいただきました。
12月22日オンエアー 第193回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
放送を終えました。
先日、富良野市教育委員会社会教育課主催
「ふらの市民講座」2008年度の第一講目で
お話をさせていただきました
直江兼続の話の続きであります。
越後の国を強固な一枚岩にまとめあげた
戦国最強といっても過言ではない、上杉謙信。
近衛前久との血書の起請文を交わしたことから
朝廷・幕府のために戦い、
関東管領に対しての仇敵北条氏と抗争し
村上義清や高梨政頼(景虎の叔父)の要請を受けて
武田信玄と激闘を繰り返す
このような「義」の戦いを繰り返したと上
下克上の風潮が当たり前の戦国時代に関わらず
一旦結んだ同盟は破らず、見返りの領土を求めないという
潔癖なところに
魅力を感じた人も少なくないでしょう。
このような薫陶を受けたのが
幼少時の直江兼続(当時は樋口与六)だという設定で
大河ドラマははじまるものと思われます。
直江兼続は、永禄3年(1560)、
越後国魚沼郡上田庄坂戸城に生れました。
父は同城主の長尾政景に仕えた「樋口惣右衛門兼豊」
(源義仲(木曾義仲)の重臣である樋口兼光の末裔といっております)
母は信州泉氏の娘(直江景綱の妹説もあります)と
伝えられています。
彼は、謙信の姉であり、政景の正室であり
次男、長尾顕景(のちの上杉景勝)の実母でもある
仙桃院の薦めで、幼い頃から景勝に仕え
長尾政景の死をきっかけとして
顕景に従い謙信の居城である春日山城へ入っていった
というストーリーで
ドラマはすすんでいくのでしょう。
この時、謙信34歳 兼続4歳 顕景(景勝)9歳でした。
ですが、
ここらへんのことを裏付けする史料はありません。
面白おかしく歴史をエンターティンメントにした
江戸時代後期の講談とか、
明治時代以降の講釈本などには
兼続は謙信に才気と美貌を見出され、小姓・近習として近侍、
その寵愛深い衆道の相手、かつ、
信頼の篤い近臣であったという「俗説」が
世間に「定説」として広く流布し、
現代でも時代小説や、一般向けの歴史解説本などが
この「俗説」を「事実」として採り上げています。
が、実際には生前の謙信と兼続の関わりを示す
信憑性のある史料は今の所、ないということで、
青少年期の兼続が謙信との関係は
全く不明なのです。
だから、1577(天正5)年、
上杉謙信軍が織田信長軍に大勝した
手取川の戦いに参戦しているかどうかも
当然全くわからないことなのです。
が、ドラマ的には「いる」ってことで
盛り上がるのでしょう。
何回かこのブログでも
NHKのプロデューサー氏が、歴史作家の加来耕三氏に語った話を
彼ご自身が出演されているラジオ番組でお話をされて
僕はラジオでこの話しを聞いたのですが
史料がないことについて
歴史ドラマ制作をする立場としては
しめた と思うとのこと。
ナルホドーって感じです。
さて、そんな謙信と兼続が出逢った
とされた14年後に
謙信が急死をします。
謙信が、長尾家を継ぐ前後に
国を割るような内乱が起きますが
1578(天正6)年の謙信の死後も、上杉の家督をめぐり
謙信の養子である23歳の上杉景勝
(前述通り、実父は長尾政景)と
同じく養子の24歳の上杉景虎 (実父は北条氏康)との間で
すさまじい内乱がおきます。
これが御館の乱です。
御館とは、上杉謙信が関東管領上杉憲政を迎えた時に
その居館として作られた関東管領の館で
春日山城下に設けられ後に
謙信も政庁として使用していました。
当初この戦いは景勝方が不利のまま進んでいきますが
1万両で仇敵、武田勝頼に協力要請をし、
甲越同盟を結ぶことで形勢逆転、
1579(天正7)年、景虎が自害をするという結末で
けりがつきます。
この御館の乱では兼続は、父樋口兼豊と共に
景勝方に付いていまして、
このころから、景勝の側近としての活動が
現存する史書にも残るようになりました。
ところが、御館の乱により
越後の国中はめちゃくちゃになりますし、
しかも、1581(天正9)年には、
能登・越中を柴田勝家に奪われてしまうことになります。
そんな年、春日山城中では
景勝の側近である家老直江信綱と家老山崎秀仙が、
対談中に毛利名左衛門秀広に殺害されるという事件が起きました。
この時に殺された直江信綱に子がなかったということで、
名門直江家の断絶をおしんだ景勝の命で
兼続は、信綱の父である直江景綱の娘で、
信綱の妻であったお船の方の婿として結婚
(お船の方にとっては再婚になります)
跡取りのない直江家を継ぐことになります。
ここからいよいよ「直江兼続」になるのです。
しかし、上杉家の基盤の弱体化は変わらず、
1582(天正10)年、武田勝頼が
天目山で織田信長に滅ぼされ、
信長の部下、森長可は信濃の大部分を手に入れ
越後国境に迫りました。
同じ頃、信長の部下、滝川一益も上州廐橋城をとり、
更に越後魚沼郡上田への侵攻をねらっていました。
越中でも、信長方の前田利家、佐々成政の勢力が増大し、
上杉方の越中魚津城は信長方に攻められ、
篭城した上杉方の中条越前守景泰等十余名が
自刃して城は陥落しました。
このような織田勢に三方を囲まれる形となった
上杉にとって幸運だったのが、
信長が本能寺の変で明智光秀に殺されたことで、
織田勢が退陣をしたことです。
しかも、1583(天正11)年には、兼続の尽力で、
景勝は織田家中で台頭をしてきた
羽柴秀吉と和することで、局面は好転することになります。
さらに、賤ヶ岳の戦いこそは合戦には参加できませんでしたが
1584(天正12)年の小牧・長久手の戦い、
1585(天正13)年の富山の役でも
それぞれ秀吉に味方をして、
富山の役では、佐々成政を牽制しました。
この時に秀吉やこの後の盟友となる石田三成と
会合をした(しかも秀吉がひょこっと景勝と兼続に会いに来た)
という話がありますが…
こちらも信憑性のある史料はありません。
公式に秀吉と景勝・兼続が逢ったとされるのが
1586(天正14)年に、景勝、兼続が上洛をした時で
この時に、それまで文書を交わしたことがあった
兼続と、盟友石田三成の初対面もありました。
その際には、景勝は、越中と上野の領有を放棄することで
換わりに佐渡・出羽の切り取りを許可されます。
また、景勝は、正親町天皇に拝謁して
右近衛少将に任じられました。
その後、景勝は、
1587(天正15)年には、柴田勝家と結ぶなどして
長年にわたり抗争状態にあった新発田重家を討ち、
再び越後の統一に成功。(新発田重家の乱)
1588(天正16)年には再び上洛をして、
従三位参議に昇叙され、
この時、豊臣姓と羽柴の苗字を許されました。
また1589(天正17)年には本間氏を討ち佐渡を平定し、
1591(天正19)年の小田原攻めにも
1892(文禄元)年の秀吉の朝鮮出兵にも
それぞれ参戦をしております。
特に朝鮮出兵が始まると、
5,000人を率いて肥前名護屋に駐屯、
翌1593(文禄2)年には3か月にわたって
家臣の高梨頼親らを伴って渡鮮をし、
釜山郊外に城郭の建築などにあたりました。
これらの事業の片腕となって活躍をしたのが
兼続だったのです。
そして、蒲生氏郷の死と、その後の蒲生家の断絶により
1598(慶長3)年、秀吉の命により、蒲生の旧領
会津120万石に加増移封されました
これは、秀吉にとって目の上の瘤である
北側に境を接する最上義光や、
伊達政宗と衝突の危険性が有るので、
改易された蒲生氏に代わり
東北諸大名の監視と牽制のための配置でした。
更に景勝は、最上・伊達対策として要となる
米沢城に直江兼続に30万石
(与力を含む、直江本領は6万石との説あもります)を
与えて配置するという、異例の措置をとります。
それだけ信頼が篤かったという事でしょう。
ただ、このようなエピソードのみだと
武力の人のイメージが強いですが
そんなことはありません。
兼続は上洛する時などは、必ず
能書家の家来をつれていきます。
それは、なぜか
文書を集めるという、実益を兼ねた趣味が
あるからなのです。
南化和尚、西笑承兌などとも親交があり
文化人としても知られています。
兼続の蔵書である宋版の『史記』『漢書』『後漢書』は
南化和尚から贈られた物であり
いずれも国宝に指定されています。
そんな兼続を、ある武将がひやかしたそうです
「そんな、書ばかり求めて、田の肥やしにもなるまい」
答えて兼続曰く
「頭の肥やしになりもうす」
ここいらあたりが、兼続の真骨頂かと。
朝鮮出兵時は、激務をこなしつつも
医学書三百巻を書写させたという
ここらへんも彼のスサマジサを感じますし、
後の話になりますが、
1607年日本初の銅活字といわれる『文選』(直江版)の出版や
米沢藩の学問所である禅林寺を創立しています。
ただ、その後の秀吉の死によって、
家康の専横に加えて
武断派・文治派の権力争いがおきます。
会津120万石の有力大大名で
豊臣五大老の一人でもある上杉景勝は
家康の専横を苦々しく思い、
家康との直接対決を決意して、
直江兼続に命じ、軍事力の増強に乗り出しました。
景勝の軍事力増強は、
近隣の大名である最上義光や堀秀治らによって
逐一、家康に報告されました。
さらに3月11日には、
上杉氏の内部で唯一、時勢を見据えて
家康との関係修復に奔走していた津川城代の藤田信吉が、
直江兼続の讒言を受けて上杉氏から追放されました。
家康は、このように軍事力増強を進める景勝に対し
増田長盛の家臣の伊奈昭綱、河村長門両名を
問罪使として派遣。
このとき、家康は兼続とも親交がある
西笑承兌に弾劾状を認めさせています。
その内容は、景勝の軍事力増強を咎め、
異心が無いのであれば、誓書を差し出した上で上洛し、
弁明するべきというものである。というものでした。
これに対して、景勝と兼続が
どのような対応をしたかというのは
また、来週のお話であります。
ダライ・ラマ14世の、
チベットに対する提案は以下の通り。
(1987年、アメリカ議会の人権問題小委員会での「チベットに関する5項目の和平案」)
・チベット全土を平和地域とする
・チベット民族の存続を脅かす中国の人口移動政策を放棄する
・チベット民族の基本的人権および民主主義に基づく自由を尊重する
・チベットの自然環境を保護し、回復させる。チベットでの核兵器の製造、核廃棄物の投棄をしない
・チベットの将来の地位について、また、チベット人と中国人との関係について、真剣な交渉を開始する
そして、チベット人による本当の自治権が得られれば独立は求めないと譲歩しました。(1988年、「ストラスブール」提案)
「イトー×ani」がお届けする
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番組へリクエスト・メッセージは
〒076-0026 富良野市朝日町5-17 レストランふらの広場内ラジオふらの
E-mail radio@furano.ne.jp FAX 0167-22-2787
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2日目 29日(月)東5 パ−49aです。
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