FHF
「栄光なき天才たち」とは
僕が大学生の時に「ヤングジャンプ」で
連載がはじまったマンガですが、

思えば、現在B級グルメを取り扱った
マンガとして僕のなかでは双璧である
「駅前の歩き方」の作者
森田信吾さんを知るきっかけと
なった作品でもありました。

(ちなみに、B級グルメマンガの双璧で
もう一方の雄は「孤独のグルメ」だと思うのですが…)


さて、そんな「栄光なき天才たち」は
その他にもいろいろなことを
僕に教えてくれました。

10月20日オンエアー 第184回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
放送を終えました。

日本人として今回、四人のノーベル賞受賞者を
日本人〔南部さんは米国籍ですが〕出しました。


日本人ではじめてノーベル賞を受賞したのは、
1949年の湯川秀樹博士ですが、

実は1901年の第一回から
候補者として日本人は上がっていました。



例えば北里柴三郎や野口英世が
そうだそうなのです。


野口英世の業績はある程度有名ですが

北里柴三郎とは…?




北里柴三郎は、1853年/嘉永5年に、
熊本県阿蘇郡小国町で庄屋の長男に生まれました。

腕白で、もとは軍人を志していましたが、
両親の願いにより熊本藩の藩校「時習館」から
熊本医学校へ進学して、そこでマンスフェルトに出会った事で
本格的に医学への道を決意しました。


1875(明治8)年に東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学
1883(明治16)年に医学士となります。

在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信して、
予防医学を生涯の仕事とするため、

大学卒業後は、

かつて適塾で塾頭をつとめ
維新後は海外視察などの経験により
文部省医務局、その後、
医務局がうつされた内務省に入った
長与専斎が局長であった内務省衛生局へ就職。


同じ熊本出身のうえに、東京医学校の同期生であり、
東大教授兼衛生局試験所所長を務めていた
緒方正規のすすめによって、
1885(明治18)年よりドイツベルリン大学へ留学しますが、
そこで、細菌学の大家であるローベルト・コッホに師事し
多くの発見をします。

中でも、破傷風菌純粋培養法と
破傷風菌抗毒素の発見は
前人未踏のもので、
世界の医学界を驚嘆させました。

さらに、菌体を少量ずつ動物に注射しながら
血清中に抗体を生み出す血清療法を開発しました。


1890(明治23)年には、血清療法をジフテリアの治療に応用し、
研究所の同僚であったベーリングと連名で
「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という
論文を発表しました。

この論文によっても第1回ノーベル医学・生理学賞の候補に
北里の名前があがったのです。

ところが、結果は
抗毒素という研究内容を主導していた北里でなく、
共同研究者のベーリングのみがこの業績により受賞したのです。

医学賞選考委員会が当初46名の候補から15名に絞り込んだ中に
北里の名前はあってもベーリングの名前はなかったのですが

それにもかかわらず
ベーリングが受賞をして、北里が受賞できなかったのは
東洋人、黄色人種であったからなどともいわれています。


ちなみに余談ですが師匠のコッホが
ノーベル賞を受賞したのは1905年のことです。



さて、これらの論文がきっかけで
欧米各国の研究所や大学から
多くの招きを受けたのですが、

「国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と、
伝染病の脅威から国家国民を救うことである」
という理由で招きを固辞し、
1892(明治25)年に帰国しました。


しかし、ドイツ滞在中に、
「脚気の原因は細菌である」とする
東大教授緒方正規の説に対し,
脚気菌ではないと批判をした為、
北里は恩知らずであるとして
母校東大医学部と対立する形となってしまい、
帰国後も日本での活躍が限られてしまいました。


ところが、この事態を聞いた福澤諭吉の援助によって
芝公園に、私立伝染病研究所が設立されることとなり、
北里はそこの初代所長となりました。

その後、「伝研」は、国に寄付され
内務省管轄の国立伝染病研究所となり
伝染病予防と細菌学に取り組みます。

ここには、北里のもと、赤痢菌の発見者である志賀潔や
梅毒治療で高名な秦佐三郎
黄熱病や梅毒の研究発見で知られる野口英世
ハブの血清療法で有名な北島多一
といった、日本近代医学を代表するような
そうそうたる面々が集っており、

1894(明治27)年には
ペストの蔓延していた香港に、政府より派遣され、
病原菌であるペスト菌を発見するという業績をあげました。

そのような成果をあげながらも、北里は
「伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべき」
との信念のもと、内務省の所管ということで、
研究にあたっていたのですが、

1914(大正3)年に政府は、所長の北里に一切の相談もなく、
伝染病研究所の所管を突如文部省に移管し
東大の下部組織にするという方針を発表しました。

これは、脚気をきっかけとしての長年の東大との確執が
背景であるといわれていますが、

北里は自分の志に反する政府のやり方を承服できず、
移管に反発し所長をやめて、
新たに私費を投じて私立北里研究所
(現・社団法人北里研究所。北里大学の母体)を
設立しました。

この時に、志賀潔をはじめ研究所の職員全員が
北里についていくため一斉に辞表を提出したということで
「伝研騒動」などとも言われております。

そこでは狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの
血清開発に取り組みました。

福澤諭吉の没後の1917(大正6)年、
福澤諭吉による長年にわたる多大なる恩に報いるために、
諭吉の遺志を継いで、慶應義塾大学医学部を創設し、
初代医学部長、付属病院長となります。

しかも、それだけに止まらず
医学部の教授陣には、北島多一や志賀潔など
北里研究所の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込み、
北里は終生無給で顧問として
慶應義塾医学部の発展に尽力したのでした。

また、日本医師会長を始め多くの医学団体の要職に就き、
わが国の公衆衛生特に結核の予防のほか、
医学、医学教育の発展に大きな足跡をのこしたということで

やはり日本医学界の巨人といっても
良い活躍をしたのでした。




と、いったように、
人種差別でノーベル賞を受けられなかったと
いわれるのが北里でしたが、

学会の確執などで受賞できなかったとされるのが
鈴木梅太郎です。

彼は1874(明治7)年4月7日
静岡県榛原郡堀野新田村(現 牧ノ原市)で、
農業・鈴木庄蔵の次男として生まれます。

その後農科大学(現東京大学農学部)農芸化学科を卒業し。
東京帝国大学教授を務めるとともに
理化学研究所の設立者として名を連ねます。

そんな彼が、1910(明治43)年、
米の糠から抗脚気因子として
「世界初のビタミンであるアベリ酸」
(のちにオリザニンと改名、ビタミンB1)を発見しました。


しかし、この時に二つの悲劇がありました。

一つは、このときの論文がドイツ語に翻訳される際、
「これは新しい栄養素である」という一行が
訳出されなかったということです。

このためオリザニンは世界的な注目を受けることがなく、
第一発見者としては日本国内で知られるのみと
なってしまいました。

この後、クリスティアーン・エイクマンと
フレデリック・ホプキンスが
1929年にノーベル生理学・医学賞を受けますが

貧弱な食生活が、脚気の原因となることを実証
なかでも、玄米が脚気を防ぐということから
ビタミンを発見したということで

鈴木の研究と多くの部分が重なっています。





また、あと一つの悲劇が
鈴木が農学者であったということです。


脚気に効く「アベリ酸報告」の当時は、
東京帝国大学医学部を中心とする多くの医学者の間で
脚気は感染症であるという説が信じられていました。

そこでくちさがない某医学者が
「農学者が何を言うか、糠が効くのなら小便でも効くだろう」
と非難したといいます。

この某医学者とは、北里と確執があり
伝研の移管を画策した中心人物である青山胤通か、
脚気は細菌による感染症であると
死ぬまで主張していた森鴎外であると
いわれています。

ちなみにこの鴎外がたてた
白米中心のレーションを与える方針によって

日清戦争時の陸軍では、
戦死者よりも脚気で病死した兵士のほうが
多かったのは、有名なお話ですが。

ただし、しかし実際にオリザニンによって
脚気が治癒した例が相次ぐと、
脚気感染症説論者もオリザニンの効果を
信じざるを得なくなりました。

全く、北里にしても、鈴木にしても
脚気をめぐった東大や森鴎外一派との確執に
翻弄されてしまったのが悲劇といえば悲劇ですし

野口英世も東大との確執は
そうとう強かったようでした。


また、鈴木は、1922(大正11)年に合成清酒を発明し、
1924年(大正13)に「理研酒『利久』」の名称で
市販しています。

合成清酒とは、
工業用アルコールに糖類、有機酸、アミノ酸などを加えて、
清酒のような風味にしたアルコール飲料のことですが
1918(大正7)年に起きた米騒動をうけて、
将来の食糧難における対策、という視点から
研究に着手したものなのです。

が、これがこの後に
「美味しんぼ」での登場がきっかけに批判されて
現在でも「もやしもん」などでも
色々と言われている

発酵時にできたアルコール以外を加える
「三倍増醸」の技術にも影響を与えました。

よかれと思ってしたことが
金儲けの手段として使われてしまった好例です。


ちなみに現在の理化学研究所の理事長は
ノーベル賞受賞者の野依良治さんです。


また、戦前に理化学研究所を中心として
形成された旧財閥「理研グループ」の
企業としては
リコーとかオカモトとか理研食品などが
身近ですかね。




さて、今までのべたのは
人種問題や、学会の確執で受賞が出来ない例でしたが
ノーベル財団の読み間違いで受賞できなかったのが

山極勝三郎でした。


彼は、1963(文久2)年
上田藩(現在の長野県上田市)に生まれます。

同郷の医師である山極吉哉の養子となり、
ドイツ語を学びつつ医師を目指し
1880(明治13)年に東京大学予備門、
1885(明治18)年には東京大学医学部(のちの東京帝大医学部)に
入学し、
卒業時は主席という成績を残しました。

1889(明治22)年には肺結核を患うものの
療養を続けながら研究を行って

1891(明治24)年からドイツに留学、
帰国後の1895(明治28)年に
東京帝大医学部教授に就任します。
専門は病理解剖学で、特に癌研究では日本の第一人者でした。


当時、癌の発生原因やメカニズムはわからなくて、
主たる説に「刺激説」「素因説」などが存在していました。

山極は煙突掃除夫に皮膚癌に罹患する例が多いことに着目して
刺激説を採って、実験を開始します。

その実験は、ひたすらウサギの耳にコールタールを塗布し続ける
という地道なもので、すでに多くの学者が失敗していたものでした。

しかし、山極は、北大を卒業したのちに山極の研究室へ入った助手の
市川厚一と共に、実に3年以上に渡って反復実験を行い、
1915(大正4)年には、ついに人工癌の発生に成功します。


「栄光なき天才たち」での、この実験の描写というのが
マンガならではというか、
マンガ表現の最大のポイントで

リアリティーを読者に感じさせてくれるものでしたし

山極にしても、北里柴三郎にしても
野口英世にしても、
その実験のテクニックと数の多さが
他のヨーロッパの学者よりもスゴかったというところに

同じ日本人として漠然としたウレしさを感じます。



さて、
その一方で、山極による人工癌の発生に先駆けて、
デンマークのヨハネス・フィビゲルが
寄生虫による人工癌発生に成功していました。

当時からフィビゲルの研究は一般的なものではなく、
山極の研究こそが癌研究の発展に貢献するものではないか
という意見が存在していたにもかかわらず、

1926(大正15)年にはフィビゲルにノーベル生理学・医学賞が
与えられました。


ところが、

後年、フィビゲルの研究は
ごく一部のネズミにのみ再現可能で
一般的な例ではないということが実証され、
現在の人工癌の発生と、それによる癌の研究は
山極の業績であることが証明されています。


当時のノーベル賞の選考委員のひとり、
スウェーデンのフォルケ・ヘンシェンは後日、来日した際に
「山極にノーベル賞を与えるべきだった」と
当時の選考委員のミスを悔やんだそうです。

また、選考委員会が開かれた際に
「日本人にはノーベル賞は早すぎる」
との発言があったことも明かしています。
(ただし、このことについて
否定的な見解をしめす人もおります。)

原則としてノーベル賞の選考は非公開とされていますが、
フィビゲルの受賞は「ノーベル賞最大の汚点」ともいわれていることから
贖罪の意味もこめて明かしたのではないかと言われています。

フィビゲルがノーベル賞を受ける前の、
1923(大正14)年には帝大を定年退官。
フィビゲルがノーベル賞を受賞した
4年後の1930(昭和5)年に、
肺炎でなくなっています。




いずれも、異なる例ですが
惜しくもノーベル賞を逃したという点で
共通をするのかなと思いますし

250年間、間断なく進歩し続けた西洋文明と
ほぼ隔絶していたにも関わらず

これだけの成果をあげた明治人の
気骨とすさまじいパワーや向学心に
僕らも学ぶところが多いのだなあと

思ったのです。



また、このことを教えてくれた

『栄光なき天才たち』の素晴らしさを
再認識をしたりもしたのですが。
(ちなみに、この三人のエピソードについては
森田さんだけではなく、
原作者 伊藤智義さんも関わっております。為念)

単行本は17巻まで出ています。
機会があれば、一読をおすすめします。




ノーベル平和賞受賞者ダライ・ラマ14世の、
チベットに対する提案は以下の通り。
(1987年、アメリカ議会の人権問題小委員会での「チベットに関する5項目の和平案」)

・チベット全土を平和地域とする
・チベット民族の存続を脅かす中国の人口移動政策を放棄する
・チベット民族の基本的人権および民主主義に基づく自由を尊重する
・チベットの自然環境を保護し、回復させる。チベットでの核兵器の製造、核廃棄物の投棄をしない
・チベットの将来の地位について、また、チベット人と中国人との関係について、真剣な交渉を開始する

そして、チベット人による本当の自治権が得られれば独立は求めないと譲歩しました。(1988年、「ストラスブール」提案)



来週はがらっと違ったテーマでお話をする(予定)の
「イトー×ani」がお届けする 
FURANO History Factory (F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
コールサインJOZZ1AS-FM  周波数77.1MHz
北海道富良野市とその周辺で聴くことが出来る
コミュニティーFM局「ラジオふらの」の
毎週月曜日午後五時からオンエアー中

番組へリクエスト・メッセージは
〒076-0026 富良野市朝日町5-17 レストランふらの広場内ラジオふらの
E-mail radio@furano.ne.jp FAX 0167-22-2775

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