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2008.10.06
生麦生米生卵
このあいだ、仕事を終えて
十勝岳温泉へと向かったのですが
山の木々は鮮やかに色づいておりました。
先週来、ぐっと冷え込んだせいで
一気に紅葉がすすんだような気がします。
朝起きて、気温が10度を切っているのは
あたりまえ。
こんどは、いつ氷点下になるのかなぁなどと
来る冬に対して思いを馳せてしまうのですが。
10月6日オンエアー 第182回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
放送を終えました。
先週まで、薩英戦争のお話をさせていただきました。
NHKの大河ドラマ「篤姫」では
「すいか、うまか〜」
「シャンパン、うまか〜」のシーンは
出てきませんでした。
残念。
ボクとしては、またお一(オカツ)だったころ篤姫が
大久保達にタイをふるまった時の
大久保達の感想
「こん鯛、うまか〜」と言ったのは
このエピソードの伏線に聞こえてならず
笑いをこらえるの必至だったのですが…。
[何そのシーン?という方は
先週の当ブログをご覧ください]
さて、そんな薩英戦争の発端となったのが
生麦事件です。
生麦事件は、文久2年8月21日(1862年9月14日)に、
生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、
薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した
騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷した事件です。
文久2年(1862年)、薩摩藩主島津茂久(のちの忠義))父・
国父、島津久光は、幕政改革を提案するために、
700人にのぼる軍勢を引き連れて江戸へ出向きました。
久光の提案により、井伊政権によって追放された
松平慶永や、徳川慶喜らの一橋派が
復権することになります。
が、この薩摩から江戸へ上がる途上で
いわゆる寺田屋事件が起きています。
当時の薩摩の立場であり
朝廷でも主流の考えであった
公武合体に不満をもった
尊王攘夷派の薩摩藩士や他藩の藩士、浪士の行動を
[公武合体派公家の襲撃計画など]
いさめるため説得をしますが、
ここから同士討ちが始まった。
これか寺田屋事件の概略です。
久光自身が、朝廷から不逞浪士を鎮撫するように
勅命を受けていたこともありました。
だから、単に薩摩藩の内輪もめといったような
簡単な事情ではないようです。
さて、そんなこともありながら
道中は順調にすすみ、文久の改革と呼ばれる提案も
受け入れられたということで目的を達し、
勅使[天皇の使い・代理]であった大原重徳とともに
京都へ帰る運びとなりました。
(大原重徳一行とは
日にちはずれていましたが。)
行列が生麦村に差し掛かった時に、
騎馬のイギリス人といきあいました。
横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていた
ウッドソープ・チャールズ・クラーク、
横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャル、
マーシャルの従姉妹で、香港在住イギリス商人の妻であり、
横浜へ観光に来ていたマーガレット・ボロデール夫人、
そして、
上海で長年商売をしていて、やはり見物のため来日していた
チャールズ・レノックス・リチャードソンです。
この4人はこの日、東海道で乗馬を楽しんでいました。
ちょうど事件が自宅前で起こったため
一部始終を間近に見た生麦村の住人、勘左衛門が、
事件当日に神奈川奉行所に出した報告書と
神奈川奉行支配定役並・鶴田十郎覚書と
そして当時イギリス公使館の通訳見習だった
アーネスト・サトウの日記をつきあわせると
おおむねこのような感じです。
行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、
正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、
身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、
イギリス人たちは、「わきを通れ」と
言われただけだと思いこんだ。
「わき」といったところで、
行列はほぼ道幅いっぱいにひろがっているので、
結局4人は、どんどん行列の中を逆行して進んだ。
鉄砲隊もつっきり、
ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、
供回りの藩士たちの無礼を咎める声に、
さすがに、どうもまずいとは気づいたらしい。
しかし、あくまでも下馬して敬意を表するという発想はなく、
今度は「引き返せ」といわれたと受け取り、
馬首をめぐらそうとして、
あたりかまわず無遠慮に動いた。
そのとき、数人の藩士が抜刀し、斬りかかった。
4人は驚いて逃げようとしたが、すでに遅かった。
リチャードソンは、肩から腹へ斬りさげられ、
臓腑が出るほどの重傷で、
桐屋という料理屋の前から200メートルほど先で落馬し、
追いかけてきた藩士にとどめを刺された。
マーシャルとクラークも深手を負い、
ボロデール夫人に、
「あなたを助けることができないから、ただ馬をとばして逃げなさい」
と叫んだ。
夫人も一撃を受けていたが、
帽子と髪の一部がとばされただけで、無傷だった。
マーシャルとクラークは、血を流しながらも馬をとばし、
神奈川のアメリカ領事館(本覚寺)へ駆け込んで助けを求め、
ヘボン博士の手当を受けることになった。
無傷のボロデール夫人が、まっさきに横浜の居留地へ駆け戻り、
救援を訴えた。
ちなみに公爵島津家編纂所編の『薩摩海軍史』によれば、
リチャードソンに最初の一太刀をあびせたのは奈良原喜左衛門、
さらに逃げる途中で抜き打ちに切ったのが久木村治休
落馬の後、介錯のつもりで止めをさしたのは、
井伊直弼を襲撃した有村次左衛門の兄、有村俊斎、
のちの海江田信義だそうです。
[ま、これは海江田が後に語った話でもあるのですが]
なお、当時近習番で、後に大蔵卿・大蔵大臣・総理大臣を歴任する
松方正義によれば、
駕籠の中の久光は「瞑目して神色自若」であったが、
松方が「外国人が行列を犯し、今これを除きつつあります」と報告すると、
おもむろに大小の柄袋を脱し、
いつでも自ら刀が抜けるよう準備をしたそうです。
これまでも、浪士による攘夷行動はありましたが
それはあくまでも個人的な行為
このような藩士が一斉に斬りかかるような事件は、
初めてでした。
こののち、英国公使館も動きますし
保土ヶ谷に止まった久光も
藩士を探索に出させたりしています。
が、その後
「浪人3.4人が突然出てきて外国人を殺してどこかへ消えた」
という報告書を幕府に出し、この十日後に
「足軽の岡野新助が異人を斬って逃げた。探索につとめている」
という、なんともナメた報告書を出しました。
実は、薩摩の大名行列一行は
江戸に到着して間もない時期に
江戸に来る時、すでに久光の行列は、騎馬の外国人に遭遇し
狭い東海道で、日本人の通行にはかまわず、
横に並んで広く場所をとり、不作法が見受けられる。
としていて。続けて、
「久光も少々のことには目をつぶれ、
と藩士たちに達してはいるが、
先方に目にあまる無礼があった場合は、
そのままにするわけにもいかない。
各国公使へ不作法はつつしむように達して欲しい」
と、訴えているのです。
それに対して幕府は
そういう達しはすでに出しているが、
言葉も通じず、習慣もちがうことから、
我慢して穏便にすませて欲しい」
というその場しのぎのもので、
実のところ幕府は、
「大名行列への不作法をつつしんでもらいたい」などという達しは
出していませんでした。
しかも、この後、イギリス政府と交渉をする時も
「なぜ薩摩の大名行列を知らせなかったのか」ということに対し
「勅使は高貴だが、大名は幕府の下に属するもので達する必要はない。これまでもそれで問題はなかった」と答えて、
「勅使より薩摩藩の通行の方が問題が起こる可能性が高いのはわかりきった話だろう」
と、イギリス代理公使のニールにつっこまれています。
このことは、幕府の統制が及ばない薩摩藩を、
「大名は幕府の下にあるのであり、
さらに島津久光は元藩主でさえない」
という国内[というか、幕府]のみで通用する
形式的な身分論でのみとらえてしまい、
その幕府の本音を外交上の重要な場面で持ち出してしまった。
これは、幕府側に政権当事者としての現実認識が欠けていい、
最初から「大名など身分が低く尊重する必要はないので、
無礼をはたらいてもかまわない」と認めてかかっているに等しいです。
この二枚舌外交にいわば、薩摩もイギリスも
翻弄されてしまったのです。
しかも、幕府はある意味自分たちの怠慢と無知が
事態を招いたにもかかわらず
軍勢を率い、勅使をともなって、
幕政に口を出しに来た島津久光に対して、
敵意をもっていたということもあって
この生麦事件の知らせに、
「薩摩は幕府を困らせるために、わざと外国人を怒らせる挙に出たのだ」
と受け止める幕臣が多数で、薩摩を憎み、
イギリスを怖れることに終始し、
対策も方針もまったくたてることができないでいた。
とのことです。
なんだか、今も昔も役所って…って
思いますね。
しかも、当然ですが
イギリスや薩摩にも非はあります。
当時、宣教の機会をうかがって来日していた
アメリカ人女性宣教師のマーガレット・バラは、
アメリカの友人への手紙に
「その日は江戸から南の領国へ帰るある主君の行列が東海道を下って行くことになっていたので、幕府の役人から東海道での乗馬は控えるように言われていたのに、この人たちは当然守らなければならないことも幕府の勧告も無視して、この道路を進んで来たのでした。そしてその大名行列に出会ったとき、端によって道をゆずるどころか行列の真ん中に飛び込んでしまったのです」
と書いたそうです。
アメリカ公使館は非公式の通知を受けていたか、
あるいは情報を得て、独自の判断から自国民に
警告を出していたのではないかとも考えられます。
また、こんなアメリカ人もおりました。
事件が起こる前に島津の行列に遭遇した
アメリカ人商人のユージン・ヴァン・リードは、
すぐさま下馬した上で馬を道端に寄せて
行列を乱さない様に道を譲り、
脱帽して行列に礼を示しました。
これを見た薩摩藩士側も
外国人が行列に対して敬意を示していると了解し、
特に問題にならなかったそうです。
ヴァン・リードは日本の文化を熟知していて、
大名行列を乱す行為がいかに無礼な事であるか、
礼を失すればどういう事になるかを理解していたので、
生麦事件の被害者に対して
「彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である」
非難する意見を述べています。
また、被害にあったリチャードソンについて
英国ブルース公使は、本国の外務大臣への半公信に
「リチャードソン氏は慰みに遠乗りに出かけて、大名の行列に行きあった。大名というものは子供のときから他人に敬意を表せられつけている。もしリチャードソン氏が敬意を表することに反対であったのならば、何故に彼よりも分別のある同行の人々から強く言われたようにして、引き返すか、道路のわきによけるかしなかったのであろうか。私はこの気の毒な男を知っていた。というのは、彼が自分の雇っていた罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で、重い罰金刑を課した上海領事の措置を支持しなければならなかったことがあるからである。彼はスウィフトの時代ならばモウホークであったような連中の一人である。わが国のミドル・クラスの中にきわめてしばしばあるタイプで、騎士道的な本能によっていささかも抑制されることのない、プロ・ボクサーにみられるような蛮勇の持ち主である」
リチャードソンが、上海で活動していた時も
苦力に暴行を加えたり
していたなどの過去をふまえて
書かれています。
しかも、リチャードソンたちは、
「今日は島津三郎通行の通知ありたり。危険多ければ見合すべし」
と友人から忠告されていたという話もあるりまして
でも、出かけたのは、やはりナメていたところが
あるのでしょう。
また、前述し、生麦事件について
多くの証言を残しているアーネスト・サトウは
「……あなたの東方問題に関する長文のお手紙は大変私には興味がありましたが、それについて詳細に申し上げ、またリチャードスン事件についての情報を差し上げる時間はありません。あの当時の日記に私は註釈をつけて置きましたが、それらは舞台裏にいなかった十九歳の少年のものであります。私の記憶に最もなまなましく残っている事実は、他の人々全員に先んじてウィリスが単独で東海道を馬に乗って、負傷者が横たわっている米国領事館まで行き、そのうちの何人かが、おそらく襲撃に加わった、薩摩藩のサムライたちのなかを切り抜けたことです。彼が危害を加えられなかったという事実は、その場に現れたかも知れないすべての外国人たちを殺傷することが、島津三郎の家来たちの心中にはなかったこと、そしてリチャードスン殺害は双方の不幸な大失策であったということです。当時私が耳にしたのは、彼が馬の向きを変えたとき、島津三郎の駕籠に近過ぎ、どうかしてそれに触れたか、おそらく棒の先端に触れたかしたということです。しかし、これが実際に起こったとか、そして一行をサムライたちの怒りに曝したなどと私は主張する気はありません」
と書き残し、
まだ現役の外交官であるにもかかわらず
被害者に同情的な感想をのべてないのです。
以上に見るように、生麦事件は、
リチャードソン一行の現地蔑視からくる
礼儀を欠いた行動によって発生したもので、
上海におけるリチャードソンのふるまいにも
粗暴なものがあり事件を引き起こしていることから、
イギリス外務省も、内々には非を認めていたようです。
ただ、極東に進出していたイギリスのミドル・クラスの人々には、
現地の習わしをふみにじる粗暴なタイプも多く
[駐日イギリス公使ラザフォード・オールコックは
横浜の居留民社会を「ヨーロッッパの人間の屑」と表現していました]
上海の商人仲間におけるリチャードソンの評判は、
かならずしも悪くはなかったようです。
ま、ワルくて当たり前な世界では
多少ワルくても評判は下がりませんよね。
ただし、そうであれ、国益を第一に考えなくてはならない
イギリス外務省も、その指令を受ける在日イギリス公使館も、
横浜居留商人などの強硬論や
被害者家族の訴求が出てくると、
無視することはできなかったのです。
そして、薩摩のほうは薩摩のほうで
二太刀目をキメた、久木村治休は
「私ども薩藩の若侍は夷人となると切ってみたかったものだ。しかし、やたらに斬るわけにはいかない。実際、負傷外人が駆けて来た時は「御馳走が来たな」と思った」
と回顧録に書いている、というような話もあります。
薩摩から出て、初めて傍若無人に行動する多数の外国人を見て、
攘夷気分を昂ぶらせていた藩士も多かったわけで、
しかも当時、攘夷殺傷は一般に
英雄行為として称えられていましたから。
薩英戦争直前に
「スイカ、うまか〜」で乗船したあと
「オイはヤツば切る」「オイはヤツば」と
誰が誰を切るか、相談していたことを
思い出させてくれるエピソードです。
しかも、この攘夷行動に対して
攘夷を歓迎していた東海道筋の庶民は、
「さすがは薩州さま」と歓呼して
久光の行列を迎えたそうです。
これは、事件当時戸塚の宿役人の、後年の談話です。
京都の朝廷にも攘夷の雰囲気が蔓延し
近代化を模索していた薩摩の思惑と
少々異なってしまうようでした。
が、こののちのイギリスとの交渉・決裂を経て
結局攘夷を捨て、イギリスと相互理解をし
近代化へと邁進し、倒幕の原動力となるという。
結果論ではありますが、生麦事件と薩英戦争は、
幕藩体制の矛盾と、徳川幕府の交渉能力の未熟さを、
諸外国に向けて露呈させるきっかけとなったのです。
歴史に「もし」はありませんが。
生麦事件が、薩摩の大名行列ではなかったら…
外国に高飛車に交渉に来られても
次藩の有利になるまで交渉し
そして交渉が決裂してのちはじめて戦闘をするという
「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」
という、クラウゼヴィッツの戦争論を
地でいくような戦いを展開した
薩摩ならではです。
しかも、戦争への備えも万全
結果も、外国のテクノロジーを見せつけられはしたものの
痛み分けという結果でした。
[イギリスがナめてたことも大きかったですが]
が、江戸時代幕末の諸藩に
薩摩ほどの万全の備えを持ち、かつ気骨があった藩は
ないでしょう。
[長州びいきの僕としては、長州と言いたいところですが
残念ながら、四国艦隊砲撃と薩英戦争を比べると
訓練された正規軍と野盗やゲリラの戦い
以上の差を感じてしまうのです…]
そんな薩摩と、不良外人の取り合わせ
しかも、不良外人もいれば紳士もいる、グレートブリテン
[アヘン戦争も国を挙げてイケイケという
わけではなく「国旗の栄光はケガされた」と
批判する政治家もおりましたから]
と、薩摩という取り合わせが
やはり歴史の神様の産物だなぁ
と思うのです。
ダライ・ラマ14世の、チベットに対する提案は以下の通り。
(1987年、アメリカ議会の人権問題小委員会での「チベットに関する5項目の和平案」)
・チベット全土を平和地域とする
・チベット民族の存続を脅かす中国の人口移動政策を放棄する
・チベット民族の基本的人権および民主主義に基づく自由を尊重する
・チベットの自然環境を保護し、回復させる。チベットでの核兵器の製造、核廃棄物の投棄をしない
・チベットの将来の地位について、また、チベット人と中国人との関係について、真剣な交渉を開始する
そして、チベット人による本当の自治権が得られれば独立は求めないと譲歩しました。(1988年、「ストラスブール」提案)
来週からはまた
違うテーマでお話をする「イトー×ani」がお届けする
FURANO History Factory (F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
コールサインJOZZ1AS-FM 周波数77.1MHz
北海道富良野市とその周辺で聴くことが出来る
コミュニティーFM局「ラジオふらの」の
毎週月曜日午後五時からオンエアー中
番組へリクエスト・メッセージは
〒076-0026 富良野市朝日町5-17 レストランふらの広場内ラジオふらの
E-mail radio@furano.ne.jp FAX 0167-22-2787
リクエストなどは
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受け付けています。
十勝岳温泉へと向かったのですが
山の木々は鮮やかに色づいておりました。
先週来、ぐっと冷え込んだせいで
一気に紅葉がすすんだような気がします。
朝起きて、気温が10度を切っているのは
あたりまえ。
こんどは、いつ氷点下になるのかなぁなどと
来る冬に対して思いを馳せてしまうのですが。
10月6日オンエアー 第182回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
放送を終えました。
先週まで、薩英戦争のお話をさせていただきました。
NHKの大河ドラマ「篤姫」では
「すいか、うまか〜」
「シャンパン、うまか〜」のシーンは
出てきませんでした。
残念。
ボクとしては、またお一(オカツ)だったころ篤姫が
大久保達にタイをふるまった時の
大久保達の感想
「こん鯛、うまか〜」と言ったのは
このエピソードの伏線に聞こえてならず
笑いをこらえるの必至だったのですが…。
[何そのシーン?という方は
先週の当ブログをご覧ください]
さて、そんな薩英戦争の発端となったのが
生麦事件です。
生麦事件は、文久2年8月21日(1862年9月14日)に、
生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、
薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した
騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷した事件です。
文久2年(1862年)、薩摩藩主島津茂久(のちの忠義))父・
国父、島津久光は、幕政改革を提案するために、
700人にのぼる軍勢を引き連れて江戸へ出向きました。
久光の提案により、井伊政権によって追放された
松平慶永や、徳川慶喜らの一橋派が
復権することになります。
が、この薩摩から江戸へ上がる途上で
いわゆる寺田屋事件が起きています。
当時の薩摩の立場であり
朝廷でも主流の考えであった
公武合体に不満をもった
尊王攘夷派の薩摩藩士や他藩の藩士、浪士の行動を
[公武合体派公家の襲撃計画など]
いさめるため説得をしますが、
ここから同士討ちが始まった。
これか寺田屋事件の概略です。
久光自身が、朝廷から不逞浪士を鎮撫するように
勅命を受けていたこともありました。
だから、単に薩摩藩の内輪もめといったような
簡単な事情ではないようです。
さて、そんなこともありながら
道中は順調にすすみ、文久の改革と呼ばれる提案も
受け入れられたということで目的を達し、
勅使[天皇の使い・代理]であった大原重徳とともに
京都へ帰る運びとなりました。
(大原重徳一行とは
日にちはずれていましたが。)
行列が生麦村に差し掛かった時に、
騎馬のイギリス人といきあいました。
横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていた
ウッドソープ・チャールズ・クラーク、
横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャル、
マーシャルの従姉妹で、香港在住イギリス商人の妻であり、
横浜へ観光に来ていたマーガレット・ボロデール夫人、
そして、
上海で長年商売をしていて、やはり見物のため来日していた
チャールズ・レノックス・リチャードソンです。
この4人はこの日、東海道で乗馬を楽しんでいました。
ちょうど事件が自宅前で起こったため
一部始終を間近に見た生麦村の住人、勘左衛門が、
事件当日に神奈川奉行所に出した報告書と
神奈川奉行支配定役並・鶴田十郎覚書と
そして当時イギリス公使館の通訳見習だった
アーネスト・サトウの日記をつきあわせると
おおむねこのような感じです。
行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、
正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、
身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、
イギリス人たちは、「わきを通れ」と
言われただけだと思いこんだ。
「わき」といったところで、
行列はほぼ道幅いっぱいにひろがっているので、
結局4人は、どんどん行列の中を逆行して進んだ。
鉄砲隊もつっきり、
ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、
供回りの藩士たちの無礼を咎める声に、
さすがに、どうもまずいとは気づいたらしい。
しかし、あくまでも下馬して敬意を表するという発想はなく、
今度は「引き返せ」といわれたと受け取り、
馬首をめぐらそうとして、
あたりかまわず無遠慮に動いた。
そのとき、数人の藩士が抜刀し、斬りかかった。
4人は驚いて逃げようとしたが、すでに遅かった。
リチャードソンは、肩から腹へ斬りさげられ、
臓腑が出るほどの重傷で、
桐屋という料理屋の前から200メートルほど先で落馬し、
追いかけてきた藩士にとどめを刺された。
マーシャルとクラークも深手を負い、
ボロデール夫人に、
「あなたを助けることができないから、ただ馬をとばして逃げなさい」
と叫んだ。
夫人も一撃を受けていたが、
帽子と髪の一部がとばされただけで、無傷だった。
マーシャルとクラークは、血を流しながらも馬をとばし、
神奈川のアメリカ領事館(本覚寺)へ駆け込んで助けを求め、
ヘボン博士の手当を受けることになった。
無傷のボロデール夫人が、まっさきに横浜の居留地へ駆け戻り、
救援を訴えた。
ちなみに公爵島津家編纂所編の『薩摩海軍史』によれば、
リチャードソンに最初の一太刀をあびせたのは奈良原喜左衛門、
さらに逃げる途中で抜き打ちに切ったのが久木村治休
落馬の後、介錯のつもりで止めをさしたのは、
井伊直弼を襲撃した有村次左衛門の兄、有村俊斎、
のちの海江田信義だそうです。
[ま、これは海江田が後に語った話でもあるのですが]
なお、当時近習番で、後に大蔵卿・大蔵大臣・総理大臣を歴任する
松方正義によれば、
駕籠の中の久光は「瞑目して神色自若」であったが、
松方が「外国人が行列を犯し、今これを除きつつあります」と報告すると、
おもむろに大小の柄袋を脱し、
いつでも自ら刀が抜けるよう準備をしたそうです。
これまでも、浪士による攘夷行動はありましたが
それはあくまでも個人的な行為
このような藩士が一斉に斬りかかるような事件は、
初めてでした。
こののち、英国公使館も動きますし
保土ヶ谷に止まった久光も
藩士を探索に出させたりしています。
が、その後
「浪人3.4人が突然出てきて外国人を殺してどこかへ消えた」
という報告書を幕府に出し、この十日後に
「足軽の岡野新助が異人を斬って逃げた。探索につとめている」
という、なんともナメた報告書を出しました。
実は、薩摩の大名行列一行は
江戸に到着して間もない時期に
江戸に来る時、すでに久光の行列は、騎馬の外国人に遭遇し
狭い東海道で、日本人の通行にはかまわず、
横に並んで広く場所をとり、不作法が見受けられる。
としていて。続けて、
「久光も少々のことには目をつぶれ、
と藩士たちに達してはいるが、
先方に目にあまる無礼があった場合は、
そのままにするわけにもいかない。
各国公使へ不作法はつつしむように達して欲しい」
と、訴えているのです。
それに対して幕府は
そういう達しはすでに出しているが、
言葉も通じず、習慣もちがうことから、
我慢して穏便にすませて欲しい」
というその場しのぎのもので、
実のところ幕府は、
「大名行列への不作法をつつしんでもらいたい」などという達しは
出していませんでした。
しかも、この後、イギリス政府と交渉をする時も
「なぜ薩摩の大名行列を知らせなかったのか」ということに対し
「勅使は高貴だが、大名は幕府の下に属するもので達する必要はない。これまでもそれで問題はなかった」と答えて、
「勅使より薩摩藩の通行の方が問題が起こる可能性が高いのはわかりきった話だろう」
と、イギリス代理公使のニールにつっこまれています。
このことは、幕府の統制が及ばない薩摩藩を、
「大名は幕府の下にあるのであり、
さらに島津久光は元藩主でさえない」
という国内[というか、幕府]のみで通用する
形式的な身分論でのみとらえてしまい、
その幕府の本音を外交上の重要な場面で持ち出してしまった。
これは、幕府側に政権当事者としての現実認識が欠けていい、
最初から「大名など身分が低く尊重する必要はないので、
無礼をはたらいてもかまわない」と認めてかかっているに等しいです。
この二枚舌外交にいわば、薩摩もイギリスも
翻弄されてしまったのです。
しかも、幕府はある意味自分たちの怠慢と無知が
事態を招いたにもかかわらず
軍勢を率い、勅使をともなって、
幕政に口を出しに来た島津久光に対して、
敵意をもっていたということもあって
この生麦事件の知らせに、
「薩摩は幕府を困らせるために、わざと外国人を怒らせる挙に出たのだ」
と受け止める幕臣が多数で、薩摩を憎み、
イギリスを怖れることに終始し、
対策も方針もまったくたてることができないでいた。
とのことです。
なんだか、今も昔も役所って…って
思いますね。
しかも、当然ですが
イギリスや薩摩にも非はあります。
当時、宣教の機会をうかがって来日していた
アメリカ人女性宣教師のマーガレット・バラは、
アメリカの友人への手紙に
「その日は江戸から南の領国へ帰るある主君の行列が東海道を下って行くことになっていたので、幕府の役人から東海道での乗馬は控えるように言われていたのに、この人たちは当然守らなければならないことも幕府の勧告も無視して、この道路を進んで来たのでした。そしてその大名行列に出会ったとき、端によって道をゆずるどころか行列の真ん中に飛び込んでしまったのです」
と書いたそうです。
アメリカ公使館は非公式の通知を受けていたか、
あるいは情報を得て、独自の判断から自国民に
警告を出していたのではないかとも考えられます。
また、こんなアメリカ人もおりました。
事件が起こる前に島津の行列に遭遇した
アメリカ人商人のユージン・ヴァン・リードは、
すぐさま下馬した上で馬を道端に寄せて
行列を乱さない様に道を譲り、
脱帽して行列に礼を示しました。
これを見た薩摩藩士側も
外国人が行列に対して敬意を示していると了解し、
特に問題にならなかったそうです。
ヴァン・リードは日本の文化を熟知していて、
大名行列を乱す行為がいかに無礼な事であるか、
礼を失すればどういう事になるかを理解していたので、
生麦事件の被害者に対して
「彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である」
非難する意見を述べています。
また、被害にあったリチャードソンについて
英国ブルース公使は、本国の外務大臣への半公信に
「リチャードソン氏は慰みに遠乗りに出かけて、大名の行列に行きあった。大名というものは子供のときから他人に敬意を表せられつけている。もしリチャードソン氏が敬意を表することに反対であったのならば、何故に彼よりも分別のある同行の人々から強く言われたようにして、引き返すか、道路のわきによけるかしなかったのであろうか。私はこの気の毒な男を知っていた。というのは、彼が自分の雇っていた罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で、重い罰金刑を課した上海領事の措置を支持しなければならなかったことがあるからである。彼はスウィフトの時代ならばモウホークであったような連中の一人である。わが国のミドル・クラスの中にきわめてしばしばあるタイプで、騎士道的な本能によっていささかも抑制されることのない、プロ・ボクサーにみられるような蛮勇の持ち主である」
リチャードソンが、上海で活動していた時も
苦力に暴行を加えたり
していたなどの過去をふまえて
書かれています。
しかも、リチャードソンたちは、
「今日は島津三郎通行の通知ありたり。危険多ければ見合すべし」
と友人から忠告されていたという話もあるりまして
でも、出かけたのは、やはりナメていたところが
あるのでしょう。
また、前述し、生麦事件について
多くの証言を残しているアーネスト・サトウは
「……あなたの東方問題に関する長文のお手紙は大変私には興味がありましたが、それについて詳細に申し上げ、またリチャードスン事件についての情報を差し上げる時間はありません。あの当時の日記に私は註釈をつけて置きましたが、それらは舞台裏にいなかった十九歳の少年のものであります。私の記憶に最もなまなましく残っている事実は、他の人々全員に先んじてウィリスが単独で東海道を馬に乗って、負傷者が横たわっている米国領事館まで行き、そのうちの何人かが、おそらく襲撃に加わった、薩摩藩のサムライたちのなかを切り抜けたことです。彼が危害を加えられなかったという事実は、その場に現れたかも知れないすべての外国人たちを殺傷することが、島津三郎の家来たちの心中にはなかったこと、そしてリチャードスン殺害は双方の不幸な大失策であったということです。当時私が耳にしたのは、彼が馬の向きを変えたとき、島津三郎の駕籠に近過ぎ、どうかしてそれに触れたか、おそらく棒の先端に触れたかしたということです。しかし、これが実際に起こったとか、そして一行をサムライたちの怒りに曝したなどと私は主張する気はありません」
と書き残し、
まだ現役の外交官であるにもかかわらず
被害者に同情的な感想をのべてないのです。
以上に見るように、生麦事件は、
リチャードソン一行の現地蔑視からくる
礼儀を欠いた行動によって発生したもので、
上海におけるリチャードソンのふるまいにも
粗暴なものがあり事件を引き起こしていることから、
イギリス外務省も、内々には非を認めていたようです。
ただ、極東に進出していたイギリスのミドル・クラスの人々には、
現地の習わしをふみにじる粗暴なタイプも多く
[駐日イギリス公使ラザフォード・オールコックは
横浜の居留民社会を「ヨーロッッパの人間の屑」と表現していました]
上海の商人仲間におけるリチャードソンの評判は、
かならずしも悪くはなかったようです。
ま、ワルくて当たり前な世界では
多少ワルくても評判は下がりませんよね。
ただし、そうであれ、国益を第一に考えなくてはならない
イギリス外務省も、その指令を受ける在日イギリス公使館も、
横浜居留商人などの強硬論や
被害者家族の訴求が出てくると、
無視することはできなかったのです。
そして、薩摩のほうは薩摩のほうで
二太刀目をキメた、久木村治休は
「私ども薩藩の若侍は夷人となると切ってみたかったものだ。しかし、やたらに斬るわけにはいかない。実際、負傷外人が駆けて来た時は「御馳走が来たな」と思った」
と回顧録に書いている、というような話もあります。
薩摩から出て、初めて傍若無人に行動する多数の外国人を見て、
攘夷気分を昂ぶらせていた藩士も多かったわけで、
しかも当時、攘夷殺傷は一般に
英雄行為として称えられていましたから。
薩英戦争直前に
「スイカ、うまか〜」で乗船したあと
「オイはヤツば切る」「オイはヤツば」と
誰が誰を切るか、相談していたことを
思い出させてくれるエピソードです。
しかも、この攘夷行動に対して
攘夷を歓迎していた東海道筋の庶民は、
「さすがは薩州さま」と歓呼して
久光の行列を迎えたそうです。
これは、事件当時戸塚の宿役人の、後年の談話です。
京都の朝廷にも攘夷の雰囲気が蔓延し
近代化を模索していた薩摩の思惑と
少々異なってしまうようでした。
が、こののちのイギリスとの交渉・決裂を経て
結局攘夷を捨て、イギリスと相互理解をし
近代化へと邁進し、倒幕の原動力となるという。
結果論ではありますが、生麦事件と薩英戦争は、
幕藩体制の矛盾と、徳川幕府の交渉能力の未熟さを、
諸外国に向けて露呈させるきっかけとなったのです。
歴史に「もし」はありませんが。
生麦事件が、薩摩の大名行列ではなかったら…
外国に高飛車に交渉に来られても
次藩の有利になるまで交渉し
そして交渉が決裂してのちはじめて戦闘をするという
「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」
という、クラウゼヴィッツの戦争論を
地でいくような戦いを展開した
薩摩ならではです。
しかも、戦争への備えも万全
結果も、外国のテクノロジーを見せつけられはしたものの
痛み分けという結果でした。
[イギリスがナめてたことも大きかったですが]
が、江戸時代幕末の諸藩に
薩摩ほどの万全の備えを持ち、かつ気骨があった藩は
ないでしょう。
[長州びいきの僕としては、長州と言いたいところですが
残念ながら、四国艦隊砲撃と薩英戦争を比べると
訓練された正規軍と野盗やゲリラの戦い
以上の差を感じてしまうのです…]
そんな薩摩と、不良外人の取り合わせ
しかも、不良外人もいれば紳士もいる、グレートブリテン
[アヘン戦争も国を挙げてイケイケという
わけではなく「国旗の栄光はケガされた」と
批判する政治家もおりましたから]
と、薩摩という取り合わせが
やはり歴史の神様の産物だなぁ
と思うのです。
ダライ・ラマ14世の、チベットに対する提案は以下の通り。
(1987年、アメリカ議会の人権問題小委員会での「チベットに関する5項目の和平案」)
・チベット全土を平和地域とする
・チベット民族の存続を脅かす中国の人口移動政策を放棄する
・チベット民族の基本的人権および民主主義に基づく自由を尊重する
・チベットの自然環境を保護し、回復させる。チベットでの核兵器の製造、核廃棄物の投棄をしない
・チベットの将来の地位について、また、チベット人と中国人との関係について、真剣な交渉を開始する
そして、チベット人による本当の自治権が得られれば独立は求めないと譲歩しました。(1988年、「ストラスブール」提案)
来週からはまた
違うテーマでお話をする「イトー×ani」がお届けする
FURANO History Factory (F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
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