2008.08.25 秋の気配
FHF
一昨日〜昨日は、
東京から帰ってきて初の週末ということで
またアチコチ車で出かけておりました。

峠とか山の上では
気温が一桁なのを体験したり、
はやくも紅葉の気配があったりと、
改めて秋の訪れを感じたのです。

がそんなことをしているうちに
家に帰って疲れたせいで、速攻寝てしまい

また「篤姫」を見逃してしまいました

とほほ

8月25日オンエアー 第176回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
放送を終えました。

北京五輪が終わりました。

当ブログでも少しずつかいてある通り
僕は、この五輪は中国政府の宣伝臭の強さに
辟易したこということもあり
ニュースなどで映像が目に入ってくる部分は
やむをえないとしても、五輪の特番とか
五輪自体の中継とかは、ほとんど見ないようにしていました。

でも、耳目に入ってきてしまうのは
日本マスコミと広告屋のクオリティーです。

ちなみにオリンピックの開会式とかは、
ミニ国家が大好きな僕ですから
他の五輪であるなら、一所懸命見たでしょうが

全く見ずにラジオを聞いたり電話をしたり
していました。

が、わずかしか見ていないのですが
ニュースなどで映像を見ると
やはりかつての歴史で強調されたのが

中国文化の歴史性のようです。

現在の中国政府は
かつての帝国支配的王朝というのは
評価していない
むしろ否定していたはずなのに…

と、いうツッこみはさておき


革命で政権が変わることにより
今までの歴史観が180度変化し
過去の歴史が全否定であるのも
ザラである世界の各国と比較してみると

改めて、日本の皇室は
フシギな存在であると思うのです。


中国の史書で4世紀〜5世紀に実在した
とされていた大王が、ルーツとなっているというのが
天皇家については、妥当な判断かな、思うのです。

それ以前の大王についての記述は
基本として、8世紀に成立した
古事記や日本書紀の記述が中心ということで、

科学的根拠というと、少々どう?
というツッこみどころがあるのです。


さて、そのような時代から
ずっと天皇家(古代は大王家ですが)は
日本史の中で揺るぎない存在として
君臨をしておりました。

ただし、実質的な権力を握っていたのは
いわゆる大化の改新〜天武朝くらいと
桓武朝(+嵯峨朝?)と、後三条からの白河以降の院政期と
後醍醐朝くらいですか。

それ以外の時代は
蘇我氏にはじまり、
(このシステムを構築した蘇我氏というのは
日本史の中でも特筆すべき存在だと思います)
藤原氏だったり、平氏だったり
源氏・足利氏・豊臣氏・徳川氏といった
時の勢力者に権威と支配の正当性を与える存在と
なりました。

徳川家康も幕府を開くにあたって
慎重に、天皇家をたてつつも、
存在をなんとか目立たせないような
工作を行ったのですが

この隠していた存在を顕在化させたのが
いわゆる水戸徳川家の水戸学なのです。

「大日本史」のなかで徳川光圀が
皇室の意義を強調することで
倒幕派に大義名分を与えることとなります。

「水戸学」は、天下泰平の時は
単に学問として機能をしていたのですが

天保の改革の失敗による幕府の権威失墜と
ペリーの来航によって

政治的な思想として注目をされるのです。


しかも、幕政を担っていた
有能な阿部正弘は若くして死去してしまい、
井伊直弼は暗殺してしまった。

加えて、井伊の死の遠因が
皇室をナイガシロにしたことですから

その後の老中安藤信正によって、
幕政の強化という狙いでさまざまなことが画策されます。

中でも、皇室の権威の利用という
側面が強い、公武合体(「篤姫」の中では、井伊が画策したことと
なっておりますが…)の一環で

下向してきたのが

和宮親子内親王でした。


彼女は、弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)に
仁孝天皇の第8皇女として誕生し、
幕政混乱期に在位していた孝明天皇は、異母兄になります。


その後、5歳のときに
有栖川宮幟仁親王の長男・熾仁親王と
婚約をしたものの、

幕府と朝廷の関係を優位にすすめたい九条尚忠や岩倉具視と
幕府の安藤らとの利害が一致したことによって
婚約破棄させられてしまいます。

ここが、まずは和宮の悲劇です。


その後、文久元年10月20日(1861年9月26日)、
1.0歳の時に徳川家茂との婚儀の為に京都を出発。

文久2年2月11日(1862年3月12日)、
江戸に着き皇室から降嫁し、家茂と婚儀を江戸城で挙行します。

和宮11歳です。

天皇家の女性がで唯一、武家に降嫁し、
関東下向した例なのです。

唯一というところもあって
結婚に対しては、抵抗が強かった。

だから結婚が決定後も、せめてもの妥協策として
幕府に大奥風ではなく、御所風の生活を守ることなどを
約束させているのです。

但し、「御所風の生活」の方は
幕府首脳が大奥に全く根回ししていなかったため
約束は破棄同然となり、
幕末の大奥が大混乱に陥った一因となりました。

また、文久2年2月11日和宮と家茂の婚儀では
和宮が征夷大将軍よりも高い身分である内親王の地位で降嫁したため、
嫁入りした和宮が主人、嫁を貰う家茂が客分という
逆転した立場で行われることとなり、

今までの十三代の将軍たちの婚儀とは
当然大きく異なる形となりました。

これも、幕府の対朝廷慰撫策として
行われたのです。

この延長で、和宮及びそのお付き女中は
宮中風の生活習慣を守り続けますが

その反面、当然というか
大奥になじまない和宮一行を大奥側も不遇な待遇をし、

ここに、軋轢が生まれることとなったのです。


しかし、そんな険悪な空気が
この後、天障院のねばり強さと
家茂の機転で和解することとなります。

まぁ、ここら辺が今後のドラマ「篤姫」の
キモでしょうね。


そんな家茂と和宮の夫婦仲ですが

実は良好ですし

第二次長州征伐での遠征最中に
家茂は病没するのですが

土産に頼んだ西陣織を
袈裟に仕立てたり(ここもいいシーンです)

家茂の病没後も
ずっと菩提をとむらったりと

なかなかかいがいしく尽くしているのです。

というと、アレですか
和宮も今流行の
ツンデレですか。(失礼)



ちなみに史実では天障院と仲良くなったのは
明治維新後に勝海舟の仲裁で
何度と無く食事をしたこと
以来ということなのですが。


そして、薩摩出身の天障院も新政府後も
幕府の人中心と交流を持つように

和宮も、幕府の人と交流を
持つようになったというので

まぁ、人生とはそういうものかな、
などと思ったのです。



あと、ジックリと見たわけではありませんが
フジ系のドラマ「大奥」で、チラッと見た
安達祐美さんの和宮はインパクトありました。


それは、
以前参加させていただいた
自費出版の本で

和宮をわがままなギャル↑として戯画化されている
マンガを見て、思わず噴いてしまったのも
原因の一つにあるのですが…


さて、堀北さんは、どんな和宮像を
われわれに見せてくれるのでしょうか

今後が楽しみです。




ダライ・ラマ14世の、チベットに対する提案は以下の通り。
(1987年、アメリカ議会の人権問題小委員会での「チベットに関する5項目の和平案」)

・チベット全土を平和地域とする
・チベット民族の存続を脅かす中国の人口移動政策を放棄する
・チベット民族の基本的人権および民主主義に基づく自由を尊重する
・チベットの自然環境を保護し、回復させる。チベットでの核兵器の製造、核廃棄物の投棄をしない
・チベットの将来の地位について、また、チベット人と中国人との関係について、真剣な交渉を開始する

そして、チベット人による本当の自治権が得られれば独立は求めないと譲歩しました。(1988年、「ストラスブール」提案)



「久々の日本史のお話が
キモティー(GG佐藤風)」とか先週書いたっけ
あのプレイはなんですか…、と思っている
「イトー×ani」がお届けする 
FURANO History Factory (F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
コールサインJOZZ1AS-FM  周波数77.1MHz
北海道富良野市とその周辺で聴くことが出来る
コミュニティーFM局「ラジオふらの」の
毎週月曜日午後五時からオンエアー中

番組へリクエスト・メッセージは
〒076-0026 富良野市朝日町5-17 レストランふらの広場内ラジオふらの
E-mail radio@furano.ne.jp FAX 0167-22-2787

リクエストなどは
当ブログのコメント欄でも
受け付けています。
Secret

TrackBackURL
→http://radiofhf.blog65.fc2.com/tb.php/725-048ceb73