FHF
車で富良野郊外を走っていますと
田んぼに水がはられるようになっています。

早いところではもう田植えがすんでいまして
かわいらしい苗がちょこんと水面から頭を出しています。

頂と谷に残雪が模様を作る山が
そんな水面に映るのですが

この時期しか見るこができない、
富良野の美しい景色だと思っています。

来週、富良野地区では、小学校の運動会です

そんなニュースを聞くと
いよいよ季節は春から次第にうつろいゆく感じです。


5月19日オンエアー 第163回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
放送を終えました。


ミャンマーのサイクロン被害の死者の皆様
中国四川の大地震被害の死者の皆様

衷心よりお悔やみを申し上げます。

被災者の皆様におかれましても
衷心よりお見舞いを申し上げます。


地震によるダムの崩壊と、それにともなう水害も
憂慮されます。

また機会がありましたら
お伝えしたいと思っております。


さて、ラジオのほうは、先週の続きです。

大河ドラマ「篤姫」は、いよいよ大奥編に突入しまして
家定の様子をみて、篤姫が不安になる
そんな描写が秀逸ですね。

最初に見たときに抱く、相手に対しての不安が
大きいければ大きい分だけ
次第に心を許していくときの、振れ幅も大きくて
見ている方は、うわーっとなるのですよ。

最終的にくっつくのに
最初はケンカをしたり、最悪な出会いをしてまったり

ラブストーリーの王道ではないですか。

ってか、ヤンデレですか。

まぁ、「篤姫」はそんな手法で作られた大河ですから、
当初の不安はどこへやら、
それなりの視聴率をキープしているのでしょう。



さてさて、そんな「篤姫」が、今後活躍をする場となる大奥。

江戸城に存在した将軍や大御所の正室や側室、
その母や幼い子、及び御殿女中たちの居所で

巨大なプライベートルームです。


初代将軍徳川家康の時代から
江戸城に「大奥」はありましたが、
厳密に男子禁制ということはなく

正室や女中などが表に足を運んだり
家臣が大奥を訪れる事がありました。

その後、3代徳川家光の時代に
家光の正室が鷹司孝子との関係が、ものすごく険悪だったり

そもそも家光自体が、女性嫌いで
孝子だけでなく、ほとんどの女性を近づけずに
世継ぎをなかなかもうけようとしなかったことから

心配をした家光の乳母、春日局が
家光好みの女性を集めてきて
大奥のシステムができたといっても過言ではないのです。

それで男装っコに、歌姫に、入浴係といった
ギャルゲーもかくや、といったバラエティーにとんだ
女のコたちのお陰で
お世継ぎも生まれましたとさ

めでたしめでたし。


さてさて
こんな努力の諸々から出来上がった組織が
「大奥」でした。


男子禁制になった大奥は江戸城の一角にありまして

江戸城の本丸御殿は、
幕府の政治諸々を取り仕切る「表」
将軍が執務や普段の生活を行う「中奥」
将軍の正室・側室や、生母に子ども、女中たちがいる「大奥」
と区別をしていました。

将軍と将軍の幼い息子、及び御匙医師を除けば
基本的に男性が立ち入る事が許されなくなりました。

本丸御殿は表と中奥が同一の建物であるのに対し
大奥は分離をしていまして、
周囲を銅塀によって囲われていました。

この間を繋いでいる一本の廊下は
「御鈴廊下」と呼ばれていました。
将軍が大奥へ入る際に鈴のついた紐を引いて鈴を鳴らして
合図を送ってから、出入り口を開錠させていた事から
この名が付きました。

ここらへんはドラマでもオナジミの
シーンなのではないでしょうか。


そんな大奥で中心となる人が
やはり正室 御台所(みだいどころ)でしょう。
天守台に近い位置にある
御化粧間とその周辺の区画で生活をしております。

慣例として、天皇家・宮家・公卿から迎えるというのは
先週お話しした通りです。

篤姫も、近衛家の養女となってから
とついでいますからね。

そして、側室

将軍や、御台所の身辺世話役である中臈から
選ばれることが多く、そのため中臈は
家元や器量の良い女性が選ばれることが多かったようです。

吉宗みたいな例外もおりますが…

そして、将軍の目に適ったものが
寝間の準備をされ、一通り終わったら
その中臈は「お手つき」
懐妊したら「お腹さま」と呼ばれます。

そして、その子が将軍にもなろうものなら

大きな実権を握ることになるのです。


と、いうことで、大奥がニギヤカになるのは
やはり世継ぎが生まれない時

そして、江戸時代で世継ぎが生まれないといえば

五代将軍綱吉なのです。


綱吉の母は、お風呂係からお手つきになった
お夏の方の次の側室お玉の方です。

こちらは、
西陣織屋の娘だとか、畳屋の娘だとかいう
説があります。
僕が、子ども時代読んだ「歴史マンガ」では
彼女は八百屋の娘ということになっていました。

で、ついでにその「歴史マンガ」では
お坊さんに「いいツラガマエをしているから出世をする」
と言われて、大奥に入ったのちに
そのお坊さんをそのままブレーンにする
という描写もありまして

さらに、世継ぎの生まれぬ実子綱吉のことも相談した結果、

「戌年生まれなのに、殺生をするむくいである。」

と、言われた結果できたのが、
天下の悪法「生類憐れみの令」である

当時小学生だつたボクは、それを鵜呑みにしておりました。


ところが実情は少々違います。
(と、いうか、このマンガが描かれた昭和40年代後半までは
こちらのほうがポピュラーな学説だったのでしょうが)



初めて、動物の殺生を禁止する法令を出した貞享4年(1687年)には
そのお坊さん(隆光)は江戸には出てきていない

と、いうことで、最近では、彼は生類憐れみの令には
関係ないというの見方が支配的です。


では、なぜこのような法令を作ったかという話ですが

この時期は、武断政治から文治政治への転換期でした。

家康から秀忠、家光の代までは
武家諸法度を厳密に守って
武士に対しては、厳罰でのぞむし、

大名家についても
改易・転封あたりまえという
強い姿勢でのぞんでいました。

その結果として、浪人問題が浮上してきて


慶安の変を契機に
大名の改易条件を緩和したり
殉死を禁止しました。

そのような文治政治の時期の政策として大切なのが
戦国時代の遺風を改めることで、

江戸幕府では早い段階で
髭を制限したり、太刀を制限したり
髷の形を制限したりしました。

その一環として「殺生をつつしませた」
それが、生類憐れみの令のスタートだったようです。



しかし、当然のように違反者が減らず、
このことが幕府の沽券にかかわるということで

「御犬毛付帳制度」をつくって犬を登録制にしたり、
犬目付職を設けて、犬への虐待が取り締まったり
犬虐待への密告者に賞金が支払われることとなったりと、
次第に統制を強くしていったのでした。



1687年に出された時は、殺生をつつしませたのに加え、
犬、猫をつなぎとめるのはかわいそうといったレベルだったのですが
1668年には、馬を乱暴にしない、鳥、貝を江戸城で食べるな
1687年には、魚や鳥類を食べるのを一切禁止 鶏と亀と貝類も含む
1689年には、犬の戸籍を作り、いのしし、鹿の食用を禁止
1691年には、タマゴも食べるな、
犬・猫・鼠に芸を覚えさせて見世物にすることを禁止
1692年には、迷子の犬は母犬をきめてあげる
1693年には、しゃべる馬が居るらしいという噂を確かめるために
10か月の大捕物をします。
1695年には、大久保・四谷に犬小屋がつくられ、
そこの住民は強制的に立ち退き
1669年には、犬殺しを密告したものに賞金30両のお触れ
1700年には、活魚の売買は、ウナギもドジョウもだめ

そして、その状態が、綱吉の死まで、9年間続きました。



密告者に対する賞金といったあたりで
監視社会化がすすんでしまった
というあたりは皮肉なもんです。

また綱吉に気に入られようという意図で
大規模な犬小屋を作ったものもいますし

上の命令を忠実にこなす官僚社会の歪みが
こんなところにもでています。


あと、しゃべる馬探しのために
江戸住民全員に聞き取り調査をしたということで
当時の江戸の住民が35万3588人だとわかったという

とんだおマケもついてきたりします。

それにしても、綱吉が作らせたという犬小屋が
16万坪の巨大なもの。
今の単位で直すと
だいたい7キロメートル四方の土地です。

そこに5万匹とも10万匹とも言われる犬を放ち、
えさには一日白米3合、みそ50匁、干し鰯1合
犬の食費は年間9万8千両


まぁ、本人がペットとして100匹の狆を飼っていたほど
犬好きだったというのはあるのですが。

それにしてもスゴいですね。



生類憐れみの令に真っ向から対立したのが
当代有数の人気者、水戸徳川氏の徳川光圀です。

生類憐れみの令を皮肉って
綱吉に上質な犬の皮を20枚(一説に50枚)送りつけたという
逸話も残っています。

大人げないですね、光圀。


しかも光圀は歴史家ですから、綱吉を批判する文書も
残っています。

そんな光圀を敵にまわしてしまったために
批判的な文書が残ったり

そもそも綱吉自身が赤穂事件の裁判結果をめぐっても
批判をされていたりと

不当に評価されていない人物であったということが
「生類憐みの令」と結びついて、

過小評価されているというのです。


しかも、彼が将軍の頃に
富士山が噴火したのも、
悪評にとつながっています。

運がないですね、綱吉。


まぁ、貨幣改悪などの愚策もとっていますけど…
そこまでではないのでは、って話ですね。




三代将軍家光が
江戸時代の既定路線が決まった時期の将軍であると言うことで
評価は高かったのですが
実情は…と、いうところがある反面


五代将軍綱吉の評判がズタズタである反面
最近は、見直しも行われていまして

ここらへんが、歴史のオモシロイところでアリマス。


あと、全ての動物食を禁じた反動として
禁令が解けた時には、
できる限り早く、旬のものを食べようという
「初物」を有り難がる文化に繋がります。

これも歴史の面白いところですね。


ちなみに、五代将軍綱吉のことを
「江戸のトップブリーダー」などとヤユしたことを書いているのが
僕の好きなマンガ家、ほりのぶゆきさんです。

彼の歴史4コマと、野球4コマは
ほんとボクのツボなんです。



さて、綱吉以外にも、世継ぎが生まれないと言えば
幼すぎて世継ぎが生まれなかったのが
7代将軍家継ですが、

幼くして死んだ家継の
後継将軍を決めたのも大奥だったのです。

それが誰か、という話については

また来週のお楽しみであります。

まぁ、江戸時代の八代将軍といえば
アノ人ですけどね。





大奥には関係ありませんが、

ダライ・ラマ14世の、チベットに対する提案は以下の通りです。
(1987年、アメリカ議会の人権問題小委員会での「チベットに関する5項目の和平案」)

・チベット全土を平和地域とする
・チベット民族の存続を脅かす中国の人口移動政策を放棄する
・チベット民族の基本的人権および民主主義に基づく自由を尊重する
・チベットの自然環境を保護し、回復させる。チベットでの核兵器の製造、核廃棄物の投棄をしない
・チベットの将来の地位について、また、チベット人と中国人との関係について、真剣な交渉を開始する

そして、チベット人による本当の自治権が得られれば独立は求めないと譲歩しました。(1988年、「ストラスブール」提案)



いよいよ、「篤姫」はアツいし、
日曜は「ギアス」もあれば「図書館戦争」もあって
(北海道では日曜の深夜に放送をしています)
本当にイソガシイ、「イトー×ani」がお届けする 
FURANO History Factory (F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
コールサインJOZZ1AS-FM  周波数77.1MHz
北海道富良野市とその周辺で聴くことが出来る
コミュニティーFM局「ラジオふらの」の
毎週月曜日午後四時からオンエアー中

番組へリクエスト・メッセージは
〒076-0026 富良野市朝日町5-17 レストランふらの広場内ラジオふらの
E-mail radio@furano.ne.jp FAX 0167-22-2787

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