斉彬と将軍継嗣
マイフェアレディー的になりそうな
要素が強くなる感じなのですが
そんな伏線になりそうな
今回の「篤姫」でした。
はてさて、この伏線が
どれくらい行かされることか。
1月28日オンエアー 第147回放送分
「FURANO History Factory
(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」です。
先週の予告通り、まずは島津斉彬のお話から。
彼は、文化6年(1809年)3月14日、島津斉興の長男として
江戸薩摩藩邸で生まれました。
そして、曽祖父である「蘭癖」島津重豪の影響を受け、
洋学に興味をもったのは、先週お話ししたとおり。
なんたって、二人でシーボルトに会ったりしていますから。
そして、周囲の目に蘭癖と映ったことが、
薩摩藩を二分する抗争の原因になります。
必至の思いで財政再建にあたってきた、斉興〜調所ラインにすれば
重豪のように公金を湯水の如く使い、藩の財政が
再び悪化することを恐れたのと、
国元のお由羅との間に出来た子、島津久光を擁立しようとしたことから
40過ぎても、斉興は、家督をゆずりませんでした。
最も、重豪も家督こそは譲ったものの、
なかなか実権はわたしませんでしたが。
そんななかで、江戸のゼイタクを余所に、質素な生活を強いられた
斉興にしてみれば、やはり、重豪の薫陶を受けた斉彬は
目の上の瘤。
ただし、この後、お由羅騒動を契機に
斉興が隠居し、ようやく藩主に就任をしました。
そして、この後は、「篤姫」の番組後のミニコーナーでも
語られていましたが
藩の富国強兵に努め洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、
地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの
集成館事業を興しました。
また、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業も興こしました。
土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した
中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し、
(「風雲児たち」はねここらへんよくまとまっています)
安政元年(1854年)、西洋式帆船・伊呂波丸を完成させ、
(伊呂波丸、というと、義澄了さんのマンガを思い出します)
西洋式軍艦・昇平丸を建造し徳川幕府に献上しています。
日の丸を日本船章にすべきだと献策したのも、薩摩でして
同年に幕府に正規に採用されました。
だから、幕末の戦いの図を見ると、
旧幕府軍が日の丸をつけ、新政府軍は菊のご紋で戦っていますが
そんな事情なのです。
また、下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用して
朝廷での政局に関わっていくのも斉彬でして
ここらへんも今後「篤姫」内で、描かれていくでしょう。
また、老中阿部正弘との交流についてはすでに「篤姫」内でも
描かれていますが、
その後、福井藩主・松平春嶽、
宇和島藩主・伊達宗城、
土佐藩主・山内容堂、
水戸藩主・徳川斉昭、
尾張藩主・徳川慶勝らとのつながりなども書かれるでしょう。
まぁ、ほとんど江戸在府であったということと、
重豪のネットワークで、彼らとは藩主就任以前から
交流をもっていました。
ただし、阿部正弘が、安政4年(1857年)過労死とも言うべき壮絶な死をむかえ
幕政も堀田正睦をへて、大老に就任した井伊直弼が握るようになると、
将軍世継問題で真っ向から対立しました。
篤姫が今後嫁ぐ、第13代将軍・徳川家定が
病弱で嗣子が無かったため、
前水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推し
紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推した井伊直弼と
対立をすることになります。
井伊は大老の地位を利用して強権を発動し、
反対派を弾圧する安政の大獄を開始します。
結果、慶福が第14代将軍・徳川家茂となってしまい、
斉彬らは将軍継嗣問題で敗れます。
斉彬はこれに対し、藩兵5000人を率いて
抗議のため上洛することを計画しましたが、
その年の7月8日、鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧の最中に発病して、
7月16日に死去しました。
そして、斉彬の死と前後して、なくなったのが
13代将軍家定です。
父親である12代将軍家慶が
9人の妻妾のあいだに14男13女をもうけ
(祖父である11代将軍家斉が
16人の妻妾のあいだに26男27女をもうけましたが…)
その四男として江戸城で生まれました。
ただ、子どもこそ多いものの、家慶の子の多くは早世し、
生き残っていたのはこの家定だけでした。
ちなみに、斉彬の曾祖父島津重豪も、
先週お話したとおり
89歳でなくなるまで13男11女をもうけています。
そんな家定ですが、幼少時から病弱で、
人前に出ることを極端に嫌う性格だったそうです。
その為、乳母である歌橋にしか心を開かず、
正室として鷹司政煕の娘(天親院有君)や
一条忠良の娘(澄心院寿明君)を迎えましたが、
いずれも早世したために、
島津斉彬の養女・天璋院篤姫を安政3年(1856年)11月に
迎えることになりました。
が、この間にも実子は生まれず、家定自身も
翌年から病気が悪化し、
斉彬の死後1ヵ月を待たない安政5年(1858年)8月に
急死をしてしまいます。
生来の病弱に加えて、庭の鳥を追いかけるなどしたとの
行動が伝えられたため脳の障害などがあったと言われていますが
庭の鳥、云々は、後世の作り話のようです。
あと、家定は、煮豆やふかし芋などを作ったり、
カステラを作ったりするなど、
菓子作りが趣味だったとされています。
自分で作ったお菓子を篤姫に食べさせる
そんなのが、彼独特の愛情表現。
だなんてシーンは、
「篤姫」に出てきそうなのですが…
こんな家定を「篤姫」の中では、
堺雅人さんが好演されています。
篤姫が斉彬の養女になってから
近衛家をへて、家定に嫁ぐまで3年。
ここらへんが前半のヤマ場になるのでしょうかね。
今後を楽しみにしましょう。
「イトー×ani」がお届けする
FURANO History Factory (F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
コールサインJOZZ1AS-FM 周波数77.1MHz
北海道富良野市とその周辺で聴くことが出来る
コミュニティーFM局「ラジオふらの」の
毎週月曜日午後四時からオンエアー
番組へリクエスト・メッセージは
〒076−0026 富良野市朝日町2−17
レストランふらの広場内ラジオふらの
E-mail radio@furano.ne.jp
FAX 0167-22-2787
このブログのコメント欄でも
受け付けます。
要素が強くなる感じなのですが
そんな伏線になりそうな
今回の「篤姫」でした。
はてさて、この伏線が
どれくらい行かされることか。
1月28日オンエアー 第147回放送分
「FURANO History Factory
(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」です。
先週の予告通り、まずは島津斉彬のお話から。
彼は、文化6年(1809年)3月14日、島津斉興の長男として
江戸薩摩藩邸で生まれました。
そして、曽祖父である「蘭癖」島津重豪の影響を受け、
洋学に興味をもったのは、先週お話ししたとおり。
なんたって、二人でシーボルトに会ったりしていますから。
そして、周囲の目に蘭癖と映ったことが、
薩摩藩を二分する抗争の原因になります。
必至の思いで財政再建にあたってきた、斉興〜調所ラインにすれば
重豪のように公金を湯水の如く使い、藩の財政が
再び悪化することを恐れたのと、
国元のお由羅との間に出来た子、島津久光を擁立しようとしたことから
40過ぎても、斉興は、家督をゆずりませんでした。
最も、重豪も家督こそは譲ったものの、
なかなか実権はわたしませんでしたが。
そんななかで、江戸のゼイタクを余所に、質素な生活を強いられた
斉興にしてみれば、やはり、重豪の薫陶を受けた斉彬は
目の上の瘤。
ただし、この後、お由羅騒動を契機に
斉興が隠居し、ようやく藩主に就任をしました。
そして、この後は、「篤姫」の番組後のミニコーナーでも
語られていましたが
藩の富国強兵に努め洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、
地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの
集成館事業を興しました。
また、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業も興こしました。
土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した
中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し、
(「風雲児たち」はねここらへんよくまとまっています)
安政元年(1854年)、西洋式帆船・伊呂波丸を完成させ、
(伊呂波丸、というと、義澄了さんのマンガを思い出します)
西洋式軍艦・昇平丸を建造し徳川幕府に献上しています。
日の丸を日本船章にすべきだと献策したのも、薩摩でして
同年に幕府に正規に採用されました。
だから、幕末の戦いの図を見ると、
旧幕府軍が日の丸をつけ、新政府軍は菊のご紋で戦っていますが
そんな事情なのです。
また、下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用して
朝廷での政局に関わっていくのも斉彬でして
ここらへんも今後「篤姫」内で、描かれていくでしょう。
また、老中阿部正弘との交流についてはすでに「篤姫」内でも
描かれていますが、
その後、福井藩主・松平春嶽、
宇和島藩主・伊達宗城、
土佐藩主・山内容堂、
水戸藩主・徳川斉昭、
尾張藩主・徳川慶勝らとのつながりなども書かれるでしょう。
まぁ、ほとんど江戸在府であったということと、
重豪のネットワークで、彼らとは藩主就任以前から
交流をもっていました。
ただし、阿部正弘が、安政4年(1857年)過労死とも言うべき壮絶な死をむかえ
幕政も堀田正睦をへて、大老に就任した井伊直弼が握るようになると、
将軍世継問題で真っ向から対立しました。
篤姫が今後嫁ぐ、第13代将軍・徳川家定が
病弱で嗣子が無かったため、
前水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推し
紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推した井伊直弼と
対立をすることになります。
井伊は大老の地位を利用して強権を発動し、
反対派を弾圧する安政の大獄を開始します。
結果、慶福が第14代将軍・徳川家茂となってしまい、
斉彬らは将軍継嗣問題で敗れます。
斉彬はこれに対し、藩兵5000人を率いて
抗議のため上洛することを計画しましたが、
その年の7月8日、鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧の最中に発病して、
7月16日に死去しました。
そして、斉彬の死と前後して、なくなったのが
13代将軍家定です。
父親である12代将軍家慶が
9人の妻妾のあいだに14男13女をもうけ
(祖父である11代将軍家斉が
16人の妻妾のあいだに26男27女をもうけましたが…)
その四男として江戸城で生まれました。
ただ、子どもこそ多いものの、家慶の子の多くは早世し、
生き残っていたのはこの家定だけでした。
ちなみに、斉彬の曾祖父島津重豪も、
先週お話したとおり
89歳でなくなるまで13男11女をもうけています。
そんな家定ですが、幼少時から病弱で、
人前に出ることを極端に嫌う性格だったそうです。
その為、乳母である歌橋にしか心を開かず、
正室として鷹司政煕の娘(天親院有君)や
一条忠良の娘(澄心院寿明君)を迎えましたが、
いずれも早世したために、
島津斉彬の養女・天璋院篤姫を安政3年(1856年)11月に
迎えることになりました。
が、この間にも実子は生まれず、家定自身も
翌年から病気が悪化し、
斉彬の死後1ヵ月を待たない安政5年(1858年)8月に
急死をしてしまいます。
生来の病弱に加えて、庭の鳥を追いかけるなどしたとの
行動が伝えられたため脳の障害などがあったと言われていますが
庭の鳥、云々は、後世の作り話のようです。
あと、家定は、煮豆やふかし芋などを作ったり、
カステラを作ったりするなど、
菓子作りが趣味だったとされています。
自分で作ったお菓子を篤姫に食べさせる
そんなのが、彼独特の愛情表現。
だなんてシーンは、
「篤姫」に出てきそうなのですが…
こんな家定を「篤姫」の中では、
堺雅人さんが好演されています。
篤姫が斉彬の養女になってから
近衛家をへて、家定に嫁ぐまで3年。
ここらへんが前半のヤマ場になるのでしょうかね。
今後を楽しみにしましょう。
「イトー×ani」がお届けする
FURANO History Factory (F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
コールサインJOZZ1AS-FM 周波数77.1MHz
北海道富良野市とその周辺で聴くことが出来る
コミュニティーFM局「ラジオふらの」の
毎週月曜日午後四時からオンエアー
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