FHF
弥生三月も三週目に突入しました。

富良野地区の中学校の卒業式が
昨日もありました。


また、富良野看護学校とか、
来週末は地区の小学校と、
卒業式が続いていくことになります。


多くの別れがありながら、
慌ただしく時は流れて、

出会いの春を向かえていくのです。



以前、二月はロシアで「光の春」と、
美しい表現をするとお話しましたが、

三月は「音の春」というすてきな表現があるそうです。

3月ともなれば、日脚が伸び、夜明けも早くなり
ラジオ生放送の時間帯もまだ明るい感じで、
日暮れも遅くなっています。

夜がまだ明け切らないうちから、
かすかに聞こえる自然の音が、気になります。

まだ明けきらないほのかに黄色く染まる空気の中、
他の音が少ないだけ、よけいによく聞こえます。

新聞受けに新聞を「コトッ」とほうりこまれる音。
遠ざかる足音に車のエンジン音。

雪解滴のぴちょんぴちょんという音

風にカサコソ吹かれる落ち葉の音。

チチチチと鳴く鳥の声などの競演があって、
春だなあと感じるのです。



3月15日 オンエア 第257回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
です。

富良野のスキーシーズンを締めくくるともいえる、

第22回全国高等学校選抜スキー大会(アルペン種目)や
第11回富良野市長杯スーパージャイアントスラローム競技大会が
富良野スキー場を舞台に開催されましたが
無事終了しました。

全国から来た高校生スキーヤーによる
熱い戦い繰りが、富良野を舞台に
くり広げられました。

ひょっとしたらこのラジオを
自宅に戻るどこかで聞いている
選手の方もいらっしゃるかもしれません。

本当にお疲れ様でした。

また、バンクーバー冬季パラリンピックが開幕し、
21日までの10日間にわたって
熱戦が繰り広げられることになり、

早速、先週当番組で紹介をした5大会連続出場となる
ベテランのチェアスキーヤー大日方邦子選手が
銅メダルを獲得したというニュースも
はいってまいりました。



さて、オリンピックのあとに開催されるのが
恒例になったパラリンピックですが、

身体表現の美しさを追求することに
オリンピックもパラリンピックも
差がないということで、同時に開催をされていますが、

同じような考えのもとで、
かつて、近代オリンピックにあったのが、芸術種目でした。

種目は絵画、彫刻、文学、建築、音楽があり、
スポーツを題材にした芸術作品を制作し
採点により順位を競った種目でした。

そもそも近代オリンピックのもととなった
古代ギリシャではじまったオリンピックは、
神を讃えるという信仰的な要素が強いもので、
スポーツをすることで、強く美しい肉体で
神を表現することから生まれたものでした。

また、古代ギリシャでは、芸術表現も
同じく神を表現する一手段でした。

だから古代ギリシャの芸術性のリアルさは
神を表現する手段として、人間性の追求が
なされたというわけです。

そんな古代オリンピックのありかたを理想としたのが
クーベルタン男爵の提唱で始まった「近代オリンピック」で

その理念として「肉体と精神の向上の場」が掲げられ、
男爵の希望もあって芸術競技が採用されたのです。

当時の規約には、
「オリンピックはスポーツと芸術の二つの部門で競技を行わなくてはならない」
という一章がありました。

実際、芸術を極める人々にとっては、
素晴らしい国際的コンペテションの場を提供されていたのです。

はじまったのが、第一次世界大戦の直前である
1912年のストックホルムオリンピックからで、

第二次世界大戦後の1948年のロンドン・オリンピックまで
合計7回の大会で正式競技として実施されました。

種目は、
都市計画 建築設計 文学全般 詩歌 劇作 叙事詩
音楽全般 声楽作曲 器楽作曲 オーケストラ作曲
絵画 単彩画と水彩画 ポスター・スタンプ・シール
彫刻・エッチング 彫塑 メダル レリーフ
山岳賞 グライダー賞

といった種目です。

建築・文学・音楽・絵画・彫刻など
文字通り幅広い分野を
評価したということなのです。

ただ、七回で終わってしまったのは、
芸術作品について客観的な基準をもって採点を行うことが困難で、
恣意的な判定がしばしあったのではないかとの
批判が生じたことが理由とされます。

2度の大戦を挟んで、政治的な思惑も
絡んだといいうこともあるでしょう。

ナチスドイツからのメダリストが多かったというのも
あったのかもしれませんし。

そんな点から、数値で明確に評価が出来る
スポーツに絞ったほうが妥当だという
判断があったということです。


因みに、芸術作品について客観的な基準をもって
採点を行うことが困難だといった批判は、
先日のバンクーバーオリンピックでも物議をかもした
フィギュアスケートとか、
夏では、シンクロナイズドスイミングとか新体操といった
芸術的要素が重視される競技においても同様ですが、

こちらは、まだ身体を使う要素が強いので
成立をしていますが、
近代オリンピックが「世界的な祭典」から
より純粋にトップアスリートの競技の場として
変貌をしていくなかで、そぎ落とされたものともいえます。

但し、最後の芸術種目が行われたロンドン大会の
次に開催されたヘルシンキ大会以降は、
オリンピック精神に則って、
競技ではなく文化プログラムとしての
芸術展示が行われようになりましたし、
芸術展示を行うことは、
オリンピック憲章にも定められています。


さて、オリンピックとなると
どうしても気になるのは日本人選手の活躍ですが

日本人選手は1932年のロサンゼルスオリンピックと、
1936年のベルリンオリンピックの2回参加しています。

一般のスポーツの国内競技団体にあてはまる団体として
「大日本体育芸術協会」(現在の日本スポーツ芸術協会)があって
作品募集・国内予選を行っていました。

1932年ロサンゼルスオリンピックでは
絵画・版画部門で長永治良が参加し
「蟲(むし)相撲」で 佳作

1936年ベルリンオリンピックでは
絵画種目(絵画)で 藤田隆治が、
作品名「氷上ホッケー(アイスホッケー)」 銅メダル
絵画種目(デッサン・素描部門)で鈴木朱雀が
作品名「古典的競馬」 銅メダル
若き日の東山魁夷、小磯良平、棟方志功が、選外

音楽種目(作曲)で江文也が
作品名「台湾の舞曲」で4位入選
山田耕筰が作品名「行進曲」で 選外
諸井三郎が作品名「オリムピックよりの断片・三章」で選外
箕作秋吉と伊藤昇 選外

という結果でした。


この次に実施の予定だった東京大会と、
その次のロンドン大会は、
第二次大戦のために開催されず、
繰り越しにより、4年後に1948年開催されることになった
ロンドン大会は、敗戦国である日本とドイツは
参加を拒否され、前述した通り、
この大会以降、芸術部門の競技は規約から
削除されてしまいました。

ベルリンオリンピックは、
第二次世界大戦前、ヨーロッパで
ヒトラーのナチス・ドイツがいよいよその地歩を固めつつあり
ゲルマン民族の意識高揚を狙って、「民族の祭典」と銘打たれ、
大々的に開催されました。

スポーツ競技はもちろん、
オリンピック規約にある「芸術部門の競技」も華やかで、
全世界の芸術家たちが応募しました。

メダリストの鈴木朱雀(すずき すじゃく)は、
1891年12月7日に生まれ、
1972年5月4日に亡くなった、日本画家、挿絵画家で、
本名は鈴木幸太郎といい、弟は童画画家の鈴木寿雄です。

朱雀は、野田九甫に師事し、川端画学校で学びました。
1920年第2回帝展に「吟鳥」が入選し、
1936年ベルリンオリンピックの芸術競技絵画種目に
作品名「古典的競馬」を出品し銅メダルを獲得しました。

書籍や雑誌の挿絵、書籍の装幀など
多くの作品を残し、歴史上の人物の人物画が多い作風です。

早稲田大学會津八一記念博物館に
小泉八雲の肖像を描いた絵画が収蔵されており、
同博物館収蔵資料データベースで閲覧することができます。
菊池寛の「日本武将譚」挿絵が代表作です。



藤田隆治(ふじた りゅうじ)は、日本画家で、
1907年4月13日山口県豊北町に生まれました。

高島北海、野田九甫に師事し、
革新日本画会、青竜社展、新文展に入選。
1934年には吉岡堅二らと新日本画研究会を結成します。

1936年にベルリンオリンピックの芸術競技絵画部門に
作品「アイスホッケー」で参加し銅メダルを獲得。

同作品はナチスに買い上げとなり
その後の行方については明らにはなっていません。

弟子の笠青峰が復元を試みた際の資料によると
モデルとなったアイスホッケー選手は
慶應義塾大学と王子製紙の選手だそうです。

1938年に新美術人協会を結成。
その後、北九州市に移り創作を続け、
佐賀大学講師も務めました。



また、音楽分野で唯一4位に入選をしたのが
台湾で生まれ、日本で活躍した作曲家、声楽家である、
江文也です。

江文也(こう ぶんや)は1910年6月11日台湾で生まれ
本名は江文彬といいます。
4歳で一族と共に廈門に移住し、
13歳で長野県上田市に本土留学して
旧制上田中学校(現長野県上田高等学校)へ入学。

この頃、恩師であるスコット女史と出会って音楽を学びました。

その後、武蔵高等工科学校(新制武蔵工業大学(現東京都市大学))
電気科で学ぶ一方、東京音楽学校夜間校で声楽を学びます。

合唱団の指導者に見い出されて昭和7年(1932年)、
コロムビアレコードのバリトン歌手となります。

この頃から山田耕筰、橋本國彦に作曲を学び、
同年、第一回音楽コンクール声楽部門入選(翌年も同部門2位に入賞)。
翌昭和8年(1933年)3月、乃ぶ夫人と結婚。
JOAK(東京放送局)に出演して
「タンホイザー」、「ボエーム」などを歌いました。
「ボエーム」の日本初演で歌ったのが文也でした。
また文也はオペラ「タンホイザー」の主役を務めました。

日比谷公会堂でのステージには
台湾から多くの人がつめかけ、
台湾新民報には「音楽の天才江文也氏に聴く」と報道。
台湾の誇りとして、郷土訪問音楽団が組織され、
台湾7つの都市で文也の演奏会が開催されたほどでした。

今日も、「肉弾三勇士の歌」などの戦時歌謡や
『第二生蕃歌曲集』の自作自演などの録音が残されています。


作曲については、長谷川和夫、李香蘭が主演した
「蘇州の夜」などの映画音楽を担当しました。
松島詩子の歌うレコード「知るや君」は、
A面が島崎藤村作詞「知るや君」、
B面が「シュロの葉陰に」となっていますが、
A面の作曲、B面の作詞作曲も文也が行ったのもでした。


これほど能力もあり活躍もしていましたが、
日本音楽コンクールの声楽で2年連続、作曲で3年連続、
なぜか常に二位でした。


満を持すかのように、1936年のベルリンオリンピックの
芸術競技に、前述の管弦楽曲「台湾の舞曲」を出品。
当時は「3位入賞」と報じられましたが、
実際には四位相当の、選外佳作という扱いでした。

当時の日本で作曲家の大御所の曲が入賞せず、
文也の曲が入賞してしまったということで、
オリンピックにおける入賞は楽壇の世界で大きく取り上げられず、
台湾出身という暗黙の差別に、
文也はいらだっていたと伝えられています。


その後も中国、台湾、日本の音楽語法と
モダニズムを融合したピアノ曲、声楽曲、交響曲などを
数多く発表しました。

1936年に北京に出発し、
37年には中華民国臨時政府の国歌に相当する曲を完成。
北京中央公園の大広場で、日本と中国の混成大ブラスバンドで演奏し、
中国全土に放送されました。
1938年には北京師範学校教授として迎えられ、
その後は優遇されて、1939年には国立音楽院院長となり、
家族のいる日本と中国を往復する日が続きました。


そんな彼の人生を一変させたのが
戦争でした。

第二次大戦が終わることにより、彼は日本国籍を失い、
家族を残した日本に戻ることができなくなりました。

蒋介石の国民党政権下では、日本軍部に協力をしたということで、
「文化漢奸」として10ヶ月拘禁されましたが、
米軍クラブのジャズバンドの指揮をして
糊口をしのぐことができ、
しかも、この頃、現地の女性と再婚をします。

1947年には北京の中央音楽学院教授に就任し
1949年の中華人民共和国成立後も大陸に残り、
1950年からは天津中央音楽院教授に就任しました。


しかし、1957年からの反右派闘争、
そして1966年からの文化大革命で
彼は「日本帝国主義の手先である」と糾弾され、
地位を剥奪された上に、
大半の作品の自筆譜やピアノなどを焼かれてしまいます。

そして下放労働に送られました。

その間も密かに作曲を続け、
文革が終結した後の1978年に他の文化人と同様「平反」で
解放されやっと名誉回復されましたが、すでに健康を害していました。
肺気腫、胃潰瘍に加えて脳卒中で倒れ、
五年後、北京で73歳にてこの世を去ったのです。


中国に残って以降、江の名は
日本の音楽界から忘れ去られてしまっていました。

しかし文革終了後の名誉回復以降、
香港、台湾、そして中国での再評価・録音が増え、

日本でも徐々にその名が知られるようになって来ました。

1999年には
「まぼろしの五線譜 江文也という『日本人』」(井田敏著、白水社)が
出版されましたが、
中国側の遺族の扱いをめぐって日本側の遺族が抗議したうえ、
東京の江家に保管されていた銅製のベルリンオリンピック参加メダルを
第3位用の銅メダルと誤認して記述したことから、
現在は絶版になっています。

2004年に公開された映画『珈琲時光』においては
江文也が映画のテーマとなっていて、
彼のピアノ曲が取り上げられると共に、
日本側の乃ぶ夫人と娘が出演していのす。

Naxosの「日本作曲家選輯」でも作品集のリリースが予定されており、
彼の日本での再評価はこれから進むといわれています。



また、彼の政治に翻弄された
理不尽にも感じる生涯を見るに
政治と平和についても、考えてしまいます。

音楽や美術などの芸術は
人の心を豊かにするものですし、

スポーツを見て得られる感動やカタルシスは
まさに芸術を味わうことで得られるものと
等しいと思っています。


そのようなスポーツを通じて、
国と国とのみにくいエゴ向きだしの争いではなく、
等しく人間としてのびていく可能性ある存在であることで、
手と手を取り合いながら、人と人、国と国との関係が、
もっと良くなるといいなと思ったのです。

五輪が象徴するものは、
五つの輪が支えあって協調する「平和の祭典」です。

あらためて芸術・スポーツ・平和について
考えてみたいと思うのです。







ヘタリアに言論と表現の自由を!
民族浄化[ここでは、ある民族のみを浄
化した姿で描けという要求]反対!
自由ヘタリア救国民族解放戦線の「イトー×ani」がお届けする
FURANO History Factory(F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
北海道富良野市・上富良野町・中富良野町など限定で聴く事が出来る、
コミュニティー放送局FM「ラジオふらの」の
月曜午後五時からオンエアー中

番組へリクエスト・メッセージは
〒07 6-0026 富良野市朝日町5-17 ラジオふらの
E-mail radio@furano.ne.jp FAX 0167-22-2775

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