FHF
弥生三月も二週目に突入しました。

富良野地区にある4つの高校をはじめ
北海道内多くの公立高校では
3月1日に卒業式がありましたが、

先日の日曜日は富良野地区の
中学校の卒業式がありました。


また、今週は富良野看護学校、
来週末は地区の小学校と、
卒業式が続いていくことになります。


多くの別れがありながら、
慌ただしく時は流れて、

出会いの春を向かえていくのです。


また、週末には、
富良野のスキーシーズンを締めくくるともいえる、

第22回全国高等学校選抜スキー大会(アルペン種目)や
第11回富良野市長杯スーパージャイアントスラローム競技大会が
富良野スキー場を舞台に開催されます。

今週の週間天気を見ると、
連日小雪が降りそうということなので、
ゲレンデコンディションは
維持できそうです。

再び、全国から来た高校生スキーヤーによる
熱い戦い繰りが、富良野を舞台に
くり広げられることになるのです。



3月8日 オンエア 第256回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
です。

熱気を帯びて連日伝えられた
オリンピックの報道については
一段落した感がありますが、

今週は、バンクーバーで
今度は冬季パラリンピックが
現地時間の3月12日に開幕し、
21日までの10日間にわたって
熱戦が繰り広げられることになります。


日本選手団は、前回2006年のトリノ大会では、
金2、銀5、銅2と、合計9個のメダルを獲得し、

今回も、5大会連続出場となる
ベテランのチェアスキーヤー大日方邦子選手
(電通パブリックリレーションズ・
冬季パラリンピックにおける日本人初の金メダリスト(1998年長野大会、滑降)
にして、その後もアルペンスキー競技で合計8個のメダル
(金2個、銀3個、銅3個)を獲得)らを筆頭に、
男子34人、女子8人の合計42名の選手たちが
メダル獲得を目指すことになります。


さて、オリンピックのあとに開催されるのが
最早恒例のようになっている
パラリンピックですが、

国際パラリンピック委員会(International Paralympic Committee、略称IPC)が
主催する身体障害者を対象とした
世界最高峰のスポーツ競技大会のことです。

オリンピックと同じ年に同じ場所で開催され、
2004年のアテネ大会から夏季オリンピックと
共同の開催組織委員会が運営をしています。

その歴史は比較的新しいといえます。


パラリンピックのはじまりは、
1948年のロンドン・オリンピック開会式の日に行われた、
車いすの入院患者による
アーチェリー大会にあります。

第二次世界大戦の後期である
1944年にイギリス政府は、神経専門医であった
「ルードイッヒ・グッドマン博士」に要請して、
傷病軍人の治療のためロンドン郊外に
ストーク・マンデビル病院国立脊髄損傷センターを開設しました。

グッドマン氏は、戦争で負傷した兵士たちのリハビリテーションとして
「手術よりスポーツを」との主張を強く持っていた人物で、

そこでは病気やケガによる身体障害からの回復に、
スポーツを取り入れていたために、
その一環として、この病院の競技場で洋弓の大会を開催したのです。

それが1948年のロンドン・オリンピックの
開会式の日に行われたのでした。


この競技会は、この後も続くことになります。

最初は入院患者のみの競技大会でしたが、
その後、1952年には国際大会となり、
第1回国際ストーク・マンデビル競技大会の名で
大会が開催されました。

参加国はイギリスとオランダの2カ国でした。

このグットマン氏の行動を支えたのは、
「将来、障害がある選手たちにとって、
この大会が、オリンピックと同じ価値を持つ大会になるように」という考えで、

障害者も健常者も、将来は一緒に出場できる可能性を持った大会を
視野にいれていました。

この大会は、毎年開催され、
大会ごとに参加選手や競技種目が増えていきました。

そうして1960年には、グッドマン氏を会長とした
国際ストーク・マンデビル大会委員会が組織されて、

この年にオリンピックが開催されたローマで、
国際ストーク・マンデビル競技大会が
開催されたのでした。

今では、この大会を、第1回パラリンピックとよんでいます。

そして、第2回大会が開催されたのが
1964年の夏季オリンピック開催地の東京でした。

東京の大会は、国際ストーク・マンデビル競技大会と
全身体障害者を対象にした日本人選手だけの国内大会の
2部構成で行われました。

現在は、この両者を合わせて
パラリンピック東京大会と呼ばれています。

「パラプレジア・オリンピック」
(半身の不随とたたかっている人たちのオリンピック)を
省略して、「パラリンピック」という呼び方が広まったのは、
この東京大会からでした。

オリンピックの開催都市で、大会が行われることは
東京で一旦中断しますが、

1972年のハイデルベルク大会は、
この年にオリンピックが行われた
ミュンヘンと同じ西ドイツでの大会でした。

1976年、モントリオールオリンピックの年、
国際ストーク・マンデビル競技連盟と
国際身体障害者スポーツ機構との共催で、
モントリオールと同じカナダの
トロントで大会が開催されました。

そして、この大会以降は、
半身の不随以外の障害のある選手の参加が認められるようになり、
さらに、障害の違いをこえて競う競技も実施されるようになりました。

また、1976年から冬季大会が始まり、
第1回大会は、オリンピックは札幌で行われましたが、
パラリンピックはスウェーデンの
エーンシェルドスピークで開催されました。


このように開催が大規模になってきて
認知度が上がってくると、
パラリンピックの場は、リハビリテーションの延長ではなく、
障害がある人たちが身体を鍛えて
技や力を競い合うスポーツ大会として発展するようになりました。

また、パラリンピックという名称について、
難色を示していた、国際オリンピック協会も
影響力を軽視出来なくなったようで
1985年、国際オリンピック委員会の同意によって、
正式に "パラリンピック"という名称が使われることになりました。

元々は前述した通り、
「パラプレジア・オリンピック」
(半身の不随とたたかっている人たちのオリンピック)の
略語でしたが、
半身不随者以外も参加するようになったため、
1985年からは、
「パラレル(並行・もう一つの)オリンピック=パラリンピック」
と解釈をすることになりました。

だから、開催時に既に「パラリンピック」と呼ばれていた大会は、
この次の1988年ソウル大会からで、

この大会はオリンピック組織委員会が
パラリンピックに直接関わる初めての大会ともなり、

この大会からは再び夏季オリンピック開催都市が
夏季パラリンピックも開催されるようになりました。

なお、冬季大会が冬季オリンピックと同一都市で開催されるようになるのは
1992年のアルベールビル冬季大会からです。


その後、IOCは、積極的にパラリンピックとの協力を進め、
2000年のシドニー大会からは、
オリンピックとパラリンピックの大会組織委員会が同じ組織になり

さらに、「オリンピック開催国は、オリンピック終了後、
引き続いてパラリンピックを開催しなければならない」ということも
義務になりました。
それ以降も、オリンピックとパラリンピックは、協力関係を深め、
2008年夏季大会、2010年冬季大会からIOCはパラリンピックについて
運営・経済両面においてIPCを支援。
また、パラリンピックの構成や保護を強化するとともに、
パラリンピック競技大会の組織委員会は、
オリンピックの組織委員会に統合されることになりました。

こうして、パラリンピックは、グッドマン氏の願いどおり、
まさに「もう一つのオリンピック」となったのです。



今回のバンクーバー・パラリンピックは、
アルペンスキー・ノルディックスキー・
アイススレッジホッケー・車いすカーリング
が行われます。

これらの競技のなかには、障害者のために特別に
考案されたルールもありますが、
大半は、原則として健常者が行っているスポーツのルールを、
一部変更して行っているのが中心となっています。

これは、そのルールを使えば、
障害者でも健常者でも、誰もがその競技を
楽しめるところになりまして、
ここが、最大の特徴ですし、
グッドマン氏の理念が生きているところだと
いえるでしょう。


このように、スポーツとして、
大きな可能性を持った障害者スポーツですが、

ヨーロッパのスポーツクラブでは、
クラブでできるスポーツのなかに、障害者の競技がふくまれ、
障害者、健常者の区別なく楽しんでいる競技も
たくさんあるそうです。

夏季パラリンピックの種目ですが、
車椅子バスケットボールは、人気があって、
アメリカでは、プロリーグもできていますし、
そこでは、日本人の車椅子バスケットボールの選手も
プロとしてプレーしたことがあります。

これも、夏季パラリンピックの種目ですが、
シッティングバレーボールの盛んなイランでは、
試合会場の体育館が満員になるほど盛りあがっています。

これらの国々にとっては、障害者スポーツは特別な存在ではなく、
それぞれが、他のスポーツと同様に
スポーツの1種目として、みんな楽しんでいるのです。



そんな一方で、40年も前から、
パラリンピックとかかわってきた日本ですが、

残念ながら、今でもリハビリの延長と考えている人が少なくないですし、
障害者スポーツを見たことがない人も多いのが現状です。

理由の一つとして、政府のスポーツを担当する
役所の違いがあげられます。

日本でJOCは文部科学省管轄の機関ですが、
それに対して、障害者スポーツを所管するJPCは、
厚生労働省が担当しています。

この行政の区分には、
パラリンピックはオリンピックと同様の「スポーツ」であるとするより、
リハビリテーションの延長上にある「医療」「福祉」により
振興を図る大会であると見られてきた経緯があるのです。


しかし、パラリンピックの回が重なるごとに
「リハビリ」よりも「競技性」の要素が高まると、
選手の間から「競技」としての取り組みが要求されるようになりました。

国際的にはすでに競技スポーツとしてのレベルアップが進んでおり、
日本もこれに挑む選手および関係者を中心として
「競技スポーツ」としての強化が図られるようになったのです。

国際的には競技の最高峰の祭典として、
オリンピックとの統合に向けた取り組みが
国際パラリンピック委員会と開催地の
オリンピック、パラリンピック委員会の間で進行しています。

このような競技を取り巻く世界の情勢や、
国内での現状を考えると、

パラリンピックにおける競技スポーツの振興は、
福祉だけでなく「スポーツ文化」全体の発展につながる
「文化」としての理解と支援が求められることになるのです。

ただ、たとえば施設面で言うと、
役所や文部科学省が建てる体育館は
健常者を考えて作られていることが多く、
障害者スポーツは、厚生労働省が支援して作る
障害者専用のスポーツセンターでしかやりにくい、
という状況もあります。

障害者専用のスポーツセンターを作ることよりも、
パラリンピックの精神にもあるとおり、
すでにあるスポーツ施設を、障害者スポーツでも
利用できるようにすることのほうが、

安く簡単に施設は出来るでしょうし、
そうすれば、健常者と障害者の垣根のない社会、
バリアフリーな世界をつくることにもつながります。

駅や学校にエレベータをつけたり、
公共の建物の階段の横にスロープをつくる、
といったことだけじゃなく、

障害者と健常者がみんなが一緒に、
スポーツを楽しめる環境を作ることだって、
バリアフリーです。

そんなことを考えるきっかけに
バンクーバー・パラリンピックが
なればいいのかなと思いました。

冬季オリンピックを視聴しているうちに
普段目にしない競技の思わぬ面白さに
気がつくように、

パラリンピックを視聴しているうちに、
上のようなことに気がつく人が
増えるといいなと思っているのです。



また、競技自体の楽しみとして、
今大会は、アルペンスキーのスーパーコンビ
(スーパー大回転と回転を1本ずつ滑りタイムを競う)が
正式種目として新たに加わり、

車いすカーリングで初出場を果たすなど、
日本選手団の出場種目数が増えたこともあり、
前回を上回るメダル獲得が期待されるそうです。

ただし、前術したとおり、パラリンピック大会は、
障害のある人たちに高水準の競技に参加する機会を与え、
世界にパラリンピックの精神を広め
国際親善を図ることを目的として、4年に一度開催される大会ですから

どの国の選手にも声援をおくることが
出来るような観戦をしたいものです。


と、はいうものの、日本選手や
北海道出身の選手は応援してしまいますね。


ちなみに、下の新聞記事は
毎日新聞の記事です。


バンクーバー冬季パラリンピック:美幌出身・車いすの久保選手、スキーで /北海道
3月6日10時47分配信 毎日新聞

 ◇車いすの久保恒造選手、マラソンから転身「夢」実現
 障害者スポーツの祭典、第10回冬季パラリンピック大会が12日(日本時間13日)、カナダ・バンクーバーで開幕する。網走管内美幌町出身の久保恒造選手(28)=日立システム=は、車いすマラソンで夏の北京パラリンピックを目指していた。夢はかなわなかったが、ノルディックスキー距離・バイアスロンでメダルを目指す。【芳賀竜也】
 夢半ば、だった。車いすマラソンにあこがれ、挑んだ北京パラリンピックは男子3枠の代表選考から漏れた。「ロンドン(パラリンピック)までの4年間は長い」と、ぼうぜんとした。当時の支援先企業との契約も「北京までの4年間」。そんな時、ナショナルチームの監督を務める日立システムスキー部の荒井秀樹監督(55)が「バンクーバーとソチでメダルを目指して、スキーをやりませんか」と声を掛けた。
 地元の美幌町は距離スキーが盛ん。バンクーバー五輪で距離スキー日本勢過去最高となる5位入賞を果たした石田正子選手(JR北海道)も同町出身だ。実家の目の前も距離スキーコース。たびたび練習していたチームメートで札幌出身の長田弘幸選手(日立システム)は夏場のトレーニングに車いすマラソンを取り入れており、荒井監督は久保選手の評判を長田選手から聞いていたという。
 距離スキーの座位用スキーは「シットスキー」と呼ばれる。アルペンの「チェアスキー」と似ているが、サスペンションがなく、スキー板が2本なのが違いだ。「やってみると、体の使い方が(車いすマラソンと)似ている」。冬場の雪上トレーニングと合わせ、マラソン用の車椅子「レーサー」を使った走りこみで持久力が向上した。
 美幌高時代は球児だった。三塁手で4番打者。選抜大会への参考資料となる秋季全道大会の出場経験もある。「野球は終わり」と思った夏の地区大会数日後。知人が運転する車に同乗して事故に遭い、下半身不随になった。車いすマラソン選手を目指そうと思ったのは、入院中に見たレース中継がきっかけ。「野球少年がプロ野球選手を目指すように、トップの車いすレーサーになりたいと思った」という。
 雪原のレーサーに転身し、新たな刺激を感じている。「人生はたった一度しかないのに、立ち止まってはいられない」。パラリンピックは初出場だが、ワールドカップ・バイアスロンで今季総合2位。北京行きの切符を逃した悔いを、バンクーバーで晴らすつもりだ。
 ◇道内6選手、日本代表に
 第10回冬季パラリンピック大会には日本から選手・役員95人が出場し、道内在住の6選手も日本代表として世界の強豪に挑む。
 大会はアルペン▽ノルディック距離▽バイアスロン▽アイススレッジホッケー▽車いすカーリングの5競技で行われる。道内在住者は、久保、長田両選手のほか、アイススレッジホッケーに永瀬充(34)、三沢英司(37)、伊藤仙孝(26)=いずれも旭川市、須藤悟(39)=札幌市=の4選手が出場し、上位進出を目指す。【三沢邦彦】




と、いうわけで、道内・国内の選手を含め、
全ての関係者の健闘を

心よりお祈りしたいと思います。





ヘタリアに言論と表現の自由を!
民族浄化[ここでは、ある民族のみを浄
化した姿で描けという要求]反対!
自由ヘタリア救国民族解放戦線の「イトー×ani」がお届けする
FURANO History Factory(F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
北海道富良野市・上富良野町・中富良野町など限定で聴く事が出来る、
コミュニティー放送局FM「ラジオふらの」の
月曜午後五時からオンエアー中

番組へリクエスト・メッセージは
〒07 6-0026 富良野市朝日町5-17 ラジオふらの
E-mail radio@furano.ne.jp FAX 0167-22-2775

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