2010.03.07 呉さんが
オリンピックが無事閉幕しまして、
一週間あまりがたちます。

韓国関係では、未だになんか
釈然としない記事が多く伝えられてきて

なんだかな~と思うのです。

さて、今回のオリンピック前に起きたことについて、
今まででもあちらこちらで、論評されましたが、

1番まとまっていて、
すとんと落ちたのが
以下の文章なのです。


こちらは週刊ポスト 2010.3.5号 の
「スノボ国母とニッポン社会」で呉智英が喝破!
です


なぜ大人たは、この若者に、
「ドレスコードの意味」と
「サムライの義務」を説けないのか

今回のバンクーバー五輪は、この21歳の奔放なファッションと立ち居振る舞いに、大の大人たちが右往左往させられた大会として記憶されるに違いない。それでも表彰台を期待された国母和宏は、勝負をかけた決勝で、大技「ダブルコーク」に失敗、メダルを逸した。日本中の期待を集め、だからこそ傍若無人を気取ったこの若者に、大人たちはどう対峙すべきだったのか。評論家呉智英氏が斬る。

無自覚そのもののファッション

「自覚」の欠如。
 今回の国母選手をめぐる問題について考える際に浮かび上がってくるのは、まさにその一言です。
 自覚という言葉を説明するなら、「自分自身の立場・状態・能力などをよくわきまえて行動する」ということになるでしょう。それはつまるところ、自分と社会とのかかわりの中で、見つけていくしかないものです。
 私は何も、国母選手をはじめ若者たちに「伝統に従え」とか「社会に服従しろ」といっているわけではありません。若者が社会に対して取る態度は、批判的であっていいし、時には反抗であって当然です。しかし、社会に対して自分がどういう立場を貫くべきか、いわば「軸足をどこにおいて生きていくか」は、自分で決めるしかない。国母選手に決定的に欠如しているのが、その「自覚」なのです。
 プライベートで彼がどのようなファッションをしていようが一向にかまわないと思うし、上の世代からみて、奇抜な格好をしたがるのは若者の常です。ですから、国母選手の問題を「若者ファッションの是非」という観点からとらえても意味はない。
 むしろ重要なのは、彼がオリンピックという公式行事と、自分とのかかわりをどう位置付けていたのか。つまり「どう自覚していたのか」ということです。
 国母選手が日本を出発し、カナダに入国する際、ズボンを腰まで下げ、シャツを丸出しにするような格好をなぜ選んだか。そこに、彼自身の主張や価値観があったのなら、。それは良しとすべきてしょう。
 しかし彼は、
「反省してま~す」
 と、不満気な表情を浮かべて、投げやりな感じで頭を下げていた。本気で反省しているわけでもなし、何か信念があるわけでもなし。つまり彼のファッションは、個性や価値観の表現ではなく、雰囲気になんとなく流されているという「無自覚」そのものなのです。
 オリンピックは、200超の国が参加する、世界有数の規模のイベントです。仮に、彼が現代の国家のシステムに反発しているなら、それを表現する絶好の場所であるわけです。
 かつて、1968年のメキシコ五輪で、注目すべき事件が起きました。
 男子陸上200㍍競争で、当時の世界記録で優勝した米国の黒人アスリート、トミー・スミスと、同じく米国代表の黒人選手で3位となったジョン・カルロスが、表彰台で、アメリカ国歌が流れる中、星条旗に向けて拳を突き上げたのです。顔はうつむいたまま、靴をはかず黒いソックスと手袋をはめていました。このとき、米国は公民権運動の真っただ中。黒人差別の悲惨な状況を世界に訴えるための行為でした。
 2人は当時、メダルをはく奪されるなどの制裁を受けましたが、現在では、出身大学に銅像が建立されるなど、差別問題に完全と立ち向かった信念が評価され始めています。
 五輪というのは、場合によってはそれだけの主張を世に発信できる場でもあります。それに比べ、今回の国母騒動のなんとだらしないことか。
 やはり国母選手は、「五輪出場者」としての自分に、無自覚でありすぎたと感じるのです。

はびこる「成金体質」

 ただし、この「価値観の溶解」とも呼べる無自覚は、国母選手に限ってのものとは思えません。国母選手と同様の傾向は、社会全般で見られます。
 そもそも、今回の騒動についても、批判されるべきは国母選手だけではないでしょう。もっと反省すべきは周囲の大人たちです。
 よく指摘される話ですが、オリンピック選手派遣にかかる経費は、当然ながら税金で賄われます。官僚や警察官などが公務員として責任を求められるのと同様に、代表として選ばれたからには、日の丸を背負っていくという役割と責任を負うことになるのです。
 それがいやなら、代表になることを辞退すればいいだけのこと。しかし、いったん出場を決めたからには、そのルールとドレスコードに従う必要がある。
「国費で参加するのだから、ドレスコードを守れ」
 彼を諭す理由は、その一言で十分なのに、周囲の大人たちはそれすらいえなかった。あるには、注意をしても彼を納得させるだけの説明ができなかった。
 その理由は、若者世代だけでなく、大人世代にも国母選手と同様の「価値観の溶解」が広がっているからではないでしょうか。
 大人たちですら「自分とは何か」と、自らについて深く考えたことがないのではないか。そして、自分が軸足を置くべき価値観を持ち得ていないのではないか。だから国母選手の服装がいいのか、悪いのかを問われて、「あれ?」と立ち止まってしまう。今回の問題が“若者ファッションの是非論”になってしまったのも、「あの状況では許されない」という判断を瞬時にできない人が、それほど多かったということです。つまり日本人の価値観そのものが溶解してしまっている。
 日本において、これほど「無自覚」がはびこったことについては、高度経済成長以降、この国がずっと一定以上の豊かさをイジしてきたこと、さらには「物資至上主義」ともいえる社会が構築されてきたことと無関係ではないでしょう。
 人間は貧しい時には、生活のため、周囲との協調に気を遣わざるをえない。しかし、なまじ財力を持つと、金の力に頼ることで、社会との関係性を考慮する必要がなくなり、だらしなく 傲慢になりがちです。
 たとえばいわゆる“成金”は、伝統や格式を重んじる飲食店に行って、「金はあるぞ。ここにあるもの全部もってこい!」とやってします、その店の雰囲気や様式美を壊してしまうことがままある。
「俺には金があるから、やりたいようにやる」という考え方によってしまえば、おのずと自分を取り巻く社会の力や、公共性などを軽視しがちになってしまうのです。それが、自覚の欠如へと直結する。
 そうした30~40年にわたる社会全体の「価値観の溶解」傾向が、端的な形で表れたものが、今回の国母騒動ではないでしょうか。
 彼ら若者世代のふるまいは、われわれにとっても自らの無自覚ぶりの鏡ととらえるべきで、国母選手を他人事のように批判するというのは、筋違いです。

ロゴマークとしての“サムライ”

 私自身、大学生だった1966年当時に、ジーンズをはいて通学し始めました。その頃、ジーンズで大学に通うことは一般的ではなく、教授や友人からはあからさまに嫌悪の目を向けられました。それでもあえてジーンズをはくことは、若干大げさですが、そういう旧来の考え方をもった人々への「反抗」という自覚が確実にあるました。
 この感覚は、私と同じ団塊の世代であれば、ある程度シンパシーをもってくださる向きも多いかもしれません。この時代には、若者たちもある種の「自覚」を持っていたはずです。
 旧来の価値観と、新たな価値観が対立することは決してまずいことではありません。相反する価値観の対立があって、社会規範は少しずつ変わってゆくのです。
 ですが現代のファッションには、そのような価値観が感じられるでしょうか。
 たとえばジーンズ。近年はわざと膝や裾に破れ加工を施した「ダメージジーンズ」が流行しています。このダメージに、若者世代の反発なり自覚が感じられるかといえば、それは疑わしいでしょう。タレントやモデルの真似を、ただ後追いでしているだけではないか。国母選手のダボダボのファッションも、また然りでしょう。
 国母選手は五輪本番直前、「SAMURAI」と書かれた真っ黒なマウスピースをはめたまま取材に応じていましたが、それもまた近年の、日本代表イコール“サムライ”という流行を追っただけで、彼にとってはいわばロゴマークとしての意味しかなかったのでしょう。
 封建社会において、支配階級である侍には、上に立つものとしての強さと同時に、義務や責任が求められた。彼はそうしたことにさえ、無自覚であることを晒してしまったといえます。
 私たちは、彼の周囲の大人たちが「オリンピックのドレスコードとは何か」を説けなかったことと同様、若者たちに「自覚」を促せずにいるという社会の現状に気づくべきなのです。


なるほど、

このことについては、

多くのマスコミで、声高に批判をしながらも、
どこか予防線を張ったかのような印象を受ける
報道がほとんどであったような気がします。


先週も書きましたが、マスメディアは商売ですから、
どのようなケースにも対応をして
取材な番組の編成なりを
するのでしょう。

が、
いつも思うのですが、
玉虫色の番組を作って
どのような対応をも出来るメディアではなく、

「この選手についての行動に対して、当社は批判の意を込めて
一切、ふれません」
なんてメディアが1社でも出てきたら、

それもメディアの持つ特質であり
社会に対する影響力などを考えるならば

なんだかいいなーと思うのですけどね。

でも無いでしょうけどね…







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