2010.01.19 半平太
FHF
富良野では、連日寒い日が続いていますが、

そんななか、先日寒寒村が開村しました。

また、今年の2月に富良野のスキー場は
インターハイ、アルペン競技の
会場となるのですが、

その前哨戦とも言うべき、
高校スキーの南・北北海道大会が
行われました。

富良野税は、緑峰高校の女子が
大回転と回転で、
富良野高校の男子が
大回転で、それぞれ北大会の優勝を果たしました。

全国大会での活躍も期待したいところです。


そんな大会をしているコースの横のゲレンデでは
多くの修学旅行生がスキーを楽しんでいたそうでした。

と、いったように
ウインタースポーツを初めとして、
冬の楽しみが次々に訪れる季節でも
あります。

正直気温が上がらないのは
つらいこともありますが、

冬ならではの美しいものであるとか、
楽しい事とむきあいながら
日々楽しみとかを見つけながら
生活をしていきましょう。


1月18日 オンエア 第249回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
です


坂本龍馬に影響を与えた人物は
何人もおりますが、
土佐では、河田小龍などとともに、

この人の存在は忘れることが出来ません。

それが、龍馬伝では大森南朋さんが演じている
武市半平太です。


「維新土佐勤皇史」の記述を現代語訳しますと、

「身長は2m近い。すらりとした長身。顔は青白いといっていいほど白く、鼻が高く、顎の張った骨っぽい表情。その表情は、滅多なことでは動かず、目に尋常ならぬ鋭い輝きがある。ひとたび口を開けば、音吐高朗、人の肺腑に徹する。人格、また高潔、一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった。」

といった内容が書かれています。

美男で、言説もさわやかで、人柄も優れている、ときているものですから、
接する者はほとんど彼に敬服しました。


そんな武市半平太、(号は瑞山)は、
文政12(1829)年、土佐長岡郡仁井田郷吹井に生まれました。

領知高、約51石余りで、郷士中の最上位にあたる
白札郷士の名家でした。

武市家の遠い先祖の家系は南北朝時代までさかのぼることが出来、
当然、江戸時代直前に、山内氏が土佐に進駐してくる前から、
代々長岡郡仁井田郷吹井村を領地としていました。

山内氏の前、土佐の支配者は長宗我部氏でしたが、
戦国末期には四国全域を支配する勢いを見せた長宗我部直下の武士団は
「一領具足」の名で呼ばれ、勇猛を誇りました。

一領具足というのは一種の屯田兵制度で、
彼らは、一定の領地と馬を所有しながらも、
日常時には武士としての勤務はなく、農耕に従事して、
具足や非常食を槍にくくり付けて農耕に出ます。

ところが、何か事が起きれば即座にそのまま
軍務に服するというところから、
一領具足という名が付けられたようです。

同じ様な制度は、他の藩にもありましたが、
土佐の一領具足が中でも有名なのは、彼ら自身の勇猛さ故で、
周囲に高名が轟いていったのでした。

山内氏の進駐に対して、猛烈な反抗を試みて
過酷な弾圧を受けたのも、一領具足達でしたし、

弾圧の名残でもある土佐藩の武士の中でも見られる
厳しい身分制度が、上士・郷士(下士)の制度です。



因みに、武市家は、半平太の祖父の代で
代々の功績が認められて、
上士と郷士の間になるような身分である
「白札」という位が与えられました。

このような身分の半平太ですから、
後に、差別が厳しかった土佐の国で、
後に、郷士層有志を団結させることになるのでした。


さて、半平太は、九歳を迎えると高知の親類の家に寄宿し、
郷士の中の名流の跡継ぎとして周囲の期待を一身に集め、
本人も周囲の期待に応えるために、武士としての基本的教養を身に付けたり、
剣術の修行に励みました。

残された漢詩や画を見ますと、彼の才能をうかがうことが出来ますし、
剣術では、藩の命令によって江戸に出た時
四代目桃井春蔵「鏡新明智流」の剣術道場で、
当時、江戸の三大道場といわれた「士学館」に入門しました。


桃井春蔵は沼津藩士の出身で、士学館に入門したのち、
天才的な剣筋を見込まれ17歳で桃井家の跡を継ぎました。

また、春蔵も書や詩をたしなみ、
剣風はあくまでも格調高く重厚で
「品格」を最も大事にしていたことから、
のちに幕府の講武所教授となります。

士学館は、土佐藩邸の近くにあったため
土佐藩士が多く通ってきましたが、
半平太は、そんな中でも、他の弟子を上回り、
一番の使い手となっていくのです。

高潔な人格に加えて、書画や詩をたしなむという点でも
半平太と桃井春蔵の共通するところで、
気に入られたのでしょう。

半平太が桃井道場の塾頭の頃には、
塾生の中に酒色にふけったり、女色を追って外泊する
不心得者があった時に、
半平太は自ら模範を示し、至誠を持って、
品行の悪さを説諭したのことで、悪い風習は改まり、
塾生の技量も上達したことで、

春蔵は、改めて、剣の腕と共に、半平太の人物を高く評価し、
その努力に感謝したそうです。

因みに土佐出身者で「志学館」に通ったものとしては、
他には田中光顕や、人斬り以蔵こと岡田以蔵らがいました。



さて、江戸遊学中の嘉永2(1849)年8月、
父が病死し、次いで母も死去し、祖母が残されたなか、
半平太は11月、21歳で家督を継ぎ、祖母扶養の責任を果たすため、
12月に富子(富)と結婚しました。

「子なきは去る」という考えが常識とされている時代、
2人の間に子供がないのが悩みで、
ある時、吉村虎(寅)太郎が、富子に一時実家へ帰ってもらい、
半平太の世話をするため何人かの美しい女性を連れてきたのですが、

半平太は一向に無関心であっただけでなく、
「子のないのは天命である。二度とこのようなことをするな」と
吉村を叱責しました。

当時の武士が妾を持つことは、肯定されても
否定される時代ではないのですが、
瑞山は、富子以外の女性に接することはなかったというところが、
彼の中にある、高潔で優れた人間性が垣間見られる部分ですし、

富子も、半平太によく仕え、
後に、彼が作った土佐勤皇党の弾圧で
半平太が獄に入れられたときは、夫の苦痛を思って
板の間に寝て、夏も蚊帳をつらずに過ごしたそうです。


余談ですが、
妻だけを愛し続け、自分の思想を曲げずに生きた半平太は、
よく似たタイプの志士である
福岡藩の月形洗蔵の姓とあわせて、
「月形半平太」のモデルとなりました。


閑話休題

さらに、人の適性をよく見抜く眼も
半平太の長所でありまして、

岡田以蔵の素質を見いだして、京都に天誅の嵐を巻き起こした
そもそものきっかけを作ったのも彼ですし、

やってくるたびに自宅の庭先で立ち小便する竜馬を
放っておいただけでなく親しく接したのは、
竜馬が親類筋に当たるだけでなく、
どこか、見どころがある人物と見抜いてのことでしょう。


後年のことですが、坂本竜馬と中岡慎太郎が、
京都の近江屋で刺客の難にあった時、
遭難の現場に駆けつけた後の宮内大臣の田中光顕は、晩年に

「坂本竜馬、中岡慎太郎、武市半平太の各先生を、友達として、お互いにどう呼びましたか。」

という問いに対して次のように言っているそうです。

「そうだ。一死君国のため脱藩した志士たちは、全部土佐言葉丸だしで、オンシ、オラを使ったよ。それは、年齢の後先はなかった。身分の上下も越えて、みんなオンシ、オラだった。わたしが坂本君や中岡君にオンシが、オラがといい、坂本君も中岡君も、わたしにオンシが、オラがで話したよ。オンシ、オラが勤皇志士の合言葉であった。なつかしいのう。
 もっとも武市瑞山先生は別じゃった。瑞山先生は一枚上であったので、みなが瑞山先生とか、武市先生とか呼んだ。例の墨絵の龍というのがあるだろう。瑞山先生は、墨絵の龍に似ているというので、墨龍の異名があった。それで、墨龍先生とも呼んだ。
 今ひとつは、アゴがうんと長かったので、アゴ先生と呼んだ。このように、瑞山先生には、必ず先生をつけて呼んで、呼び切りにしたり、オンシ、オラで話すものは一人もいなかった。陰で、噂をしてもアゴ先生といったよ。さすがに勤皇党の首領だけあって、皆が畏怖尊敬していたよ。
 ただ、坂本君だけは、瑞山先生の前であぐらをかいて、アゴが、アゴがと放談をやっていた。この時には、瑞山先生も顔をほころばせて、アザが、アザがとからかっていた。
 とにかく、瑞山先生は桁違いの大人物であった。」


これも、龍馬が見所ある人物であるという
半平太なりの判断だったと思うのですが

龍馬伝ではそんなシーンは
出てくるのでしょうかね。


さて、そんな半平太ですが、当時の知識人としては
あたりまえのように、尊王論者でした。

半平太は、江戸にいる間
長州の桂小五郎・久坂玄瑞・高杉晋作や、水戸藩の住谷寅之助ら、
他藩の人間と接触を持ち、彼らの影響を多く受けました。

水戸・長州といえば、典型的な勤王藩でして、
当時のこれらの藩と土佐を比べ、時勢に遅れたと感じた半平太は、
土佐の藩論を刷新し、「一藩勤王」を願ったのです。

そして、文久元(1861)年に「土佐勤王党」を結成しました。

メンバーは坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎・望月亀弥太・
大石弥太郎ら200人ほど集まりましたが、全員郷士でした。

盟約を考えたのは大石弥太郎。
弥太郎は勝海舟の門に入り洋学などを学んでいた人です。

郷士の集まりだったため、
藩論を左右できるような身分の者はいないのに加えて、
土佐藩のトップである山内豊信(容堂)をはじめとして、
藩の上層部は佐幕主義者ばかりでした。


山内豊信の生家である山内南家は、
石高1500石という山内家の中でも、
序列が一番下の分家でした。

本来だったら山内家の家督を
継ぐような立場にはなかったのですが、
13代藩主・山内豊熈、その弟で14代藩主・山内豊惇が
相次いで急死したのと、
豊惇の実弟(後の16代藩主・山内豊範)が
わずか3歳であったたことから、
分家でありながら、当時22歳の豊信が候補となり、

豊熈の妻の実家に当たる薩摩藩などの後ろ盾により
老中首座であった阿部正弘に働きかけることで、
豊惇が病気のため隠居したという形をとって、
豊信を藩主に就任させたのでした。

土佐山内家自体、関ヶ原の功績で、
遠州の小大名から土佐一国を領したという成立の事情に加えて、
豊信も、幕府の働きかけで山内家を継承したことで
徳川家に恩義を感じていたため、
豊信の思想は、一貫して佐幕でした。


そんな豊信は、勤王党の行動を苦々しく思いましたし、
この時の藩政を握っていたのは、豊信の厚い信頼を得ている
吉田東洋でした。

吉田東洋は200石の土佐藩の馬廻格の家に生まれ、
江戸に出て、藤田東湖らと親交を持ちましたが、
父が死に、兄も死んだため家督を継いだのち、
26歳で船奉行に抜擢され、
山内豊信が藩主となると、破格の抜擢によって
大目付から仕置家老と出世した人物です。


東洋は頭の良さがあり、学問でも藩内で右に出る者はおらず、
容堂は「先生」と呼び、家来扱いしないほどの信頼関係を築きました。
剣の腕も神影流の達人ですが、反面
態度の横柄さを持つ派手好みで、剛毅なタイプの人でした。

安政の大獄で容堂に嫌疑が及んだ時も
東洋が力となって最小限に防いだのに加えて、
藩政改革をも成功させて、確固たる地位を築きました。

また、彼は私塾を開きましたが、そこでは、
東洋の甥である後藤象二郎・岩崎弥太郎・
板垣退助・谷干城らが東洋に指導されました。

と、いうことで、実力者でありながら
クセがある人物で、藩の上層部に敵もいるのですが、
反面、藩主を初め、多くの人の信望をも
集めた人物が吉田東洋で、

そんな東洋と、勤王党は真っ向から対立します。


半平太は、藩の監察府や東洋に藩論を公武合体から尊王攘夷に転換し、
一藩統一のもとに勤王運動に挺身すべく熱心に説きましたが、

理解を得ることが出来ませんでした。

また、このあたりで、一藩勤王に懐疑的だった
吉村寅太郎や坂本龍馬などの脱藩者を出してしまいます。


藩の外では、薩摩藩や長州藩などが、藩主を奉じて
京にのぼるという動きがある中、

勤王運動が停滞していることにあせりを感じた半平太は、
文久2(1862)年に、目の上のこぶだった東洋を
那須信吾ほか3名の同志に指令し暗殺させ
「一藩勤王」の夢を実現しようとします。


実力者である反面、前述の通り、
性格的な麺で敵も少なくない東洋の暗殺は、
半東洋派の重臣の藩政での復活につながり、
そんな反東洋派の藩士たちによって、
半平太ら勤王党の発言権も増すことで、
藩上層部の骨組みが一変されたことにより、

半平太らは、新藩主山内豊範を奉じて
(豊信は安政の大獄により謹慎)
入京することが出来ました。


その後京都にあって、公卿と交際する一方、
勤王運動の実を挙げるべく、半平太の命を受けた
岡田以蔵らが、他藩の人斬りとともに、
邪魔になる佐幕有力者を、次々に「斬奸」していきます。

ここが、土佐勤王党の活躍の絶頂期と言えるでしょう。




しかし、翌文久3年(1863年)の八月十八日の政変によって、
尊王攘夷派の公卿と長州藩が京から追放された以降、
京都で尊王攘夷派に代わり、公武合体派が強くなるのと呼応するように、

安政の大獄での謹慎を解かれて藩政を掌握した豊信は、
土佐勤王党の弾圧を行いました。


この段階で、さらに多くの同志は豊信を見限って脱藩を決意し、
藩を超えての勤王活動をすると共に、
瑞山にも土佐藩の一藩勤王論が非現実的であることを説くのですが、

瑞山はそれを受け入れず、あくまでも土佐一藩勤王にこだわり
豊信の命に従って縛につくことを選びました。


半平太は、高知城下帯屋町の獄舎に投じられ、
同時に、大半の在国同志が投獄され、
土佐勤王党は打撃を受けます。

取調べの際、他の同志は拷問を受け、そのために悶死する者も出ましたが、
半平太は上士扱いなので拷問はなく、「屏風囲い」という談合ですみました。

が、過酷な牢ぐらしで、下痢が続き、衰弱し、
吟味場へも役人に抱えてもらわなければ出られないほどになると、
半平太は、たらいに張った水に我が顔を映し、
差入れの紙筆墨で自画像を描き、次の詩を自画像に添えました。

それは遺言に等しいものですが、

 「花は清香に依って愛せられ、
  人は仁義を以って栄ゆ。
  幽囚、何ぞ恥ずべき、
  只赤心の明らかなるあり。」

という文面で、

さらに、次のような手紙を添えて妻に送りました。

「‥‥さて、自分絵をかき候ところ、ちとちと男ぶりが好すぎて、ひとりおかしく候。鏡で見てみると、ますます痩せて、口ひげは伸び、頬は角が出て誠にやつれ申し候。されど、心は大丈夫にて候まま、こればかりはお気遣いつかわされまじく存じまいらせ候。‥‥」

 一方で、「アア、けしからぬ世の中にて候。」

としきりに憤慨しました。
そして、慶応元年5月、遂に切腹の断罪が下り、
三つ文字に腹かき切って果てました。

この時も、三つ文字に腹をかき切るのは、
古式の切腹の作法に則ってするもので、
決して気が触れたというわけではない、
と説明したうえでの切腹でした。

武市瑞山半平太
満36歳の時でした。

さて、そんなシーンもろもろのシーンをも期待ができる
龍馬伝ですが、


そもそも坂本龍馬の話が広まったのは
司馬遼太郎さんの小説によるところが
大きいのですが、

他にはどんな話によって広がったのでしょう。


なんてことは、また来週に
お話したいと思います。


オタノシミに。



ヘタリアに言論と表現の自由を!
民族浄化[ここでは、ある民族のみを浄
化した姿で描けという要求]反対!
自由ヘタリア救国民族解放戦線の「イトー×ani」がお届けする
FURANO History Factory(F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
北海道富良野市・上富良野町・中富良野町など限定で聴く事が出来る、
コミュニティー放送局FM「ラジオふらの」の
月曜午後五時からオンエアー中

番組へリクエスト・メッセージは
〒07 6-0026 富良野市朝日町5-17 ラジオふらの
E-mail radio@furano.ne.jp FAX 0167-22-2775

リクエストなどは
当ブログのコメント欄でも
受け付けています。





追、

先日に続き訃報です。

元巨人、阪神投手の小林繁氏急死=「江川騒動」で移籍、57歳
1月17日17時12分配信 時事通信

 プロ野球の巨人で主力投手として活躍し、江川卓投手との電撃トレードで阪神に移籍したことでも知られる現日本ハム投手コーチ、小林繁(こばやし・しげる)氏が17日午前11時、心不全のため福井市の病院で死去した。57歳だった。鳥取県出身。葬儀は20日正午から福井市松本4の8の7の千福寺りんどうホールで。喪主は妻静子(しずこ)さん。
 関係者によると、小林氏は同日午前、福井市の自宅で倒れ、病院に運ばれた。同氏は福井市の少年野球チームで総監督を務めていた。
 鳥取・由良育英高(現鳥取中央育英高)から社会人の全大丸を経て1972年に巨人入団。右の横手に近い独特のフォームから切れのある球を投げ、76年に18勝して長嶋茂雄監督下で初のリーグ優勝に貢献。77年も18勝で沢村賞を受賞した。
 79年2月1日、「空白の1日」をめぐる騒動でいったん阪神と契約した江川投手との電撃的な交換トレードで阪神に移籍。同年22勝をマークして最多勝を獲得し、2度目の沢村賞にも輝いた。
 83年現役引退。実働11年で374試合、139勝95敗17セーブ、防御率3.18。スポーツキャスターなどを経て97年から近鉄投手コーチ。昨年日本ハムの2軍コーチに就任し、今年は1軍コーチに昇格した。




「キン肉マン」ロビンマスク役の声優 自殺か
1月18日19時38分配信 毎日新聞

 テレビアニメ「キン肉マン」のロビンマスク役などを務めた声優、郷里(ごうり)大輔(本名・長堀芳夫)さん(57)=東京都杉並区=が17日、東京都中野区の路上で首や腕から血を流して死亡していたことが分かった。警視庁中野署は、郷里さんのズボンのポケットに家族あての遺書が入っていたことなどから自殺とみている。

 中野署によると、郷里さんは17日午後3時ごろ、中野区本町の路上で死亡しているのを通行人に発見された。争った形跡はなく、近くに血の付いた刃物が落ちていた。

 所属事務所によると郷里さんはアニメの声優や洋画の吹き替え、テレビ番組のナレーターなどを務めていた。【古関俊樹】




それぞれのニュースを見て
ショックを感じました。


小林コーチ…、まだお若いのに

また、ワタクシは、虎好きでもありますので、
そちらのほうでも衝撃を受けたあまり、

思わず、朝、テレビニュースのハシゴを
してしまいました。

因みに、
道内のメディアでは、日ハムの投手コーチが最初に来ていまして、
道外のメディアでは、元巨人・阪神で活躍をした
というのが最初に来ているのが、

印象的でした。


彼の指導のもとに1軍入りした
若手の投手をどう導いていくのかが
今年は楽しみであったのですが…

かなわぬ夢となってしまいました。



また、郷里さんについても、
見出しに書いてあるキン肉マンのロビンマスクとともに
(僕はアシュラマンの声も印象的ですが)
中学時代に耳にしたドズル・ザビの
野太い声をはじめとして、

「男塾塾長 江田島平八であ~る」

など、モロモロの台詞が、その声と共に
脳裏にこびりついているのですが、

『パトレイバー』シリーズの気は優しくて力持ちの "ひろみちゃん"こと
山崎ひろみ巡査の声なども

地味に好きでした。

また個性的な声の持ち主を
1人失うことになってしまいました。


それぞれ、故人のご冥福を
心よりお祈りいたします。

安らかにお眠りください。
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