FHF
今年もおしつまって参りました。
なにせ週末は御用始めですからね。

年末は2009年を振り返りながら、
いろいろあった今年のしめを
いかにおくるかということで、

大切な時期でありますね。

皆さん今年はいかがでしたか。

そんな忙しい時期ではありますが、
年末年始の片手間でかまわないので、

ラジオに耳を傾けていただけたら、
ありがたいですね。

さて、ワタクシは、
お祭りの準備と仕事で、プライベートの用事が
全くおろそかになってしまって、
社会人としてはハズカシイ状態でありますし、

仕事、ボランティアがあってこそのお祭りだというのも
重々承知しているのですが、

ま、周囲の人が寛容なので頑張ることが出来ます。

ってことで、今年も
アマえてしまうのですが…

12月28日 オンエア 第246回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
です

坂本龍馬に影響を与えた人物として、
勝海舟の名前が挙げられますし、
そんな話は先週しました。


勝海舟については、彼自身も面白いのですが、
彼の父親という人も破天荒で
面白いエピソードがたくさんあるので、

来年時間を作ってゆっくりと
お話をしたいと思っています。

何せ、この人は
たくさんの著作をものしていますし、
明治になってもご意見番のような感じで、
江戸時代の人物評をしているのです。

そんな人物評の中で、
こう言われている人がいるのです。

「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲だ。」


西郷南洲とは隆盛のことですが、

横井小楠とはどんな人でありましょうか。


横井 小楠は、文化6(1809)年、肥後熊本(現在の熊本県)に、
熊本藩藩士の次男として生まれました。
名は「時存(ときあり)」、号を「小楠」、「沼山(しょうざん)」、
通称「平四郎」といいます。

横井家は桓武平氏北条氏嫡流得宗家がルーツで、
最後の執権北条高時の遺児、中先代北条時行の子が
尾張国愛知郡横江村に住み、
時行の4世孫にあたる横江時利の子が、
横井に改めたのがはじまりだそうです。

そんな彼は肥後藩の藩校である「時習館」に学びましたが、
そこで、居寮長に抜擢されたり、江戸留学も命じられた秀才でした。
江戸の遊学中は、多くの俊秀とまじわり、見聞を広げました。

彼のポリシーは「実際に役立つ学問こそ、最も大事」ということで、

広げた見聞を私塾「小楠堂」を開き、多くの人に伝えていくのです。
そんな小楠の教えを受けた人たちのグループを「実学党」といい
藩政改革を唱えることになります。

当時の肥後藩には、「実学党」に対して、
保守的な「学校党」とか、尊皇攘夷をめざす「勤王党」などのグループがあり、
幕末から明治にかけて、政争を繰り返していました。

そんな保守的な土壌のある肥後熊本で、
小楠の考え方は受け入れてもらえず、
天保14(1843)年に、肥後藩の藩政改革のために書いた「時務策」で、

藩上層のぜいたくを禁じ、下級武士・民衆にほどこすこと
自営農政策等により、離村農民対策で農村復興
特権商人を藩権力から切り離すこと

といった政策を提案しますが、
これが、藩の経済行政を批判したという理由で、
肥後藩には受け入れられませんでした。

改革は現状を変えることですから、
現状をよしとしている保守的な人からみたら、
藩政批判ととられてしまったのです。


このように、肥後熊本では受け入れられませんでしたが、
このあと、嘉永5(1852)年以来、
複数回数招かれた越前の福井藩で、明道館校長に任じられるとともに
松平春嶽の政治顧問として、福井藩の藩政改革に活躍します。

さらには文久2(1862)年、春嶽が幕府の政事総裁職になると、
そのまま助言者として、幕政改革などに大きな功績を残します。

また、この間、勝海舟と相知ることになります。

そんな江戸在府中の、文久2(1862)年12月、
肥後藩江戸留守居役・吉田平之助の別宅二階で、
小楠、吉田、肥後藩士都築四郎の三人が酒宴中、
覆面抜刀の男二人に切り込まれ、

たまたま梯子段近くにいた小楠は素早く階段を駆け下りて
戸外に逃げ、福井藩邸へ帰って刀を受け取り現場に戻りました。

が、時すでに遅し、素手で刺客と格闘した吉田、都築は傷を負います。

小楠は、友人二人を見殺しにして逃げたのは、
武士にあるまじき振る舞い=士道忘却であると、
非難を浴びることになりました。

この一軒について小楠は、
福井藩の支援があって切腹は免れましたが、
熊本に帰藩後、肥後藩庁から
知行召し上げ、士席剥奪、蟄居処分を受けると
それ以後、沼山津の『四時軒』で隠栖し
政治生命を絶たれることになりました。

ただ、『四時軒』も多くの明治維新の立役者や
明治政府の立役者やのちの明治維新政府の中枢も
多くの人が訪れています。

ちなみに、坂本龍馬も3回ほど『四時軒』を訪ねています。



さて、福井藩、幕府に影響を与えた
小楠の思想は
どのようなものだったのでしょうん。

小楠の国家論が体系的に提示された文書としては、
万延元年(1860年)に越前福井藩の藩政改革のために執筆された
「国是三論」があります。

戦争をやめ、平和主義を貫く。
世界から情報を得る。それは戦争をやめることにもつながる。
世襲制の廃止。(中国古来の思想を軸にしていた小楠ならではの考え)

といった内容を基本としていまして、
閉鎖的な時代の中にあって、現代だけでなく
未来にも通じる普遍の思想を持っていたことは、
小楠の先見性故でしょうし、

彼は、人々の批判を浴びつつも
新しい視点で世の中を見続けました。

三論とは富国、強兵、士道の三論ですが、
一番大切なのは富国であるとしています。

なかでも外国との貿易を奨励していますが、

「天地の気運と万国の形勢は人為を以て私する事を得ざれば、
日本一国の私を以て鎖閉する事は勿論、
たとひ交易を開きても鎖国の見を以て開く故開閉共に
形のごとき弊害ありて長久の安全を得がたし。
されば、天地の気運に乗じ万国の事情に随ひ、
公共の道を以て天下を経綸すれば
万方無碍にして今日の憂る所を惣て
憂るに足らざるに至るべきなり。」

すなわち、日本一国だけの利害で、鎖国だ開国だと言っても
かえって弊害が生まれるばかりで、
西洋、東洋を越えた普遍的な公共の道を考えながら、
日本のみの利害を優先させずに、
開国鎖国の論議を越えた交易の必然性を主張したのです。

尊皇攘夷の旗印である水戸学や、神道と結びついた国学など
ナショナリズム的な考えが全盛であった時代に、
更に高いレベルでの公共性を模索した人間がいることが
まずはスゴいですね。


また、藩政改革も、藩が富むのが目的ではなく、
民が富むのを目的にして、
具体的には、福井藩の官営・官許の地域間(外国)貿易によって
富を得る公共の道を提案しました。

これを受けて三岡八郎(後の由利公正。彼は五箇条のご誓文の
原案をつくるとともに、明治初年の国家財政を担います)が、
物産総会所を設立し殖産興業を実施し、
長崎貿易の初年度で売り上げが25万ドルに及んだと言われています。


そして、この考えの延長上にあるととらえられるのが、

文久2(1862)年に、幕政改革のためにまとめた、
「国是7カ条」です。


国是7カ条は、

大将軍上洛して、烈世の無礼を謝せ(将軍は自ら京にいって、天皇へ過去の無礼を謝る)
諸侯の参勤を止め、述職とせよ(参勤交代制度の廃止)
諸侯の室家を帰せ(大名の妻子を国元に帰す)
外様譜代に限らず、賢を選んで政官となせ(優れた考えの人を幕府の役人に選ぶ)
大いに言路を開き、天下公共の政をなせ(多くの人の意見を出し合い、公の政治を行う)
海軍を興し、兵威を強くせよ(海軍をつくり軍の力を強くする)
相対貿易を止め、官の交易となせ(貿易は幕府が統括する)


で、

これは、今まで数百年続いた幕府体制を根本から揺るがす
大幅な改革であるとともに、
帝国主義の萌芽の時代に植民地化を迫る欧米諸国からの
日本防衛問題まで含むもので、

幕末から維新にかけての外交上の大きな指針となったようです。


このような考えを持った小楠の思想的背景にあったのが、
同時代の開明的知識人の常識であった洋学ではなく、
儒学であるのも、スゴいところです。


小楠は儒学者の立場で、
夏殷周三代の治政に比して状況を分析し、
方針を出してきたのです。

交易も、堯舜の事跡にあるので、
振興すべきものであるとしたのです。



まとめていうと、横井小楠の思想は、
今までの鎖国体制・幕藩体制を批判し、
それに代わり得るあたらしい国家と社会の構想を
「公共」と「交易」の立場から模索したことが
画期的であるといえます。

そんな「公共」性・「公共」圏を実現するために、
「講習討論」「朋友講学」といった身分階層を超えた討議を
政治運営のもっとも重要な営為として重視しました。

また、「交易」を重視する立場から、
外国との通商貿易をすすめ、産業の振興をも「交易」として捉えて
国内における自律的な経済発展の方策を建議し、
そのために幕府・藩を越えた統一国家の必要性を説いたのです。


慶応2(1866)年、小楠の甥(横井左平太、大平)を
渡米させた際におくった送別の語に、
小楠の、世界における日本のビジョンが述べられています。


尭舜孔子の道を明らかにし
西洋機器の術を尽くさば
何ぞ富国に止(とど)まらん
何ぞ強兵に止(とど)まらん
大儀を四海(しかい)に布(し)かんのみ


尭(ぎょう)、舜(しゅん)は、中国神話に登場する君主であり、
『尭舜孔子の道』は東洋の精神文明を意味しています。

つまり、東洋の精神文明をもとに西洋の科学文明を取り入れて、
富国強兵に努め、さらに民主的、平和的な道義国家となって、
尭舜孔子の道を世界に広めようと言ったのです。


ちなみに国是7条で海軍増強を建議していますが、

これが、幕府海軍の中心人物となった
勝海舟の海軍増強の理論的支柱になっています。

小楠は、「国是七条」で、幕府に海軍の増強を建議していただけでなく、
越前藩の、海舟に対する資金援助の斡旋も行いました。

海舟の海軍増強について、理論・財形両面から支援した
最大の理解者であったということです。


海舟は、小楠の最初の印象を

「横井小楠のことは、尾張のある人からきいていたが、
長崎ではじめに会った時から、途方もない聡明な人だと
心中おおいに敬服した。
おれが米国から帰った時に、彼が米国の事情を聞くから、
いろいろ説明してやったら、一を聞いて十を知るというふうで、
たちまち彼の国の事情について精通してしまったよ。」

と語っています。

これが、前述した、海舟の
「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷南洲だ。」
といった見方に繋がっています。


ちなみに、先週話題にしました、佐久間象山は、
海舟の妹婿ですが、
「横井はなんの変った節もなく、人柄もしごく老成円熟していて、
人と議論などするようなやぼは、けっしてやらなかったが、
佐久間の方はまるで反対で、いかにもおれは天下の師だというように
厳然とかまえこんで、どうにも始末におえなかった。」

と、妹婿て゛ある佐久間よりも、小楠に好意を持っていたようです。



ちなみに、これも前述した通り、
小楠は坂本龍馬とも数回会っています。

最初は、松平春獄の紹介で江戸で、文久2(1862)年8月。

その後、文久3(1863)年5月19日、同年7月下旬は、福井であい、

文久4(1864)年2月には、勝海舟の遣いで、
龍馬、小楠を訪ねます。

この時対談した11畳の客間が四時軒に残っていまして、
龍馬の話を聞き、「海軍問答集」を執筆することなります。

ただ、慶応元(1865)年5月に訪れた時に、
二人は意見の対立をみました。

一方、龍馬は、元治元年8月、西郷と意気投合、
長州藩の薩摩不信を除去するよう仲立ちしていました。

龍馬は、「薩長同盟」(慶応2年1月成立)の推進に対し、
小楠に見守り助言して欲しかったのですが、
沼山津蟄居中の小楠には、
その構想を云々するほどの国内事情に通じてなく
長州藩は小楠の構想の外でありました。

そういう訳で、二人は訣別に至りますが、生涯、龍馬は、
小楠を尊敬し、明治維新政府の参議に推薦しています。

この時、話が人物論に及び、小楠が龍馬に、「俺はどうだ」と尋ねると、
龍馬は、「先生は二階に座ってきれいな女どもに酌でもさせて、
西郷や大久保がする芝居を見物なさるがようござる。
大久保どもが行き詰まったら、ちょいと指図してやって下さると
よございましょう」と答えたといいます。


薩長同盟とならんで、坂本龍馬の功績とされ、
明治政府の基本方針となった、五箇条のご誓文の
もととなった「船中八策」には、
小楠の「国是七条」等の主義主張が、
多く取り入れられています。

まあ、船中八策とともに、五箇条のご誓文の
起草にあたったのは、前述通り、
小楠の弟子である由利公正ですが。


他に吉田松陰や高杉晋作は、
長州藩に小楠を招くことを計画しますし、


坂本龍馬や西郷隆盛をはじめ、
幕末維新の英傑たちに絶大の影響を与え、
『維新の青写真を描いた男』あるいは
『維新の陰の指南役』的存在でありながら、
教科書にもあまり取り上げられず、
幕末物のドラマに登場することが
ほとんどない人物であるものの、

早くから現実的開国論をとき、
東洋哲学と西洋の科学文明の融合を唱え、
近代日本の進むべき道を示した人でした。



そんな小楠。慶応4(1868)年上京し、
新政府に参与として出仕し活躍が期待されましたが、
翌年参内の帰途、十津川郷士らにより、
京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)で
暗殺されてしまいます。

享年61才。
殺害の理由は
「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」
といった事実無根なものであったと言われています。




更に、地元熊本で目立ったものとしては、
明治3(1870)年、小楠と考え方を同じくする細川護久が知事となり、
実学党のメンバーを重用し、税金をやすくしたり、
藩役人を減らしたり、藩校の時習館や再春館を廃止し、
洋学校や医学校を建てています。

しかし、急激な改革のため反感をかい、
3年後には新知事(安岡良亮)に替わり、
実学党のメンバーも中枢部から追われることになるのですが。



あと、小楠は、大の酒好きで酒癖が悪かったようですし、
子供の頃は相当のわんぱくだったようです。

徳永洋著『横井小楠』(新潮新書)には、

小楠のあまりのわんぱくぶりに手を焼いた母は、
一計を案じ、ある日突然家の中で倒れ、
気絶したふりをしました。

ところが小楠は、そんな手はくわないとばかりに
母の宝物である頭の銀のかんざしを引き抜いて、
母の目の前でわざとねじ折ろうとします。

母は内心驚きながら、それでもじっと動かずにいると、
さすがの小楠もあわてて医者よ薬よと騒いだそうです。


また酒飲みのエピソードとしては、

天保11(1840年)、酒失で江戸より帰藩させられた小楠は、
家族に禁酒を誓って謹慎に入りますが、
ところが、家の神棚の神酒徳利の酒が毎日なくなるので、
兄嫁がおかしいと調べてみると、
深夜に小楠がこっそり飲んでいることが分かりました。

兄嫁はだれにも言わず、神棚に神酒を供え続けました。
そのようなわけで、謹慎が解けたあとは、
元の酒飲みに戻ってしまいました。

なんか、共感できるんですが。


果たして「龍馬伝」に横井小楠は
出てくるのか。



そんな龍馬の話が広がった
理由について、来週お話したいと思います。



オタノシミに。



ヘタリアに言論と表現の自由を!
民族浄化[ここでは、ある民族のみを浄
化した姿で描けという要求]反対!
自由ヘタリア救国民族解放戦線の「イトー×ani」がお届けする
FURANO History Factory(F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
北海道富良野市・上富良野町・中富良野町など限定で聴く事が出来る、
コミュニティー放送局FM「ラジオふらの」の
月曜午後五時からオンエアー中

番組へリクエスト・メッセージは
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E-mail radio@furano.ne.jp FAX 0167-22-2775

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