FHF
本日、二十四節気の大雪です。
この日から冬至までの期間を大雪ともいいます。

雪が激しく降り始めるころで、
『暦便覧』では、「雪いよいよ降り重ねる折からなれば也」
と説明しています。

そんな時期になったのに、
なかなか雪が積もらないですね~
なんて話をしようと思った矢先に

雪が降り出しました。

雪が少ないのは、車で移動をする身としては
ありがたいのですが、

何せ富良野はスキーの町でもありますし、
そろそろスキー場にも
修学旅行生が来るシーズンなようでありますので、

この雪は救いの雪でしょうか。


さて、
先日の夕方、出先へ向かうために、
車に乗ったら、

十勝岳にかかる丸い月が
すごく冷たく、綺麗で、

思わず見とれてしまいました。

寒さをさらに増す感じで輝く
冬の月もいいものです。




12月7日 オンエア 第243回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
です


坂の上の雲は
なかなか見応えのあるドラマですね~。

あと二回だけちらっとみせて
また来年だなんて、

なかなかNHKのサクリャクに
ハマりそうでアリマスよ。

さてそんなドラマの中でも出てきたのが
野球をするシーンですが、

正岡子規と野球の関係については
かつてこの番組でも説明をしたと
思います。

なんたって、1889年に喀血してやめるまで
捕手としてプレイをしていたほどですから。

実は子規らが野球を楽しんでいたのは
アメリカでも、野球について
試行錯誤をしていた時期なのです。


ベースボールのルールがなんとなく固まりつつあったのが、
1840年代の後半。

当初は21点先取制でしたが、
あまりにも時間がかかりすぎるために、
1857年に「9回終了時に得点が多かったチームの勝ち」になりました。

また、 投手は下手投げしか認められてなく、
打者は投手にコースの指定ができたのに対して、
1858年は見逃しに「打て」(ストライク)と、
コールがされるようになり。
1863年、真ん中付近を通らない球には
「ボール」のコールがされるようになりました。

1879年に、全ての打たれなかった投球は
ストライクかボールに区分されて,
9ボールで一塁へ進むというルールが出来、

1880年に、9ボールから8ボールで一塁へ。
捕手が3ストライク目の球を直接捕球すれば
打者は三振でアウトが取られるようになりました。

1881年、投手と打者の距離が45フィートから
50フィートへ延長され、

1882年、7ボールで一塁へ進めるとともに、
投手の横手投げが解禁され、
1884年、6ボールで一塁へ進めるようになり、
投手の上手投げが解禁されます。
1886年、7ボールで一塁へ。
1887年、打者が投手に投球コースを指定できなくなり
5ボールの他、死球で一塁へ進めるようになり、
1889年、4ボールで一塁へ進めるようになりました。


守備については、
ワンバウンド捕球でも打者はアウトだったルールが、
1864年、ワンバウンド捕球=アウトが廃止され、
ノーバウンドのときのみアウトとされました。


日本に野球が入ってきたのが、
1871年の話ですから、

スリーストライク・ナインボールの時代に
来たことになるのです。


ちなみに、
幕末の各藩の武器事情を一変させたのが
アメリカ南北戦争ですが、

北部で盛んだったベースボールを
南部出身者に広める役割を果たしたのも
南北戦争で、

この戦争での広がりとルールの精選によって、

ゲーム自体がよりエキサイティングになって
ベースボールは全米で人気を獲得したのです。


ルールの精選がすすんでいる1860年代前半には
報酬をもらって野球をする、いわゆるプロ選手が
登場しはじめていたとさています。

プロ選手に関する正式な規定は1868年に制定されて、
(日本では明治維新の年です)
翌1869年に結成されたシンシナティ・レッドキングスは、
プロ選手だけで構成された初めてのプロチームとなり、
地方各都市を巡業してその名をはせました。

野球人気を盛り上げた、レッドキングスの成功をうけて、

あとを追うようにプロチームが各都市に次々に誕生して、

1871年には最初のプロ野球リーグ、ナショナル・アソシエーションが
創設されました。
(前述しましたが、この年に日本に伝来しています)

リーグ運営自体は5年で破綻してしまいましたが、
その欠点を補う形で
1876年にナショナルリーグが発足。
このリーグが最初のメジャーリーグです。

最初の8チームは
以下の通りです。

アスレチック・オブ・フィラデルフィア(1876年シーズン後除名)
ボストン・レッドストッキングス
(現アトランタ・ブレーブス:1953年にミルウォーキー、1966年にアトランタへ移転)
シカゴ・ホワイトストッキングス(現シカゴ・カブス)
シンシナティ・レッドストッキングス(1880年シーズン後除名)
ハートフォード・ダークブルース(1877年シーズン後倒産)
ルイビル・グレイズ(1877年シーズン後倒産)
ミューチュアル・オブ・ニューヨーク(1876年シーズン後除名)
セントルイス・ブラウンストッキングス(1877年シーズン後倒産)

ナショナルリーグは、この後も
球団を増やしていきますが、

1882年には対抗するような形で、
アメリカン・アソシエーションが創設され、
1884年から1890年にかけてナショナルリーグとリーグの
優勝チーム同士の対戦が行われました。


1884年にユニオン・アソシエーションが創設されましたが、
1年限りで解散し、
1890年にプレイヤーズ・リーグ創設されましたが、
こちらも1年限りで解散。

1891年にはアメリカン・アソシエーションが解散し、
1リーグ制にもどりました。

12球団あったナショナルリーグは
1900年から8球団へ統合・削減し、
ボルチモア、クリーブランド、ルイビル、ワシントンD.C.から
球団がなくなってしまいました。


その一方で、ウエスタンリーグというマイナーリーグが
1900年にアメリカンリーグへと改称し、
ルイビルを除くナショナルリーグの球団削減で
メジャー球団がなくなった都市へ進出。

翌1901年にアメリカンリーグは自らを
「メジャーリーグ」と宣言し、
ナショナルリーグが1903年にこれを容認したことで、
この年から両リーグ勝者による
ワールドシリーズが行われることになります。

このアメリカンリーグ発足時の8球団は、

ボルチモア・オリオールズ(現在のオリオールズとは別、1903年にニューヨークに移転しヤンキースに。)
ボストン・レッドソックス
シカゴ・ホワイトソックス
クリーブランド・インディアンス
デトロイト・タイガース
フィラデルフィア・アスレチックス(1955年にカンザスシティ、1968年にオークランドに移転。)
ミルウォーキー・ブルワーズ(現在のミルウォーキー・ブルワーズとは別、1902年にセントルイスに移転してブラウンズに。その後1954年にボルチモアに再移転してオリオールズに。)
ワシントン・セネタース(1961年にミネアポリスに移転してミネソタ・ツインズに。)



そんなメジャーリーグの興行は、
世界恐慌のあおりをくったり、
有色人選手を向かえるなどの

歴史の変遷を重ねますが、

現在の野球文化であたりまえとされるものを
たくさん生み出しました。


そのうちひとつが
背番号なのです。


メジャーリーグでも、19世紀にユニフォームの背番号は
存在しませんでした。

20世紀の初頭に、マイナーリーグで
初めて選手に番号を付ける試みがされたという
記録が残っていますし、

1916年には、クリーブランド・インディアンスが
ユニフォームの左袖に番号を付けましたが、

これは定着しませんでした。

そして世界恐慌の直前から始まるきっかけとなった時期である、
1929年には、メジャー最高打線といわれたヤンキースと、
インディアンスが
ユニフォームの背中に番号を付けるようになりました。

この時ヤンキースは、打順で選手に番号を割り振りまして
「マーダラーズ・ロウ(殺人打線)」の異名を取る
ヤンキース打線は他球団から恐れられていましたが、

先頭打者のアール・コームズ外野手は「1」、
主砲である3番ベーブ・ルース外野手は「3」、
ルー・ゲーリッグ一塁手は4番なので「4」を背負いました。

この背番号を付けることにより、
ファンは遠い観客席からでも
容易に選手を識別できるようになり、好評だったということで、

他球団にも波及をしたというわけです。


ちなみにヤンキースが背番号をつけると宣言した年の
4月16日、ニューヨークでは雨が降り、
予定されていたヤンキースの開幕戦は中止に。

このため、本来なら最初に背番号を付けて公式戦を戦うはずだった
ヤンキースの名誉は、一足先に開幕戦を行った
インディアンスのものになってしまいました。

ただ、それでもヤンキースが最初にユニフォームに
背番号を付けた球団として、人々の記憶に残るようになります。


以後32年までにはメジャー全球団が背番号を採用、
最後までホーム用ユニフォームに背番号を付けなかった
フィラデルフィア(現オークランド)・アスレチックスも、
37年には他球団にならいました。

そして、今ではアメリカだけではなく、
日本でも背番号といえば
選手の代名詞になっています。

さて

ヤンキースといえば、今年のワールドシリーズでも
勝利したのをはじめとして、
ワールドシリーズ制覇27回、
出場40回を数えるメジャー屈指の名門球団でありまして

次位のセントルイス・カージナルスが、
ワールドシリーズで10回の優勝しかしておらず、

更に出場回数もロサンゼルス・ドジャースの
ワールドシリーズ18回出場を大きく引き離している、

圧倒的な成績を残しているチームでもありますが、


こういうところでも、
野球文化の歴史に影響を与えているのですね。

ちなみに、ヤンキースといえば、
あの独特のNYのロゴ・マークが
有名ですが、
ロゴはニューヨーク市警の名誉勲章が元となっていて
デザインしたのは、アクセサリー等で有名なティファニーです。


また、デトロイト・タイガースなどとともに、
クラッシックスタイルのユニフォームへの
こだわりもあったりして、

こんなところにも伝統を感じます。

ちなみに背番号と伝統といえば、

多大な功績を残してファンに愛された選手の背番号を、
永久欠番にしたのもヤンキースが最初。

永久欠番は、殿堂入りと並ぶ最大の名誉ということになりましたが、

第1号は、39年、難病にかかって
引退を余儀なくされたゲーリッグの4番。

次いで、ルースの3番がこれに続くと、

以後もヤンキースは多くの名選手を生み出すとともに
永久欠番も増やし続けています。

シアトル・マリナーズやテキサス・レンジャーズで
3番を付けていたアレックス・ロドリゲスも、
ヤンキースでは偉大なルースの番号を拝借するわけにもいかず、
やむなく13番を背負っています。

ただ、そうやって永久欠番が増えていった結果

現在ではヤンキースに1ケタ台の背番号は「2」と「6」しか
残っていません。

2番はキャプテンのデレック・ジーターがつけています。

6番はジョー・トーリ前監督が付けていましたが
現在は空き番号になっています。


そんなヤンキースですが、
現在気になるのは、

やはり松井秀喜選手の動向なのでありますが

こちらは長期化しそうなので、
じっくりと見守りたいと思います。


さて、「坂の上の雲」といえば
司馬遼太郎さんの小説ですが、

司馬遼太郎さんの小説で
一番の売り上げをたたきだした
アノ人について、

来週からお話をしたいと
思います。

オタノシミに。



ヘタリアに言論と表現の自由を!
民族浄化[ここでは、ある民族のみを浄
化した姿で描けという要求]反対!
自由ヘタリア救国民族解放戦線の「イトー×ani」がお届けする
FURANO History Factory(F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
北海道富良野市・上富良野町・中富良野町など限定で聴く事が出来る、
コミュニティー放送局FM「ラジオふらの」の
月曜午後五時からオンエアー中

番組へリクエスト・メッセージは
〒07 6-0026 富良野市朝日町5-17 ラジオふらの
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