2009.12.01 恋の山手線
FHF
師走です。
いよいよ十二月であります。

1年の締めくくりでもありますし
やり残したことを終わらせなければならない
そんな時期であると同時に、
お祭りの準備も本格化させなければなりません。

が、こんな時に限って
家のストーブの調子が
エラく悪いという…

今年の、平年に比べて
雪が少ないというのが、
とりあえずは救いでありますが…

なんとか人が入ることのできる部屋にして
ストーブを見てもらわなくては
原稿どころではありません。

なんとかしなきゃ…



11月30日 オンエア 第242回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
です


先週は少々ガッカリするような
100周年のニュースをお伝えしましたが、

今週は、正真正銘お祝いできる
100周年のニュースです。

こんなニュースを見かけたのです。


山手線に茶色の車両 命名100周年で「ぶどう色2号」復活
2009.9.7 16:55

旧型国鉄を模した茶色い車両が12月4日まで山手線で運行する=7日午前、東京駅(渡守麻衣撮影)
「東京の足」山手線が10月で命名100周年を迎えることを記念し、JR東日本は7日、昭和30年代まで走っていた当時の車両を模した焦げ茶色の電車1編成の走行を始めた。運行は12月4日まで。
山手線は明治42年10月に当時の鉄道院が、品川-赤羽の品川線など3路線を合わせて命名した。環状運転が始まったのは、大正14年11月。
今回復活した旧型電車の色は「ぶどう色2号」といい、昭和30年代まで使われていた。
 JR東日本の担当者は「タイムトラベル感覚で楽しんでほしい」と話している。

JR東日本は7日、山手線にチョコレート色のラッピング車両を登場させた。1909年に「山手線」と名付けられてから100周年の記念企画で、当時の塗装を再現したとのこと。該当車両はE231系の11両1編成で、12月4日まで運行される。なお、同車両はチョコレート色にちなみ、チョコレートメーカーの明治製菓とタイアップしている。

山手線は1901年に品川 - 赤羽間の「品川線」と池袋 - 田端間の「豊島線」を統合した際の路線名とのこと。その後、1909年に大崎 - 大井連絡所間の貨物支線を統合し、正式名称として定められた。路線名としての山手線は品川を起点とし、渋谷、新宿経由で田端が終点となる。田端 - 東京間は東北本線、東京 - 品川間は東海道本線に専用線路を使って乗り入れる形となって現在に至り、環状運転する電車を「山手線」と呼ぶようになった。

山手線の電車は当初はすべてチョコレート色で、正式には「ぶどう色2号」で塗装されていた。1961年から投入された101系はカナリアイエローとなり、1963年からはウグイス色(黄緑)に統一された。1985年にステンレス車体の205系が導入されると、銀色のボディにウグイス色の帯を入れるスタイルとなり、現在の231系もほぼ同一のデザインを踏襲しているという。


なるほど。

ボクはこのニュースは「週刊文春」に堀井憲一郎さんが連載している
「ホイリのずんずん調査」で知ったのですが。


僕が幼いころ、東京へいく時は、
東武東上線を使ったのですが、

池袋に近づく直前に
国鉄の車両基地(旧 池袋電車区)が見えてきて、

黄色・緑色の色とりどりの車両が休んでいる
そんな景色にワクワクしたものですが、

そんな片隅に
ぶどう色の車両があった、
記憶があります。

その後年月を経て、テツに成長した私は、
首都圏に住むテツのノルマを果たすべく

鶴見線の大川支線に
クモハ12形を乗りに行って、

幼少時に池袋の電車区の片隅で見た
車両との邂逅に感動をしたものです。


また、山手線といえば、
浪人時代~大学時代は
通学の足として、
お世話になりました。


そんな思い出のコラボレーションが
行われていたのです。



さて、ボクの個人的な思い出はおいといて、

山手線(やまのてせん)ですが、

東日本旅客鉄道(JR東日本)を代表する
鉄道路線です。

厳密に言うと、
港区の品川を起点にして、北区の田端までを結ぶ
路線の名称が「山手線」ですが、

田端~東京間は、東北本線を、
東京~品川官は、東海道本線を
間借りしながら、
(というか、この三本の路線をつなぐ専用路線があります)
東京23区内で、環状運転をする路線を
まとめて山手線ということが、
一般的です。

一周34.5kmに、駅の数が29あり、
1周するのに要する時間は、
最速で59分、平均で64分。

平均の駅間距離はJR.東日本では最短、
JR全体でも、大阪環状線につぐ
2番目の短さです。

運転間隔は、平日は朝が約2分30秒間隔、
日中が約4分間隔、夕方が約3分間隔、
土曜・休日は終日約3分間隔で
次々に電車が来るという、
非常に高頻度のダイヤになっていますし、

それでもピーク時の混雑率は
外回り:205%(上野→御徒町)
内回り:178%(新大久保→新宿)
という、

この混雑ぶりだけ見ても、首都の大動脈と
いえるでしょう。


さて、この山手線ですが、

とのような経緯で出来たのでしょうか。


日本初の官営鉄道開業(新橋(汐留)―横浜)は、
1872年(明治5年)10月15日でした。

この建設では品川~汐留間の陸上の用地が確保できずに、
海岸線から20~50m沖合いの海中に
築堤して線路が建設されました。

品川の御殿山と八ッ山の高台は掘割で切り抜いて、
品川駅は海岸を埋め立て造られました。

そして汐留駅までずっと海の中を通り
汐留駅だけが陸上でした。

今、山手線の品川~新橋間をのっても
なかなか往事を忍ぶことは
できませんが。


そんな難工事をしあげた政府は、
鉄道の父と言われる長州出身で、
伊藤博文らと共に英国留学をして、
長州ファイブともいわれていた井上勝をはじめ、

国が鉄道を敷設し、国が保有すべきという
考えを持っていました。

が、この5年後におきた西南戦争の出費などで
すっかり財政が窮乏してしまっかことで
民間資本の導入によって
鉄道を敷設しましたが、

この時に設立されたのが、
岩倉具視などの参加があった「日本鉄道」で、
日本初の私鉄です。
初代社長になったのは、
西郷隆盛に最も信頼されていたといわれている
吉井友実でした。

日本鉄道というのもスゴい会社名ですが、
「いずれ日本全国の鉄道をこの会社に敷設させる」
といった目標があっての、社名だそうです。

この会社、形式的には私鉄でしたが、
路線の建設や運営には政府及び官設鉄道が関わっていて、
建設路線の決定も国策的要素が優先されたり、
国有地を無償で貸与されたりしていたので
実質は「半官半民」の会社でした。

岩倉具視や吉井友実が経営に関わっているという時点で
そんな感じはしますがね。


日本鉄道は、1883(明治16年)に、
上野~熊谷間の鉄道を開業させ、

翌年に、熊谷~高崎間を開業。

この線と新橋~横浜間を連絡する路線として、
上野―高崎間開業の翌年、1885(明治18)年3月1日に、
日本鉄道品川線として、品川―赤羽間を開業させました。

2線をつなぐのであれば、
新橋~上野をつなぐのが最短距離ですが、

この時点ですでに住宅密集地帯であったこの地をさけて
遠回りではあるものの、
当時は民家がほとんど無く、林と草原だったので
蒸気機関車の煙についての苦情も
こないだろうという判断でした。

ただ、現在でも自転車などで走ると
感じますし、車窓を見るとわかるのですが、
この区間は東京の山手の起伏の多い地形だということで、

掘割で切り取った土砂で目黒川(五反田駅周辺)、
渋谷川、神田川(高田馬場~目白間)の低地を
築堤して線路が造られました。

これが現在の山手線の始まりです。


この後、同じ日本鉄道の路線である海岸線(現在の常磐線)との
連絡線の建設も行うことになりました。

このとき分岐点駅として新設された池袋駅から、
海岸線の田端駅間の路線は、
日本鉄道品川線豊島支線と呼ばれました。

ちなみに、当時は分岐点を目白駅にする予定でしたが、
目白駅周辺で十分な用地の確保が困難だったため、
新設の池袋駅へ変更したのです。

現在でも、駒込 - 巣鴨間で線路が南西を向いているのは、
駒込からそのまま目白駅に向かう予定だったからです。

目白で広大な敷地というと
某ヤンゴトナキ方が通われていた大学が
真っ先に浮かぶのですが、

こちらの目白への移転は
1908年ですから、
山手線敷設の前になります。


用地が確保できないというよりは、
周辺の反対が大きかったようです。

そこで、比較的土地が平坦で、
広い土地を確保しやすい、
農村地帯の池袋村に信号所を作り、
かつ、この信号所を駅として昇格させたということから、

現在、山手線で第2位の乗降客数をほこる
池袋の隆盛がはじまることになるのも、
運命のイタズラですね。


さて、
1906(明治39)年に、西園寺内閣によって出された
鉄道国有法により、日本鉄道は買収され国有化されました。

で、このあと、それまでの品川線と、豊島線をまとめて、
以前から愛称的に使われていた山手線として、
鉄道院の名の下に正式名称に格上げしました。
これが、1909〔明治42〕年のことなのです。


そのように交通の便がよくなるに従って、
東京の市街地化もさらに進んでいくことになります。

その中で上野~東京の連絡も急務になってきました。

が、もうすでに住宅などが密集しているということで、
この市街地は高架線で進めることになり、
レンガ方式と鋼鉄方式が提案された結果、

コストと強度にまさるレンガが採用されました。

東京駅へのルートは江戸城外堀内に
政府の空地が多くあったので、
汐留駅に換わって新橋駅を300m西に移して、

そこから外堀内に入る銀座を迂回するルートが採用され、
汐留駅は貨物専用駅となりました。

高架線の新橋駅は日露戦争の勃発による中断もあり、
1909(明治42)年に完成しました。

と、あわせて煙と火災の問題のあった蒸気機関車にかわり
電車が導入されることになりました。


そして、1914(大正3)年
皇居の正面に建築家辰野金吾による設計で
巨大な赤レンガの東京駅が、構想から20年、着工から7年の歳月をかけて
完成し東京まで延伸しました。

万世橋駅をターミナル駅にしていた甲武鉄道にルーツを持つ中央線は、
万世橋~東京駅間の高架工事を1919(大正8)年に完成させ、
東京駅乗り入れを実現させました。

そして中央線と山手線を接続して、
新宿~東京~品川~新宿~田端~上野
の、いわゆる「の」の字運転がされるようになるのです。


上野~秋葉原間は神田川の水運を利用するため
貨物輸送の地上線を1890(明治23)年に完成させていました。

しかし政府の方針は高架線だったので、
1920(大正9)年に改めて地上線から
高架線に線路を敷き直す工事が行われました。

さらに神田川を渡る神田~秋葉原間の最後の工事は
1923(大正12)年に始まりました。

が、その直後に鉄道を関東大震災が襲いました。

市民に対する被害も甚大でしたし、
鉄道全般に対する被害も甚大でしたが

レンガの高架も東京駅も崩れることなく
完璧な強さを示すことになります。


そして、この時点では、すでに鉄道の便利さが
理解されるようになったあとだったということで、
高架線は御徒町、秋葉原とも大歓迎で
そして1925(大正14)年に神田~上野間が正式開業し、
半世紀の時代を経て環状山手線が完成しました。


と、いうことで、鉄道院に正式に「山手線」と命名されてから
今年は100年になるのです。


また、線名について「山の手線」と「山手線」のに2種類の書き方が
知られていますし、
読み方も「やまのてせん」と「やまてせん」の読み方があります。

本来は「やまのてせん」でしたが、
戦後直後から「やまてせん」と呼ばれた時期が続きました。

これは、連合国軍最高司令官総司令部の指示により、
鉄道施設や道路標識などにローマ字併記が進められた際、
山手線には国鉄部内での通称だった「ヤマテ」につられて
「YAMATE」とローマ字を振ってしまったことがきっかけとなり、
その後「やまてせん」という読み方が一般に定着したことによります。

このため、「やまのてせん」という読み方は死語と化しており、
戦前は「やまのてせん」と読んでいたという事実は
戦後も雑学知識のような扱いになってしまいました。

ところが、「やまのてせん」という読み方が復活したのは、
群馬県内の吾妻線(あがつません)開通に起因します。

吾妻線が「あづません」と読まれないようにするため、
国鉄では全路線の線路名称にふりがなを付することを決定し、
この時に山手線には「やまてせん」ではなく
「やまのてせん」というふりがなが降られるようになり
名前が復活したことになります。


国鉄が「やまてせん」ではなく「やまのてせん」を選択し
復活させた理由としては、
線名の由来・発祥からして、「やまのてせん」の方が
伝統的に正しいことに加えて、

あとは、神奈川県内を走る根岸線に
山手駅(やまてえき)が存在していて
混同しやすいということを避けるためでした。

これに伴い、その趣旨を徹底させるため、
電車に掲出される方向幕の行先表示は、
漢字表記は「山手」を「山手線」に、
ローマ字表記は「YAMATE」を「YAMANOTE LINE」に
改めることとなりました。

これに関連したこととして、ヨドバシカメラのCM曲は
「ま~るいみどりのやまてせん~♪」と、
1990年代初めまで「やまてせん」の歌詞でしたが、

客から「やまのてせんでないのは何故か?」と指摘があったので、
その部分を差し替えて今にいたっています。


また、柳亭痴楽さん作の落語にも
「恋の山手線」がありましたし、
この落語からインスパイアされたのが曲の「恋の山手線」
でした。

が、「恋の山手線」と聴くと、
小林旭さんの本歌と共に、
「モダンチョキチョキズ」のカバーバージョンも
思い出されてなりません。

にしても、モダチョキの「凍りの梨」は
名曲ですね。

そんな愛された山手線ですが、
多分、お祭りで上京したときに
お世話になるでしょうね。







ヘタリアに言論と表現の自由を!
民族浄化[ここでは、ある民族のみを浄
化した姿で描けという要求]反対!
自由ヘタリア救国民族解放戦線の「イトー×ani」がお届けする
FURANO History Factory(F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
北海道富良野市・上富良野町・中富良野町など限定で聴く事が出来る、
コミュニティー放送局FM「ラジオふらの」の
月曜午後五時からオンエアー中

番組へリクエスト・メッセージは
〒07 6-0026 富良野市朝日町5-17 ラジオふらの
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