2009.11.17 霜月半ば
FHF
十一月も中盤にさしかかりまして、
少しずつ寒さがましてくるに従って、

年末が近づくということもあり、
慌ただしくなってくる気がします。

今年もあと五十日きりましたので、
仕事面でも、プライベートでも
やり残したことをそろそろ
整理をしなければなりませんね。



11月16日 オンエア 第240回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
です

先週は、三国志や三国志演義のなかで
よく見ることが出来る、武人としての曹操の姿を
紹介しました。

が「演義」では、主人公「劉備」のライバルに
あたる存在なので、
強さや賢さとともに、
その猜疑心の強さなどが誇張されています。

だから、曹操の話をすると曹操が現れる
といったようなことわざまで
出来たくらいにして…。

ま「うわさをすれば影がさす」と同じような意味ですが…。


そんな曹操、武人としてだけが
曹操のスゴさではないのです。


三国志の時代の前後は、
中国大陸の人口が激減した時代でもありました。

黄巾の乱から続く一連の戦乱、虐殺、農民の離農、
悪天候や疫病などがその原因ですが、
例えば、後漢末の桓帝の時代に5648万を数えた人口が、
三国時代には818万人の半ばになっていて、
およそ7分の1になるまでの減少しているといわれていて、

学者によっては十分の一まで減ったと
主張している人もいます。

ただ、単純に人口が減っただけではなく、
流民が戦いを避けて流浪中に豪族の私民になったので
戸籍を外れたなどの要素も考えることが出来るのです。

が、それでも、後漢の王朝が機能しなくなり
再び晋により統一されるまで、
それ以前の中国史上の前例である秦末の項羽と劉邦のあらそいや
前漢末の赤眉・緑林の乱とか王莽の時代とは
比較できないほど時間がかかっていることや、

この時代の少し後に大陸周辺異民族により大規模な集団移住と
それにともなう諸国の勃興という、いわゆる五胡十六国が
起きていることから、

実数としては、この数字通りではないにせよ、
相当な人口減少と、中国国内に
人口が希薄な地帯が登場しているといって良いでしょう。


このような時代に、中国を統一するためには、
従来の秩序などに頼るのではなく
一種果断な実行力と決断力を兼ね備えたものの活躍は
まさに時代をよく読んだうえでの活動でした。

また黄巾党の主張がある意味で反儒教であったのに対し、
曹操は、当代のインテリですから、儒教的バックボーンがあり
そんな混乱を嫌った面もあるのです。

ただ普通のインテリならば力を得た後は
後漢の復興を考えるところですが、
ここが曹操の面白さというか、リアリストな部分であるというか、
禅譲の形こそとりますが、実質的に王位を簒奪することになります。

ここが後の曹操批判にもつながるのですが、

これは、曹操の祖父が大宦官で政治的には大きな権力をもっていたものの、
宦官は所詮宦官ということで、若い頃とかに
その家柄という点で大いに馬鹿にされていて、
なまじ仕事が出来るぶんだけ、
そのことに対して不満であったのではないかと思います。

だから儒教的常識や道徳を大切にしつつ、
後漢の王室を盛り上げるということには
つながらなかったのでしょうし、

そんなアンビバレンツが
曹操の人間くささというか、魅力かもしれません。


さて、そんな曹操がとった施策ですが、
有名なところから、
まずは棗祗・韓浩らの提言を採用して行ったのが、屯田制です。

屯田とは、戦乱のために耕すものがいなくなった農地を
兵士が農民を護衛しながら耕させる制度でして、

当初は難航をしますが、この制度が軌道にのることで
魏の国力は上がることになります。

屯田自体は、大本は漢の劉邦が、
そして、後漢の劉秀も似たようなことをしていますし、
近くでは、袁紹もとりいれていますが、

あくまでも部分的に行っていたのに過ぎず、

本格的に実施をしたのが曹操でして、
前述した通り、流民の多い時代でもありましたので、
そんな各地の食い詰めた民衆達を大量に集めて、
国力の増強につなけましたし

これは後の様々な王朝もマネをしています。


また、曹操は広げつつあった勢力圏の
境界付近に住む住民や氐族を内側に住ませることで
戦争時にこれらの人々が敵に呼応したりしないようにするとともに
敵に戦争で負けて領地を奪われても住民を奪われないようにし
貴重な労働者はを確保しました。

中でも、烏桓(烏丸)族を中国の内地に住まわせ、
烏桓の兵士を軍隊に加入させたことで、兵力を上げて
曹操軍の烏桓の騎兵は、青州兵とともに、
その名を大いに轟かせることになります。
 
また、従来の官吏登用法は郷挙里選に変えて、
九品官人法という官吏登用法を始めました。

これは官僚の役職を最高一品官から最低九品官までの
9等の官品に分類して、
郡の官吏登用を担当している中正官が
官僚候補を評価して一品から九品までの郷品に分類して、

この郷品を元に官僚への推薦が行って
採用をさせるという制度です。

これは、これとは別に出した
「才を重視し家柄や過去にこだわらず、当時身分の低かった専門職の人々も厚く用いる」といった「求賢令」とともに、
実力による人材登用という方針を明確にしめしたことなります。

同時代としては異例・異質な登用姿勢ですが、
これが、建前にこだわらない、
曹操らしさかなあと思うのです。

青州兵の採用も実力重視のものですしね。


ただ、青州兵に烏桓騎兵に流民を
1つの軍として組織化し、組織的に戦える軍団に
作り替えていくのは容易ではないです。

そこで、曹操の持つ、1つの面である
兵法家としての面が出てきます。


中国ならずとも、兵法といえば
まず真っ先に名前が出てくるのが
『孫子』です。

「百戦百勝は善の善なるものに非ざるなり」
=「百戦百勝したというのは戦上手とは言えない」
「古の所謂る善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり。故に善く戦う者の勝つや、智名も無く、勇功も無し」
=「簡単に勝てる状況を作って勝つ将軍こそが戦上手なのだ、だから本当に戦が上手な将軍は派手な武勇談も名声も残らないのだ」
「彼を知り、己を知れば百戦して殆うからず」
=「相手を知り、自分を知れば、戦いには勝てる」
「其の来たらざるを恃むこと無く、吾の以て待つ有ることを恃むなり」
=「敵が攻めてこないのをあてにするのではなく、味方の守備が完璧であることをあてにしろ」
「怒りは復た喜ぶべく、慍りは復た悦ぶべきも、亡国は復た存すべからず、死者は復た生くべからず。故に明主はこれを慎み、良将はこれを警む」
=「怒りはやがておさめることが出来るが、滅んだ国は二度と復興しないし、死んだ人は二度と生き返らない。慎重に考えねばならない」

といった、数多くの箴言のような
教訓めいた兵法で知られていまして、

北畠顕家や武田信玄でお馴染みの
風林火山も孫子の一節です。


もともとは、中国の春秋時代、斉で生まれ、
当時新興国であった呉の王に登用された兵法家
孫武の作といわれる兵法書で、
世界でも有名な兵法書です。

孫武を招いた、呉王闔廬(こうりょ)との話では
こんなエピソードがあります。


「わしの側室である女性達で軍隊を編成してみよ」
との命を受けた、孫武は
王の愛妾二人を隊長に部隊を編成しました。

だが、女性達は孫武の指示に一向に従いません。

この時孫武は
「まだ命令の内容が皆によく理解されていなかったのだろう。
命令への理解を欠いたまま、兵に不明確な指示を出してしまったのは
指揮官たる私の落度である」
と言って、指示の内容を何度も繰り返し説いた後に
再び指示を出しました。

しかし女性達は相変わらず孫武を馬鹿にして、
ただ笑っているばかりでした。

すると孫武は
「私は編成の取り決めを再三にわたって説き、皆に申し渡した。
命令が全軍に行き届いていないことや指示の不明確さなどは
私の落度だが、今は指示も命令も間違いなく行き渡っていよう。
それなのに誰一人命令に従う者がいないならば、
その隊長たる者には軍令に背いた責任を問わねばならない」

と言うと、隊長である二人の愛妾を斬ろうとしました。


その様子を見て驚いた闔廬は慌てて
「わしの落度だ。わしに免じて彼女らを許してやってくれんか?」
と止めようとしましたが、
孫武は
「一たび将軍として命を受けた以上、軍中にあっては
たとえ君主の意向といえども従いかねる事もございます」
と言って、願いもむなしく、

隊長と定めた闔廬の愛妾を二人とも斬ってしまいましたた。

そうして残った女性達の中から新たな隊長を選び出して練兵を行うと、
今度こそどのような指示にも背こうとする者は
一人もいなくなったそうです。

なかなか、エグい話ですし、

愛妾をころされた闔廬の心中やいかに
といった感じですが、

このことも含めて、闔廬は、孫武の軍事の才の確かなことを認めて、
正規の将軍に任じ、
その後、呉は隣国の楚を破ってその都にまで攻め入り、
北方では斉、晋を威圧して
諸侯の間にその名を知らしめたのでした。


そんな孫武の兵法書である
『孫子』ですが、

中国春秋時代も混乱の時代でありまして、
この時代を勝ち抜くための知恵が集積されています。


『孫子』の成立以前は、戦争の勝敗は天運に左右される
という考え方が強かったのに対し、
孫武は古今の戦史を研究した結果から、
戦争には勝った理由、負けた理由があり得ることを分析しました。


そして、この勝敗の原因には、戦い方とともに
政治があることに着目しました。
だから、兵法書であると同時に
国家と政治のあり方まで言及しているのが、
特徴なのです。

前述した「百戦百勝は善の善なるものに非ざるなり」
とか、
「国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ」
とか、
「兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ざるなり」

などのうことばは、
戦争の勝ち方だけではなく、
戦争長期化によって国家に与える経済的負担を
憂慮する内容ですし、
費用対効果的な発想も国家と戦争の関係から
発せられたものなど、
その後の国家経営戦略までをも
視野に入れているという考え方です。

だから、孫子のならんで有名な
戦略について書かれた、クラウゼヴィッツの
「戦争論」のなかの超有名な一節

「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」
なんて言葉をも思い出してしまうのです。


さて、そんな『孫子』ですが、

1972年に山東省で発見された、
前漢代の書である、いわゆる『竹簡孫子』が発見される前に、
一般的に知られていたのが、
曹操が十三篇に編纂、分類し、
まとめあげたものなのです。

これはオリジナルの『孫子』に加えて、
自身の体験などをも踏まえて、
かつ平易な文章で書くことによって、
わかりやすくしたものなのです。

これを「魏武註孫子」といいます。

しかも『孫子』自体が、
曹操が書いた偽作であるという説もあり、
竹簡孫子が発見されるまでは、
結構信用されていた説でもあったそうです。


とまれ、孫子をテキストとして、
正規兵に加えて、寄せ集めの部隊をも含めた
兵と軍の強化を行ったのが、

曹操の功績といえるでしょうし、

それを支えていたのが、曹操の文章家としての
一面なのです。


そんな、文人としての曹操で特筆すべきは、
漢詩にも卓越をしているということです。

魏の滅亡後、魏の後継である晋も滅んで、
中国は南北朝時代に突入しますが、

南朝の梁の昭明太子は、三歳で論語を読み
五歳で五経を読破したという逸話がありますが、

彼のもとに集った文人とともに、
古今の名文を集めた詩文集を編纂します。

それが文選です。

春秋戦国時代から南北朝時代までの
文学者131名による
800あまりの作品が収録されていまして、

中国古典文学の研究者は必読の本ですし、
日本でも貴族の教養として、
必読の対象になっていました。

これに、息子の曹丕・曹植兄弟とともに、
詩が収録されているのです。

曹操が作った詩は楽府といって、
伴奏と共に歌われた歌詞です。

曹操以前の楽府は文学と言うより音楽が中心で、
そんな楽府に文学的要素を大きく取り入れたのが
曹操でした。

そして、これ以後に、新しい形式である
建安文学が花開く土壌となりまして、
子の曹丕・曹植と合わせて三曹と呼ばれました。


王沈の『魏書』によりますと、曹操は軍隊を率いること三十数年間、
昼は軍略を考え、夜は経書の勉強に励み、
高所に登れば詩を作り、できた詩に管弦をのせ
音楽の歌詞にしたのだそうです。


このようなところも、
三国志の他の英雄とは、違った香りのする
魅力の人物でありますし、

そのような人物ですら一喜一憂し、
さまざまな運命に翻弄されていきながら

運命を切り開いていく様こそが、
三国志の魅力ですし

歴史全体の魅力なのかもしれません。


と、いうことで
三国志の話は
ひとまずおしまいであります。

また機会があったら
まだお話していないこともありますので、

お話をするかもしれません。





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化した姿で描けという要求]反対!
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FURANO History Factory(F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
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