2009.08.31 衆院選終了!
FHF
衆院選が終了しまして、
この結果を基に新しい日本の政治が
動き出すことになるのです。

政党のマニフェストを見ると
結構耳に聞こえの良いことが書いてあって
なかなかケッコウなことなのです。

確かに日々の暮らしは大切なことです。

しかしそれに加えて、
日本の国としての利益を
大切にする政権であってほしいなと
思っているのです。

僕らがはらっている税金を
きちんと日本と日本の国益のために
使ってくれて、

なおかつ長い目で見て、日本人のためになるような
そんな法律を作るような、

そんな政治を期待したいと思っています。


8月31日 オンエア 第229回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
です。

さて、先週まで選挙の話をしていまして、
(番組を収録している時間にはまだ結果が出ていませんので、
このような結果になるとは…)

一旦中断をしてしまいましたが、
いままでは、外交の話をしていまして、

こんなニュースがありました。

国後島、進むインフラ整備 露「愛国的観光」で支配強化
8月15日7時57分配信 産経新聞

 北方領土の国後島で拡張工事が進むメンデレーエフ空港が早ければ来年にも使用可能になることが明らかになった。国後島を実効支配するロシア側が今月、同島を訪れたビザなし交流訪問団(村田政孝団長)に空港を公開。ロシア内では最近、島を観光特区にして地域振興を図る主張が出ており、空港がロシアの「愛国的観光」の玄関口になるおそれも出ている。(加納洋人)
 「空港や港など、主に交通インフラの整備が島で進んでいる。巨額の事業だが、島の経済発展に寄与するはずだ」
 国後島を実質的に管轄する南クリール地区行政府のゲンナジー・ドブルーシン行政長(51)は、「クリール諸島社会経済発展計画」に基づき、社会基盤整備が進んでいることを強調した。同計画は、2007年から15年までに総額179億ルーブル(約555億円)を投じ、北方四島を含む島々の総合発展を図ろうというもの。プーチン前大統領時代に策定された。
 空港では待合室などの建物の新設や滑走路の強化工事、新管制システムの導入などが進められている。また、古釜布(ふるかまっぷ)の港で、大型船が寄港できる水深の深い埠頭(ふとう)の建設を行っている。いずれも早ければ、来年中にも使用開始予定だという。
 完成すると、航空機や大型船による人・モノの大量輸送が可能となるプロジェクト。島に多くのロシア人観光客を呼び込むことで、島の実効支配を強化しようという意図がうかがえる。
 実際、ロシアのセルゲイ・ミロノフ上院議長(56)が11日、国後島を訪問し、海岸にロシア国旗を立て、「南クリール諸島(日本の北方領土)を観光特区にすべきだ」などと主張。今回、訪問団が訪れた学校の前には「サハリン(樺太)とクリール諸島(千島列島と北方四島)はロシアの領土だ」と書かれたロシアの極右政党、自由民主党の看板が掲げられていた。
 国後島在住のロシア人男性(49)は「(同党の)ジリノフスキー党首はクリール地区にレジャー施設、温泉を造れと主張している。われわれの精神的支えだ」と話すなど、「愛国的観光」を支持する声も聞かれた。


こちらは毎日新聞の記事です。

北方領土:ビザなし交流、第5陣が根室帰港 択捉から患者4人連れ /北海道
8月25日11時1分配信 毎日新聞

 ビザなし日本側第5陣(野口繁正団長ら64人)が択捉島での2泊3日の交流を終え、24日、チャーター船で根室市根室港に帰港した。船には外務省の人道支援で治療を受ける患者4人と付添い人の計6人も到着し、根室市立病院に向かった。
 記者会見した野口団長によると、サハリン州国際対外経済関係地域間交流委員会のセルゲイ・ポノマリョフ副委員長が表敬訪問の際、「ビザなし交流の継続は大事」と述べた。さらに、「交流時に領土問題を取り上げる必要はないと思う。この問題を提起すると住民が何らかの抵抗をして(ビザなし)継続に対して悪影響を与えかねない」とも発言し、領土問題に関する議論を避けたいような思惑がうかがえたという。【本間浩昭】



でもって、最後は韓国の
聯合ニュースの記事です。

ソウル大学生らの独島広報団、米国で本格活動開始
8月24日11時25分配信 聯合ニュース

【サンフランシスコ23日聯合ニュース】韓国の独島(日本名:竹島)を世界に知ってもらうため、世界一周に乗り出したソウル大学の「独島レーサー」一行が先週、最初の訪問地、米サンフランシスコに到着し、公式日程に突入した。
 独島レーサーは、2006年にオートバイで世界を横断し独島広報活動を行った、ソウル大生の集まり「独島ライダー」の第2期メンバーで構成されている。
 一行はサンフランシスコを皮切りに、1年間にわたり北米、中南米、欧州、アフリカ、オセアニアの約30カ国を回り、現地の大学生らとのセミナーやマラソン大会参加などのイベントを行う予定だ。
 独島レーサーは20日にスタンフォード大学でセミナーを開き、日本や台湾などからの在学生ら30人余りと独島領土主権などをめぐり熱い議論を交わした。独島レーサーは「韓国が日本の植民地だった歴史があるため、日本文化や日本人を色眼鏡で見るしかない。日本植民地時代の残滓(ざんし)である独島問題を解決してこそ、日本を隣国として受け入れ和解できる」と主張した。セミナーに出席したある米国人学生は、独島に対する新しい事実を知り、楽しい時間だったと感想を述べたという。
 リーダーのハン・サンヨプさんは23日、聯合ニュースの電話取材に対し「メンバーは独島広報活動の意志と熱意にあふれている。健康状態もよい。今後も中身のあるイベントを行うようベストを尽くす」と話した。

最後の記事だけ、竹島の話ですが、

それぞれ領土係争地域をめぐる
各国のやりかたが如実に出ているような
気がしたので紹介しました。

このような領土問題に対して、
新政権にも毅然とした交渉を
お願いしたいものです。〔切実に…〕


さて、

江戸時代の日露交渉の歴史の話も
いよいよクライマックスです。


ロシア同様、日本に対しての
通商の要求を持っていたのがアメリカでしたが、

このアメリカ・ロシアの間で
日本との交渉に対して精力的に動いたのが、
伊能忠敬の地図を持ち出したことで
国外追放をされたシーボルトでした。

ただ、シーボルトはアメリカに対して
その国がとろうとしている覇権主義・強圧的な
開国交渉に対して、嫌悪感を持ち、
そのままロシアへむかったのでした。


1853年といえば、
年号語呂合わせ早覚えの「イヤ誤算」でおやじみ
ペリー来航ですが、
同じ年にロシアも来日しております。

プチャーチンは1803年生まれのロシア海軍軍人で
後には、元帥・伯爵になっています。

1822年に海軍士官学校を卒業し、
海軍軍人として数多くの軍功をあげ
1842年に海軍少将になっていまして、
この時にペルシャとの国境画定や通商条約などで
功績をあげています。

おりしもこの年にアヘン戦争の成果として南京条約が結ばれ、
イギリスが極東に利権を得たため、

従前から清と国境を接していたり、
ラクスマン・レザノフなどの対日交渉で
イギリスよりも早い段階で極東に感心のあったロシアにとって、
このイギリスの動きは脅威でした。

そこでプチャーチンは、時のロシア皇帝
ニコライ一世に献言をしたことで、
極東方面への交渉の担当をまかされます。

ただロシアは慢性的ともいえる
トルコとの領土紛争を抱えているので、
すぐに極東派遣とはなりませんでしたが、
1852年に海軍中将になり、日本へ行くことになります。

このとき、シーボルトの提案もあり
ニコライ一世は、平和裏に交渉をすすめるように言い、
この申し出をプチャーチンも忠実に実行します。

9月にペテルスブルグを出発し、
喜望峰、セイロン、フィリピンを経由し、

1853年(嘉永6)8月、ペリーに遅れること1ヶ月半後に、
旗艦パルラダ号ほか3隻の黒船を率いて長崎に来航し、
国書を渡し、江戸からの交渉役である全権を待ちます。

ところがおりしもこの時ロシアは
クリミア戦争の真っ最中。

対ロシア参戦をしたイギリス軍がロシア軍を攻撃するために
艦隊をさしむけたという情報が入ったため

一旦上海へ避難し、
二ヶ月後に老朽艦のパルラダ号にかえて
ディアナ号に乗り換えて来日し、
幕府全権である筒井政憲、川路聖謨らと会談を重ねます。

この時に、領土確定や通商に対しての交渉は、
まとまりませんでしたが、
将来日本が他国と通商条約を締結した場合には
ロシアにも同一の条件の待遇を与える事などで合意しました。


翌年ふたたび来航し、最初は函館へむかいましたが、
ここでの交渉を拒否されて、大坂へ、
ここでも回航するように言われ、
結局下田へ行き、幕府も筒井・川路両名を
下田へ派遣します。

そして交渉が再開するのですが、

この時に安政の大地震が起きます。

この地震による津波と引き潮により、
沖に停泊をしていたプチャーチン一行を乗せた、
旗艦ディアナ号は、42回も回転したと言われるほどの揺れを受け
大破し、乗組員にも死傷者が出ました。

ただ、こんな津波の混乱の中、プチャーチン一行は、
波にさらわれた日本人数名〔三人?〕を救助し、
船医が看護したり、
ディアナ号が大破したにもかかわらず、
乗員と医師を陸上に派遣し、
下田の人々を救助や医療の援助をおこないました。

この事は幕府関係者らにも好印象を与えました。

津波のためディアナ号は自力航行不能になったため、
プチャーチンは、艦の修理を幕府に要請し、
修理地を西伊豆の戸田に決定し曳航しました。

当時、ロシアはクリミア戦争で交戦中であり、
開港場である下田は、英仏艦の寄港も考えられるため
危険であるし、実際、下田に寄港したフランス艦を、
ディアナ号乗員が奪取する動きも合りました。

また、浦賀では、江戸にも近く、また、街の規模からして、
500名からのロシア乗員を留め置くには、
幕府としては決心できませんでした。

そこで、海浜に船体を引き揚げることが可能で、
比較的隔絶されている戸田が修理をする場所に選ばれたのです。

ところが、曳航をしている途中に
宮島村沖付近で強い波風により浸水し、
航行不能になってしまいます。

乗組員は、周囲の村人の救助があり、無事でしたが、
船自体は漁船数十隻によって曳航されますが、
そんな救助活動もむなしく、
ついに宮島村沖で沈没してしまいました。


プチャーチン一行の乗員約500人は、
全員救助され戸田へ収容されました。

老中阿部正弘・韮山代官江川英龍〔担庵・太郎左右衛門〕は
ロシア人の救難を命じ、代わりの船の建造許可を与え、
ディアナ号にあった船の図面をもとに、
地元住民や船大工たちが力を貸して、
日露両国の協力で伊豆西岸戸田村において
天城山の木材を利用し、洋式帆船が建造されることになります。

ちなみに、代官江川と、全権川路は
渡辺崋山・高野長英・小関三英らがまなんだ
蘭学結社「尚歯会」のメンバーでありました。


さて、そんなことがあった中、
中断されていた外交交渉が再開され、
1854年12月に下田の長楽寺で
プチャーチンと幕末全権の筒井、川路らとの間で
日露和親条約が結ばれました。

本文9箇条と付録4箇条からなっていまして
条約の内容は、水や食料の供給に加えて、
ここで、千島列島のウルップ島以北を露領、
エトロフ島以南を日本領と定め、
樺太島は国境を設けず日露共有の地と定められたのです。

アメリカのペリーが「砲弾による威圧」によって開港を迫ったのに対し、
ロシアのプチャーチンは
皇帝ニコライ一世から、「あくまで平和的手段」で
「直接の話し合い」により友好の道を開けと、
命令されていたため、「対話」に徹しました。

さきの安政大地震の時の活躍も含めて、
幕府一行はロシアに対し好感をもったようです。


そして、この時に作られた船ですが、約3ケ月で完成し、
プチャーチンは住民に感謝して、この船の名前を「ヘダ号」と名付け
全員は乗れなかったということもあり、47人と共に帰国しました。
この造船に関わった船大工、上田寅吉と鈴木七助は、
後に長崎伝習所に行き、そこで勝海舟と出会うことになりますし、
同じく船大工緒明菊三郎は、横須賀の浦賀ドックを造り、
近代の造船業に大きな貢献をしました。


日本側でこの条約交渉に活躍したのが
川路聖謨です。

彼は、享和元〔1801〕年、豊後日田に生まれます。
その後、勘定奉行や寺社奉行佐渡奉行などで
その能力を発揮して出世をしていきます。

また、前述通り、江川英龍とともに尚歯会に参加し、
海外事情や技術などにも通じていました。

その後、尚歯会の会員がつかまる蛮社の獄や
彼の能力をかっていた水野忠邦の失脚などに
翻弄されますが、

プチャーチンとの交渉に抜擢されたというわけです。

彼の魅力はその能力の高さもあるのですが
誠実な人柄ともに
ユーモアのセンスがあったことでしょう。

日露交渉の応接に加えて、
津波による船の沈没という緊急事態に接しても、
ロシア人の利になることを考えて行動したのが、
彼らにも伝わったのです。

こんなエピソードがあります。

日露交渉の応接でロシア側は川路の人柄に魅せられて、
写真をとろうとしましたが、
それを聞いて川路はロシア人に対して、

「私のような醜男を日本人の顔の代表と思われては困る」

と発言し彼らを笑わせたといいます。


プチャーチンに随行していたイワン・ゴンチャロフは

「川路を私達はみな気に入っていた。(中略)川路は非常に聡明であった。彼は私たちを反駁する巧妙な弁論をもって知性を閃かせたものの、それでもこの人を尊敬しないわけにはゆかなかった。彼の一言一句、一瞥、それに物腰までが、すべて良識と、機知と、炯眼(けいがん)と、練達を顕していた。明知はどこへ行っても同じである。」
といい、

プチャーチンは帰国後に
「鋭敏な思考を持ち、紳士的態度は教養あるヨーロッパ人と変わらない一流の人物」
「日本の川路という官僚は、ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物であった」
と報告しています。

人種差別的考えがアタリマエであったであろう
19世紀のヨーロッパ人が、ここまで評価ているというのは

やはりスゴいと思うのです。

また、その一方で川路はプチャーチンのことを

「軍人としてすばらしい経歴を持ち、自分など到底足元に及ばない真の豪傑である」

などと評価していますから、
この時代の外国人と日本人とのやりとりを考えると

やはり素晴らしいことだと思います。



この条約が締結された後プチャーチンは、
この功績により、伯爵になり、
海軍大将・元帥へと出世をし、

1881年には日本政府からも勲一等旭日章がおくられます。

一方川路は、日米修好通商条約調印なども
なしとげておりますが、

その後の大老井伊直弼による一橋派の粛正により
左遷され、井伊直弼の死後も、
役に不満で引退、

慶応元(1868)年、勝海舟と西郷隆盛の会談で
江戸城の無血開城が決定すると、
割腹のうえピストルで喉を撃ち抜いて
自殺をします。


あまりにも二人の生き様の差に
歴史の無情を感じます。


ただ、
のちにプチャーチンの死後、孫がプチャーチンの遺言に従って
当時の村人の好意に感謝して、戸田村に百ルーブル
(当時の数百円、現在の感覚では数百万に相当?)を
寄付しましたし、

川路とプチャーチンの死後、子孫も交流を続け、
昨年も日露修好150年を祝しているそうです。


たしかに交渉中は、それぞれが自分の国益にたった
発言をしますから、
対立をすることもあるのですが、

そのような主張するべき処は主張しながらも
お互いに敬意を持ちながら接するという、

やはり、外交は人格なのだなあと
改めて思うのです。



余談ですが、ディアナ号の修理に当たって、
搭載していた砲を下田に降され、後に幕府に譲渡されましたが、
その後、函館要塞築城に際し、搬送設置されました。

このうち4門は、函館戦争の際、回天に搭載され、
官軍と交戦し、
沈没した回天より引き揚げられた砲は、
今は函館と靖国神社に展示されています。


と、いうわけで
江戸時代の日露交渉の話は
一旦終わりであります。

が、この話をするにあたって、
様々な資料や下本などにあたりましたが、

最もよくまとまっていたのが
僕が一押ししてヤまない
みなもと太郎さんの
「風雲児たち」〔リイド社 刊〕です。

林子平や工藤平助の活動も
最上徳内や近藤重蔵、間宮林蔵の苦闘も
大黒屋光太夫や高田屋嘉兵衛の活躍も
プチャーチンと川路のやりとりも

実に面白くスリリングに
読むことが出来ます。

よろしければ一読を
おすすめします。







チベットに対する提案は以下の通り。
(1987年、アメリカ議会の人権問題小委員会での「チベットに関する5項目の和平案」)

・チベット全土を平和地域とする
・チベット民族の存続を脅かす中国の人口移動政策を放棄する
・チベット民族の基本的人権および民主主義に基づく自由を尊重する
・チベットの自然環境を保護し、回復させる。チベットでの核兵器の製造、核廃棄物の投棄をしない
・チベットの将来の地位について、また、チベット人と中国人との関係について、真剣な交渉を開始する

そして、チベット人による本当の自治権が得られれば独立は求めないと譲歩しました。(1988年、「ストラスブール」提案)




ヘタリアに言論と表現の自由を!
民族浄化[ここでは、ある民族のみを浄化した姿で描けという要求]反対!
自由ヘタリア救国民族解放戦線の「イトー×ani」がお届けする
FURANO History Factory(F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
北海道富良野市と上富良野町・中富良野町など限定で聴く事が出来る、
コミュニティー放送局FM「ラジオふらの」の
月曜午後五時からオンエアー中

番組へのリクエスト・メッセージは
〒076-0026富良野市朝日町5-17レストランふらの広場内「ラジオふらの」
E-mail radio@furano.ne.jp FAX 0167-22-2775

リクエストなどは
当ブログのコメント欄でも
受け付けています。

よろしければ。
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://radiofhf.blog65.fc2.com/tb.php/1021-a81b15ca