2010.03.29 卒業
FHF
弥生三月も最終週に突入。
明明後日からは、4月であります。

今年は結構遅い時期まで
雪が残っているイメージがありましたが、
やはり少しずつですが、春めいて来ている
感じがします。


3月は、多くの別れがありながら、
慌ただしく時は流れて、

出会いの春を向かえていくのです。

そして、私「イトー×ani」も、ラジオふらのから
卒業をすることになりました。



3月29日 オンエア 第259回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
です。

2005年4月4日午後4時にはじまりまして、
のべで丸々5年間、259回の放送でありました。

私自身が富良野から引越をするということで、
なんとか番組を継続させる方法を模索したのですが、

会社の考えもありまして、
本日で卒業であります。


番組で語ったテーマとともに、
たくさんの伝えたいことがありましたが、
うまく伝わったかどうか…


それで、僕自身が伝えたいと考えていたメッセージは、
番組のなかで、自然と伝わっていくのが
理想なのですが、最後なので、もう一度お話しをさせてください。


社会や世間の常識とされていることが、すべて正しいとは限らない。

物事が正しいか、誤っているかを見極めるためには、
わかりやすく、耳当たりの良い情報だけに頼るのは危険である。

自分の言葉は、周囲を攻撃するのも、
周囲から防御するのにも、最良の武器である。


昨年お亡くなりになった
中島梓さんの著作にありましたが、

ある作家が、「笑っていいとも」に出演して、
番組の中で「うち、テレビないの」と発言すると、
司会のタモリさん以下、
会場のすべての人が「えええっ!」という驚嘆の声をあげたそうです。

テレビなんか、無くてはならないものではなく、
見たければ見たらいいし、見たくなれば見なくてもいいものです。

それが、なんとなくですが、
「ないのはおかしい」ものになっているのです。

「笑っていいとも」のお客さんの反応がすべてではありませんが、
一つの、わかりやすい例だといえるでしょう。


70年ほど前までの日本人が
「お国のために命を捨てるのは忠義だから、
子供が死んでも泣いてはならない。」と
ほとんどの人が思っていた時代のことを聞くと、
時代遅れだとか、非人間的だと思うのでしょう。

しかし、そんな人は、
「テレビは誰でも持っているものに決まっている」と
信じ込むことについては、どう思うでしょうか。

迷妄であることについては、どちらも同じです。
そんな常識とは誰が決めたのでしょう。


「お国のため」というのは、国が決めた都合だから、
極めて分かりやすい。
ですが、「テレビ」については、
テレビしか楽しみがないわけではないけれど、
いつのまにか、テレビが生活の一部になっている視聴者たち、
つまり僕たち自身が決めたことです。

僕たち自身が長年かかってじわじわとしてきた刷り込み。
こういうものに、僕たちは非常に抵抗しづらいのです。

この文章を書いたり引用しいている僕も含めて、
僕たちは、以前番組で広告の話をしたときにもしたとおり、
「商品は売らなくてはならない」という
商業主義の論理によって、絶えず刷り込みをされています。

季節ごとに新番組を楽しみにして、新聞・雑誌にマルをつけて、
ビデオやDVDで録画をして、話題は前日のテレビ番組のことばかり。
テレビに出てくるタレントのゴシップのほうを、
隣に住んでいる人の情報よりも、詳しく知っている。


そういう人は、自分が「お国のため」という共同幻想を
ばかげたことだと思えるから、戦前の人よりはカシコいのだ
と思っているのかもしれません。
が、本当は今の方がずっと巧みに操られているのではないでしょうか。

今では、もうみんなが
「戦前みたいなつまらぬ共同幻想にはひっかからないぞ」と
思いながらも、
誰かが操る競争主義の原理にのせられて、
消費社会の原理に乗せられて、
ローンを組んでいるのです。


誰に操られているのかはわかりません。

どういう手口で操られているのかもわかりません。

僕自身が、ごく一部わかっている部分についても、
実はわかった気になっているだけで、
操られている意識もないままに、
これまた誰かに操られているのかもしれないのです。



いつかお話したかもしれませんが、
石炭を掘る炭鉱夫たちは、
カゴに入れたカナリヤを一緒につれて穴に入ります。

極めて弱くて、デリケートなカナリアが苦しみ出したり、
死んだりしたら、有毒ガスが発生している。
ということを報せてくれる、
異常の探知係として使ったそうです。


現在の世の中の歪み、
例えば、立て続けに起こるいじめの問題にしても、
浪人生や元派遣職員の殺人・障害事件でも、
荒れる成人式でも、ホームレスを集団で襲う中学生たちも、
毎年三万人を超えている自殺者数も、
それを、敏感さ故に異常な世界に警鐘をならす
「炭鉱のカナリア」に例えること自体、
古くさいことなのかもしれませんが、
そこに異常さを感じずにはいられません。


僕は、自分のことを決めるのは自分であるべきですし、
自分で主体的に選択したことによって、
生きていきたいと考えています。

だから、目に見えない何かに操られるような状況には、
強い違和感を覚えるのです。

何か、わけのわからない。理不尽な事件が起こるたびに、
同じようなことを感じている人はいるでしょうし、
そんな不正に対して真剣に考えたいと思っています。

現実社会で日々起きていく面倒くさい手続きとかに流されつつ、
怒ったり不満だったりを表明しても変わらない現状に対して、
あきらめてしまわずに、感性の若さを持ち続け
なおかつ社会を変革できる人こそが、
この後の世の中に必要となってくるのだと思います。


ラジオでみなさんにお話をする時に心がけたことは、

多くの人の幸せに手を貸すことが出来たらいいなと
思っていました。

そして、今の気持ちを忘れないようにしてして、
なんとなく居心地の悪い世の中を、
少しでもいい方向に向かっていくために大切だと考えていることを、
番組でも話してきました。


世間の常識を疑うということは、
僕らが「当たり前」と思っていることも含まれます。

「健康で、豊かで、食物にこまらなくて、適応していること」
がいいことであり、幸福であり、目標だ。
というのは、当たり前のことです。

ただし、だからこそ、現在の僕らを取り巻いている、
資本主義的商業主義社会の原理である、
「買って買って、買いまくりましょう。
もっと食べて、もっと運動をして、もっと健康になって、
もっとスリムになること。これが幸せです。」
というメッセージを受け入れてしまうのです。


これらのメッセージに従うために
僕らは生活させられているという面もあります。


過剰はよいこと。
富裕はよいこと。
沢山消費するのが良い消費者。
たくさん生産するのが、良い生産者。
たくさん売れるのが良いセールスマン。
たくさんお金を持っているのが幸せな人。



はたして本当にそうなのでしょうか。



忘れてはならないことがあります。

「僕らは滅びゆく存在である」ということです。
「メメント=モリ(死を忘れるな)」ともいいます。

更に言い方を変えると、
「僕らもまた、地球上にいる無数の種のなかの、
たった一つの種に過ぎないのだ」ということです。

人間は万能ではありません。
人間には生と死を自分で判断して、
コントロールする権限はないのです。


死に対して目をふさぎ、盲目的に逃げること。
これは、「現在がよければ、それですべてが良い」という、
享楽主義の傾向の典型ですし、
そこにも消費はつけこみます。


死を賛美しているわけではありません。

「生と死を自分で判断して、コントロールする権限はない」とは、
永遠に生き続けることも出来ないかわりに、
自分で自分の生命にけりをつけてしまうことも良くない。
ということなのです。


では、なんで、そんな枷をされながら生きていくのか、
と考えると。


生は可能性だからだと思うのです。

枷があったとしても、
生きていればいいことがあるかも…。という可能性です。


しかも、だから、確実とは言えません。
そもそもこの世の中に確実なことなどはありません。

だから、面白いのかもしれないのです。

こんなことについては、すでに気がついている人がいるかもしれません。

その人は今の気持ちを忘れないでください。

生と死については、生涯ついてまわる問題です。
一生涯考えても結論の出ない問題かもしれません。

僕にしても、これらの考えは「今、この現在での考え」ということで、
この考えを維持できていけるかは、正直よくわかりません。

でも、考えることをやめてしまうのと、
考え続けるのでは、人生の幅が違ってくるのではないか、
と思っています。

安易な道に流れずに
可能性を信じて
考えや行動を続けること。


それも、攻守を支える武器になると思っていますし、
そんな考えでラジオを続けてきたのです。


また、世間の常識を疑うということは
世間的に弱者とされているものの
すばらしさにスポットを当てることも
大切だと考えます。


番組中では一回について平均5曲
トータルでのべ1330曲をこえる曲を
かけてきました。

これらの曲は二年目以後からかけた分は、
ほとんどが新譜なのですが、
日本の音楽流通業界から見ると、主要といえるジャンルでは
ない曲なのです。

だからランキング番組にでる時も
ぞんざいな扱いをされることも
少なくないのです。


だからこそ、そんな曲にもスポットをあてたいという
意図があったのです。

また、このジャンルの楽曲を愛する人は
心優しい人たちなので、

番組のブログで曲の名前とか
感想をアップすることによって
番組を聴かなくても、この番組とか
ラジオふらのを応援をしてくれたりもします。

そんな方にも支えられてきて、
なんとか5年間やり通したというわけなのです。

が、それも最後であります。



晩唐の詩人に于武陵という人がいます。
9世紀末の、大中年間(847~859)、進士に及第しましたが、
官職にはつかずに、各地を放浪し、
晩年は嵩山の南に隠棲したといわれています。

だから、生年は810年とわかっていますが、
没年は不明です。

この時代の唐は、黄巣の乱などがおきる
きっかけとなった圧政であるとか
政治の乱れなどがある

混乱の時代でした。

彼の五言絶句に「勧酒」があります。

 勧君金屈巵
 満酌不須辞
 花発多風雨
 人生足別離

君に勧(すす)む 金屈巵(きんくっし)
満酌(まんしゃく) 辞するを須(もち)いず
花発(ひら)いて 風雨多し
人生 別離足(た)る


江戸時代の儒学者で、
五代将軍 徳川綱吉の懐刀である、老中柳沢吉保や
八代将軍 徳川吉宗のブレーンである
荻生徂徠の高弟であり
文人画の画家でもある服部南郭は
このように通釈しています。


金屈巵は、持つ手(柄)のある(黄金の)盃なり。親しい友達に逢うて、此の方(自分の方)から一ぱいまいれとさしたを、「勧む」と云ふ。必ず辞儀(辞退)せらるるな。このやうなことはまた(二度とは)ないことぢゃ。

なぜなれば、花盛りぢゃほどに見やうと思ふ間に、風雨でもすれば、落ちてしまふ。人生もその如く、大方(おほかた)別るることが多いものぢゃ(「足る」は多いの意)。しかれば、逢うた時に、酒でも試み、楽しむがよい。


親しい友人に出会って、せっかくの機会なんだから飲もうよ。
もういいなんて言うなよと言っているわけです。

しょっちゅう会っている友人に
「人生は云々」と言ってお酒をすすめているのだとすると、
屁理屈をこねて絡んでいる困った人ですが、

ここでは、久しぶりに会った友人と
楽しいひとときを楽しんでいるか、
友人との別れを惜しんでいるかの、
どちらかでしょう。

いずれにしても、酒宴の後は
また別れ別れになりそうです。


現在のように移動手段が発達している時代からは
想像しにくいことですが、
徒歩や馬などが主要な移動手段であった時代には、
遠方への旅立ちは、今生の別れを
意味しかねませんので、
頭のどこかに、もう会えないかもしれないという
意識があったことだと思います。

先ほどもお話したとおり、
于武陵は放浪生活をしていますし、
「全唐詩」という、唐代の詩人の詩を集大成した詩集で
彼の詩を見てみると、あちこち旅をしていた様子が
わかりますので、
そんな別れを何度も経験しているのでしょう。

今、楽しめるだけ楽しもうよという姿勢の裏には、
惜別の情が隠されているのです。


この詩を、「山椒魚」などで知られる、
作家「井伏鱒二」はこのように翻訳をしました。



コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
         (『厄除け詩集』)


「人生別離足る=人生に別れは十分にある=人生に別れはつきものだ」と、
「さよならだけが人生だ」とでは、
意味内容が少しずれていますが、

翻訳であるということを離れて、
「さよならだけが人生だ」というフレーズ自体を見てみると、
よくできた名文句ですし。
耳に残るフレーズです。

そのため、一般に広くこのフレーズが
知れ渡ることになったようです。

また、箴言のようなインパクトの強さを持ち
言いやすいために
井伏鱒二の訳を好む人も多いようです。


アイロニカルかつ、クールで
突き放したようなな表現は
僕も好むところでもあります。


また、
たまたま、今朝読んでいた日刊スポーツで
高田文夫さんの連載が最終回を向かえていましたが、

タイトルは

さよならしないと、また出会えない。

でした。


こちらもなかなか含みのある言葉ではないですか。


とまれ、
5年間番組におつきあいいただき、
ありがとうございました。

と、いうことで、お礼です。

初めて番組に、おはがきを頂きました。
あなたから頂いたおはがきは、
番組のシナリオを入れているクリアファイルに
大切にはさませてもらっています、ネットダアーさん、

この番組を始めるそもそものきっかけとなった
「お茶でへそをわかす」のみなみさん、
同じく「お茶へそ」メンバーで、ゲストとして出てもらったり
ミキサーをお願いをしたり、
当ブログの立ち上げでも、大変お世話になりました、杏紀さん、
同じく「お茶へそ」メンバーで、
この後ミキサーなどでお世話になった、太一君、
はじめて「番組を聴きました」といってくれた、よしほさん
ラジオの話をもちかけてくれましたり、
ありがたい資料をいただいたりしました、みやこさん
初めて行った「ラジオふらの」の事務所で、
「番組聴きましたよ、新番組も期待しています」
と言ってくれた、しおみさん、
初メールいただきました、本当にありがたかったです
どーも光一さん、
番組の宣伝をさせてもらったうえに、
番組にゲストででていただいた、まいさん
番組初のゲストであり、このあと「お気に入り探偵組」の
メンバーとして一緒に番組をしました、
あんどぅさん、さえきちさん、ムラ子さん
番組出演回数ナンバーワン
もはや常連ゲストである、畏友GMクンこと夢行クン、
同じく常連ゲストであり、しばしばブログにも
コメントを寄せてくれております畏友P氏こと3pinクン、

ご自身の番組に、僕のコーナーをつくっていただいたり
ゲストで招いて頂いたりして大変勉強になりました。
郡司さん、はっちゃん、小田島さん、
同じく、ゲストで出して頂きました、トキタハジメくん、
しむにぃさんと、る~やんさん
ナオミさん、あーちゃんさん、

ブログにリンクをはっていただきまして、
かつコメントなどをいただいております、
「旧FRCタイム」の三上さん、
「みかんの音楽室」のみかんさん、
「マンデーナイトフィーバー」の山下さん(トラ仲間)、うえっちさん、
レイコさん、旧メンバーのよしみほさん、
「外遊び専科 ~つりへ出かけよう」のサブさん、
冬夜おりおんさん、
番組にメールいただきました、ありがとうございました、
「アビーロードスタジオ」のジュシーヘイザンさん、
特番を、一緒に出来て嬉しかったです。ジャイブ坂下さん

さまざまなアドバイスや
励ましの言葉をいただいております、
トールモリオカさんに、きむら先生、
フジオカさん・ミズエさん・スズキユージさん

あなたがたのがんばりに刺激を受けながら
なんとか番組を続けることが出来てきました
感謝をしておりました。小梅さん、・本田さん・クニオさん
ちーさま・さとうさん・桑名さん・竹内さん・大滝さんなどの、
ラジオふらのの「ラジオサポート隊」の皆さん、

たびたび、ご自身のブログで当ブログのことを取り上げていただいてます
富良野カリ~番長、松野さん、

それからこちらも刺激を受けましたが
「富良野市 ことぶき大学」の生徒さんに
「ふらの市民講座」の受講生のみなさん、
上の二つの橋渡しをしていただきました
この番組のリスナーでもあります教育委員会のMさんとTさん、

ふらの広場で大変お世話になりました、吉田さん
第一回放送などでミキサーをお願いして
その後も今現在にいたるまで、数多くの貴重なアドバイスをいただいたり
何かとお世話になっておりますPanさん、
この野放図な番組をアタタカク容認していただいておりました
ラジオふらのの丸山社長、

そして、この放送を聴いてくださいました
すべてのリスナーの方。

このブログに遊びに来てくれているすべての皆さん、

本当に、本当に
ありがとうございました。


またどこかでおあいできる日を
心より、楽しみにしております。


ごきげんよう。


イトー×ani




ヘタリアに言論と表現の自由を!
民族浄化[ここでは、ある民族のみを浄化した姿で描けという要求]反対!
自由ヘタリア救国民族解放戦線の「イトー×ani」がお届けする
FURANO History Factory(F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
北海道富良野市・上富良野町・中富良野町など限定で聴く事が出来る、
コミュニティー放送局FM「ラジオふらの」の
月曜午後五時からオンエアーしました。


このあとは道央に住む予定ですが、
機会があれば、またボランティアで
番組作りに関わりたいと考えています。

興味がある関係者のかたがいらっしゃいましたら
当ブログのコメント欄まで連絡をいただけたら
有り難いです。

それと、
ブログはもう少しだけ
続くかもしれません。
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FHF
弥生三月も4週目に突入、
あと10日もすれば4月です。

先週は、富良野地区の小学校の卒業式が
ありました。

多くの別れがありながら、
慌ただしく時は流れて、

出会いの春を向かえていくのです。


以前、二月はロシアで「光の春」と、
美しい表現をするとお話しをし、

先週は、「音の春」という
すてきな表現を紹介しましたが。

暑さ寒さも彼岸までという有名な言葉で
象徴されるように、

3月の下旬くらいからは気温の上昇もあるので
「温度の春」という言い方もされます。

郊外に車を走らせていると、
目に付くのが雪で覆われた畑や田んぼにつけられた
融雪剤の描く模様なのです。

気がつくとそんな模様の形に
雪解けがすすんでいて、

春に近づいているのだなーと
思う反面、

北海道にとっては、3月は
低気圧が発達してオホーツク海に抜ける時に
吹雪いたりする時期でもあります。

先週末もそうでしたし。

ただ、そんなのが来た後に
気温が上がったりするので、

やはり、少しずつですが、
着実に春へと、近づいているのです。



3月22日 オンエア 第258回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
です。

バンクーバー・パラリンピックが終了しました。

こちらは本日配信された
時事通信の記事です。


新田が2個目の金=太田は銀、日本のメダル11個〔パラリンピック〕
3月22日9時17分配信 時事通信

【ウィスラー(カナダ)時事】バンクーバー冬季パラリンピック最終日は21日、当地で行われ、ノルディックスキー距離の男子1キロスプリントクラシカル立位で新田佳浩(日立システム)が優勝し、10キロクラシカル立位に続いて今大会2個目の金メダルに輝いた。4大会連続出場の新田は2002年ソルトレークシティー大会の銅と合わせ、3個目のメダルとなった。
 女子の1キロスプリントクラシカル立位では太田渉子(日立システム)が銀メダル。太田は前回トリノ大会のバイアスロン立位の銅に続く2個目のメダルとなった。
 日本は今大会、前回トリノ大会より2個多いメダル11個(金3、銀3、銅5)を獲得。メダル総数では国別で6位となった。
 競技は全日程を終了。午後7時(日本時間22日午前11時)から当地のメダルプラザで閉会式が行われる。次回は14年にロシアのソチで開催される。


と、いうことです。
テレビなどでは、
アイススレッジホッケーの決勝こそ
放送されていましたし、

それこそ早朝からオリンピック同様に
選手の活躍に一喜一憂を
してしまいました。

いやー、スポーツっていいっスね。

ただ、他の競技については、
スポーツニュースで流れる程度で、

そんなに注目をされていませんでしたし、

オリンピックのように新聞に
メダルの獲得数がのっているわけでもないので

調べてみました。

そしたら、

メダル獲得

1位 ロシア 金12 銀16 銅10 計38
2位 ドイツ 金13 銀5 銅6 計24
3位 カナダ 金10 銀5 銅4 計19
4位 ウクライナ 金5 銀8 銅6 計19
5位 アメリカ 金4 銀5 銅4 計13
6位 スロバキア 金6 銀2 銅3 計11
7位 オーストリア 金3 銀4 銅4 計11
8位 日本 金3 銀3 銅5 計11
9位 ベラルーシ 金2 銀0 銅7 計9
10位 イタリア 金1 銀3 銅3 計7

以下
フランス 金1 銀4 銅1 計6
ノルウェイ 金1 銀3 銅2 計6
オーストラリア 金0 銀1 銅3 計4
スペイン 金1 銀2 銅0 計3
スイス 金1 銀2 銅0 計3
フィンランド 金0 銀1 銅1 計2
スウェーデン 金0 銀0 銅2 計2
ニュージーランド 金1 銀0 銅0 計1
韓国 金0 銀1 銅0 計1
チェコ 金0 銀0 銅1 計1
ポーランド 金0 銀0 銅1 計1

という結果だったそうです。

ちなみに
日本は、

クロスカントリースタンディングのカテゴリーで
新田佳浩選手が金メダル2個
大田渉子選手が銀メダル、

アルペンスキーシッティングのカテゴリーで
狩野亮選手が 金メダルと銅メダル
森井大輝選手が 銀メダルと銅メダル
大日方邦子選手が 銅メダル2個
鈴木猛史選手が 銅メダル

アイススレッジホッケー男子が銀メダル

で、
それぞれ獲得をしました。

中でも、高福祉を実現していて、
さらに冬季五輪の種目にも強い
北欧の国々と互角にゲームをする
と、いうことなど、

選手の活躍に、勇気づけられたというわけです。


ただし、オリンピックも同様なのですが
冬季の種目というとどうしても
活動や遠征の資金などが
潤沢ではないようすを耳にします。



例えばオリンピックで話題になったカーリングですが、
今回の遠征や今までのチーム強化については
青森県におうところが多かったのです。


冬季の競技はどうしても、
雪国にある地場の企業の協力の大小が
結果に結びつく例が多く、

北海道・東北の景気がなかなか良くならないなかでの、
ソルトレイクシティーやトリノの結果という
反省項目があったのですが、

なかなか、この点については、
改善されない問題でした。


しかも、これは、先日配信された
記事であります。


選手強化へ一層の支援検討=鳩山首相〔五輪〕
3月1日10時24分配信 時事通信

 鳩山由紀夫首相は1日午前、バンクーバー冬季五輪の閉幕に当たり「日本人の選手、頑張ってくれた」と日本人選手の活躍をたたえた。日本のメダルが銀3、銅2個という成績に関しては「メダルの数がどうのという声はあると思う。国として何か積極的にさらに強化すべきところがあれば、また考えていきたい」と述べ、選手の育成・強化に向けた国としての一層の支援を検討する考えを示した。首相公邸前で記者団に語った。 


こちらは、その三ヶ月前の記事です。

五輪選手ずらり、補助金減に反対表明へ 「強化に影響」2009年11月30日21時35分
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 日本オリンピック委員会(JOC)は、行政刷新会議の「事業仕分け」で、約27億円の選手強化に対する国からの補助金などが縮減の対象になったことに反対を訴える記者会見を1日に東京都内のホテルで開く。上村春樹・選手強化本部長のほか、山本博(アーチェリー)、冨田洋之(体操)、太田雄貴(フェンシング)ら五輪メダリストらが出席する予定。JOCは「縮減されれば、2012年ロンドン五輪に向けた国内外の強化合宿、国際大会の遠征費、各競技団体のコーチ配置などに影響が出る」とし、世論にも賛同を訴えたいとしている。



この文章でもわかる通り、
三ヶ月前に同じ政党が目玉政策として
行った、事業仕分けでスポーツ振興基金が
槍玉にされていました…。

三ヶ月前の制作と今回の首相の発言との
整合性も気になるところですし、


更に、

日本のオリンピックの強化費は、27億とのことですが、

他国は、
ドイツ270億円
米国165億円
英国120億円
中国120億円
オーストラリア110億円
韓国106億

ですからね…。



この首相の発言が
また三ヶ月で変わったりせずに
口ばっかりで終わらないことを
セツに祈ります。


さて、スポーツにあてる資金が
少ないという問題の原因の一端は
国家がスポーツに介入しなかった歴史があります。

では、どこがスポーツ振興をになっていたのか。

日本では、学校と企業だったのです。


学校教育の一環として
スポーツが奨励されたおかげで、

日本の多くのスポーツ競技の歴史は
学校教育の歴史と共にありました。



だから特に戦前は、企業スポーツが
整備をされる前ということもあり、
日本のスポーツを牽引したのは
学校スポーツであるといっても言い過ぎではないのです。


戦後になって、数多く増えたのが、企業スポーツですが、
もともとは会社内の同好会やサークルとして始まりました。

高度経済成長、企業に余裕が出てくるにつれて、
企業スポーツも盛り上がり、
1960年代以降全国規模のリーグ戦や
トーナメント戦が実施されるようになりました。

そのようなリーグ戦であるとか
トーナメント戦などの全国大会が盛んになると、

社員の士気高揚や社員相互の連帯感や一体感の獲得を担ったり、
企業の宣伝を担ったり、娯楽の提供という福利厚生の一貫として、
企業スポーツが盛んになります。

そこで、所属する企業がお金をだしながら
スポーツを行うという形式が出来たのです。


お金を出すといっても、プロとは厳密に異なり、
就業時間内に練習をしても、
就業したものと見なして賃金を支払うこととか、
体育館やグランドの整備や、遠征にかかる費用などの経費を、
会社からのお金で賄うことを指しています。


このような環境が整えられると
それ以前の大学スポーツに代わって
国内スポーツの牽引役を担うようになったのです。


また、学習をしたあとに部活動をする
という形でスポーツに親しんできた多くの日本人アスリートにとって
学習が就業に変わったという
部活動型の企業スポーツというのは
性に合ったのかもしれません。

そんな形で各企業、各種目で
スポーツが盛んになりました。

景気の良い時代に、景気のよい会社が
多くのスポーツ選手を抱えるというのが

いわば当たり前だったのです。


だから1950年代~60年代のいろいろなスポーツの
年表などを見ていくと、


例えば都市対抗野球で優勝しているのは、
全鐘紡、大昭和製紙、八幡製鉄、日本石油、丸善石油
熊谷組、積水化学、電電近畿、富士鉄広畑、

バレーボールの黒鷲旗で優勝しているチームは
男子なら八幡製鉄、日本鋼管、住金小倉、松下電器、東レ
女子なら倉紡万寿、日紡足利、鐘紡四日市、日紡貝塚

ラグビーの社会人ラグビーフットボール大会で
優勝・準優勝のチームというと
配炭公団、三井化学、八幡製鉄、九州電力、近鉄
トヨタ自工、新日鉄釜石


といった、素材関係の会社が
目立っています。


ちなみに、サッカー天皇杯では50年代から
大学生のチームやクラブチームとともに、
古河電工・八幡製鉄・東洋工業・ヤンマー
三菱重工、日立製作所などが優勝・準優勝をしており、

八幡製鉄以外は、現在のJリーグ所属クラブの
母体となった企業であるのが、特徴ですかね。



あと、全国社会人ラグビーフットボール大会
1949の準優勝は、住友奔別という


富良野のご近所、三笠市幾春別にある
現在も威容を誇る、
日本有数の巨大竪坑の遺構でしられている
会社です。


また道内の様々なアマチュアスポーツの
状況でいうと、


三井芦別とか、羽幌炭鉱とかの
活躍もありましたし、


特に、社会人野球では
北海道5強

大昭和製紙北海道(白老町)、
新日本製鐵室蘭(室蘭市)、
王子製紙苫小牧(苫小牧市)、
北海道拓殖銀行(たくぎん、札幌市)、
NTT北海道(電電北海道、札幌市)

等と言う言葉もあります。


このように、世相を反映しているのが、
大学生の人気企業とともに

社会人スポーツの強豪チームだったのです。


しかし、バブル崩壊のあたりから
企業の非生産的部門は統廃合が進み、

このことの延長上で、
企業スポーツから撤退する企業が増え、
費用対効果の薄い企業スポーツは
衰退の一途をたどっています。

経営の合理化が進む中、
明らかに「イメージアップ・販売促進につながる」ものでなければ、
企業にとって価値のないものとみなされました。

「これ以上スポーツチームを維持していけない」という
危機的状況下での廃部のところもあれば、
「スポーツチームを持つ意味がない」という
経営判断での廃部もありますが

事情は似たようなものです。


このような例は各競技ごとで、
いくらでも挙げることが出来ます。


このような現状について経済産業省が主催する
「企業スポーツ懇談会」は、

企業スポーツの撤退が及ぼす影響について

【1】 競技力強化の観点から
・各競技のトップリーグへの参加チーム減少
・各競技のトップリーグの競技レベル低下

【2】 選手の観点から
・競技者が安心して練習できる環境の縮小
・大学スポーツ、更にジュニアスポーツの衰退

【3】 地域貢献の観点から
・スポーツイベントや施設開放等の停止
・地元市民がスポーツと触れ合う場の減少


を列挙し、以下のようにまとめています。

企業スポーツ資源(競技者、指導者、施設、ノウハウ、資金等)の消失は、直接的、間接的に我が国のスポーツ体制の基盤を脆弱化させ、とりわけ国際競技力の低下、生涯スポーツの低迷など、スポーツ界全体に影響する。


なるほど。

ただし、このような理念こそあれ、
現実に企業がなかなか支援できない今

どうすれば良いのかという話については


来週お話します。





ヘタリアに言論と表現の自由を!
民族浄化[ここでは、ある民族のみを浄
化した姿で描けという要求]反対!
自由ヘタリア救国民族解放戦線の「イトー×ani」がお届けする
FURANO History Factory(F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
北海道富良野市・上富良野町・中富良野町など限定で聴く事が出来る、
コミュニティー放送局FM「ラジオふらの」の
月曜午後五時からオンエアー中

番組へリクエスト・メッセージは
〒07 6-0026 富良野市朝日町5-17 ラジオふらの
E-mail radio@furano.ne.jp FAX 0167-22-2775

リクエストなどは
当ブログのコメント欄でも
受け付けています。
FHF
弥生三月も三週目に突入しました。

富良野地区の中学校の卒業式が
昨日もありました。


また、富良野看護学校とか、
来週末は地区の小学校と、
卒業式が続いていくことになります。


多くの別れがありながら、
慌ただしく時は流れて、

出会いの春を向かえていくのです。



以前、二月はロシアで「光の春」と、
美しい表現をするとお話しましたが、

三月は「音の春」というすてきな表現があるそうです。

3月ともなれば、日脚が伸び、夜明けも早くなり
ラジオ生放送の時間帯もまだ明るい感じで、
日暮れも遅くなっています。

夜がまだ明け切らないうちから、
かすかに聞こえる自然の音が、気になります。

まだ明けきらないほのかに黄色く染まる空気の中、
他の音が少ないだけ、よけいによく聞こえます。

新聞受けに新聞を「コトッ」とほうりこまれる音。
遠ざかる足音に車のエンジン音。

雪解滴のぴちょんぴちょんという音

風にカサコソ吹かれる落ち葉の音。

チチチチと鳴く鳥の声などの競演があって、
春だなあと感じるのです。



3月15日 オンエア 第257回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
です。

富良野のスキーシーズンを締めくくるともいえる、

第22回全国高等学校選抜スキー大会(アルペン種目)や
第11回富良野市長杯スーパージャイアントスラローム競技大会が
富良野スキー場を舞台に開催されましたが
無事終了しました。

全国から来た高校生スキーヤーによる
熱い戦い繰りが、富良野を舞台に
くり広げられました。

ひょっとしたらこのラジオを
自宅に戻るどこかで聞いている
選手の方もいらっしゃるかもしれません。

本当にお疲れ様でした。

また、バンクーバー冬季パラリンピックが開幕し、
21日までの10日間にわたって
熱戦が繰り広げられることになり、

早速、先週当番組で紹介をした5大会連続出場となる
ベテランのチェアスキーヤー大日方邦子選手が
銅メダルを獲得したというニュースも
はいってまいりました。



さて、オリンピックのあとに開催されるのが
恒例になったパラリンピックですが、

身体表現の美しさを追求することに
オリンピックもパラリンピックも
差がないということで、同時に開催をされていますが、

同じような考えのもとで、
かつて、近代オリンピックにあったのが、芸術種目でした。

種目は絵画、彫刻、文学、建築、音楽があり、
スポーツを題材にした芸術作品を制作し
採点により順位を競った種目でした。

そもそも近代オリンピックのもととなった
古代ギリシャではじまったオリンピックは、
神を讃えるという信仰的な要素が強いもので、
スポーツをすることで、強く美しい肉体で
神を表現することから生まれたものでした。

また、古代ギリシャでは、芸術表現も
同じく神を表現する一手段でした。

だから古代ギリシャの芸術性のリアルさは
神を表現する手段として、人間性の追求が
なされたというわけです。

そんな古代オリンピックのありかたを理想としたのが
クーベルタン男爵の提唱で始まった「近代オリンピック」で

その理念として「肉体と精神の向上の場」が掲げられ、
男爵の希望もあって芸術競技が採用されたのです。

当時の規約には、
「オリンピックはスポーツと芸術の二つの部門で競技を行わなくてはならない」
という一章がありました。

実際、芸術を極める人々にとっては、
素晴らしい国際的コンペテションの場を提供されていたのです。

はじまったのが、第一次世界大戦の直前である
1912年のストックホルムオリンピックからで、

第二次世界大戦後の1948年のロンドン・オリンピックまで
合計7回の大会で正式競技として実施されました。

種目は、
都市計画 建築設計 文学全般 詩歌 劇作 叙事詩
音楽全般 声楽作曲 器楽作曲 オーケストラ作曲
絵画 単彩画と水彩画 ポスター・スタンプ・シール
彫刻・エッチング 彫塑 メダル レリーフ
山岳賞 グライダー賞

といった種目です。

建築・文学・音楽・絵画・彫刻など
文字通り幅広い分野を
評価したということなのです。

ただ、七回で終わってしまったのは、
芸術作品について客観的な基準をもって採点を行うことが困難で、
恣意的な判定がしばしあったのではないかとの
批判が生じたことが理由とされます。

2度の大戦を挟んで、政治的な思惑も
絡んだといいうこともあるでしょう。

ナチスドイツからのメダリストが多かったというのも
あったのかもしれませんし。

そんな点から、数値で明確に評価が出来る
スポーツに絞ったほうが妥当だという
判断があったということです。


因みに、芸術作品について客観的な基準をもって
採点を行うことが困難だといった批判は、
先日のバンクーバーオリンピックでも物議をかもした
フィギュアスケートとか、
夏では、シンクロナイズドスイミングとか新体操といった
芸術的要素が重視される競技においても同様ですが、

こちらは、まだ身体を使う要素が強いので
成立をしていますが、
近代オリンピックが「世界的な祭典」から
より純粋にトップアスリートの競技の場として
変貌をしていくなかで、そぎ落とされたものともいえます。

但し、最後の芸術種目が行われたロンドン大会の
次に開催されたヘルシンキ大会以降は、
オリンピック精神に則って、
競技ではなく文化プログラムとしての
芸術展示が行われようになりましたし、
芸術展示を行うことは、
オリンピック憲章にも定められています。


さて、オリンピックとなると
どうしても気になるのは日本人選手の活躍ですが

日本人選手は1932年のロサンゼルスオリンピックと、
1936年のベルリンオリンピックの2回参加しています。

一般のスポーツの国内競技団体にあてはまる団体として
「大日本体育芸術協会」(現在の日本スポーツ芸術協会)があって
作品募集・国内予選を行っていました。

1932年ロサンゼルスオリンピックでは
絵画・版画部門で長永治良が参加し
「蟲(むし)相撲」で 佳作

1936年ベルリンオリンピックでは
絵画種目(絵画)で 藤田隆治が、
作品名「氷上ホッケー(アイスホッケー)」 銅メダル
絵画種目(デッサン・素描部門)で鈴木朱雀が
作品名「古典的競馬」 銅メダル
若き日の東山魁夷、小磯良平、棟方志功が、選外

音楽種目(作曲)で江文也が
作品名「台湾の舞曲」で4位入選
山田耕筰が作品名「行進曲」で 選外
諸井三郎が作品名「オリムピックよりの断片・三章」で選外
箕作秋吉と伊藤昇 選外

という結果でした。


この次に実施の予定だった東京大会と、
その次のロンドン大会は、
第二次大戦のために開催されず、
繰り越しにより、4年後に1948年開催されることになった
ロンドン大会は、敗戦国である日本とドイツは
参加を拒否され、前述した通り、
この大会以降、芸術部門の競技は規約から
削除されてしまいました。

ベルリンオリンピックは、
第二次世界大戦前、ヨーロッパで
ヒトラーのナチス・ドイツがいよいよその地歩を固めつつあり
ゲルマン民族の意識高揚を狙って、「民族の祭典」と銘打たれ、
大々的に開催されました。

スポーツ競技はもちろん、
オリンピック規約にある「芸術部門の競技」も華やかで、
全世界の芸術家たちが応募しました。

メダリストの鈴木朱雀(すずき すじゃく)は、
1891年12月7日に生まれ、
1972年5月4日に亡くなった、日本画家、挿絵画家で、
本名は鈴木幸太郎といい、弟は童画画家の鈴木寿雄です。

朱雀は、野田九甫に師事し、川端画学校で学びました。
1920年第2回帝展に「吟鳥」が入選し、
1936年ベルリンオリンピックの芸術競技絵画種目に
作品名「古典的競馬」を出品し銅メダルを獲得しました。

書籍や雑誌の挿絵、書籍の装幀など
多くの作品を残し、歴史上の人物の人物画が多い作風です。

早稲田大学會津八一記念博物館に
小泉八雲の肖像を描いた絵画が収蔵されており、
同博物館収蔵資料データベースで閲覧することができます。
菊池寛の「日本武将譚」挿絵が代表作です。



藤田隆治(ふじた りゅうじ)は、日本画家で、
1907年4月13日山口県豊北町に生まれました。

高島北海、野田九甫に師事し、
革新日本画会、青竜社展、新文展に入選。
1934年には吉岡堅二らと新日本画研究会を結成します。

1936年にベルリンオリンピックの芸術競技絵画部門に
作品「アイスホッケー」で参加し銅メダルを獲得。

同作品はナチスに買い上げとなり
その後の行方については明らにはなっていません。

弟子の笠青峰が復元を試みた際の資料によると
モデルとなったアイスホッケー選手は
慶應義塾大学と王子製紙の選手だそうです。

1938年に新美術人協会を結成。
その後、北九州市に移り創作を続け、
佐賀大学講師も務めました。



また、音楽分野で唯一4位に入選をしたのが
台湾で生まれ、日本で活躍した作曲家、声楽家である、
江文也です。

江文也(こう ぶんや)は1910年6月11日台湾で生まれ
本名は江文彬といいます。
4歳で一族と共に廈門に移住し、
13歳で長野県上田市に本土留学して
旧制上田中学校(現長野県上田高等学校)へ入学。

この頃、恩師であるスコット女史と出会って音楽を学びました。

その後、武蔵高等工科学校(新制武蔵工業大学(現東京都市大学))
電気科で学ぶ一方、東京音楽学校夜間校で声楽を学びます。

合唱団の指導者に見い出されて昭和7年(1932年)、
コロムビアレコードのバリトン歌手となります。

この頃から山田耕筰、橋本國彦に作曲を学び、
同年、第一回音楽コンクール声楽部門入選(翌年も同部門2位に入賞)。
翌昭和8年(1933年)3月、乃ぶ夫人と結婚。
JOAK(東京放送局)に出演して
「タンホイザー」、「ボエーム」などを歌いました。
「ボエーム」の日本初演で歌ったのが文也でした。
また文也はオペラ「タンホイザー」の主役を務めました。

日比谷公会堂でのステージには
台湾から多くの人がつめかけ、
台湾新民報には「音楽の天才江文也氏に聴く」と報道。
台湾の誇りとして、郷土訪問音楽団が組織され、
台湾7つの都市で文也の演奏会が開催されたほどでした。

今日も、「肉弾三勇士の歌」などの戦時歌謡や
『第二生蕃歌曲集』の自作自演などの録音が残されています。


作曲については、長谷川和夫、李香蘭が主演した
「蘇州の夜」などの映画音楽を担当しました。
松島詩子の歌うレコード「知るや君」は、
A面が島崎藤村作詞「知るや君」、
B面が「シュロの葉陰に」となっていますが、
A面の作曲、B面の作詞作曲も文也が行ったのもでした。


これほど能力もあり活躍もしていましたが、
日本音楽コンクールの声楽で2年連続、作曲で3年連続、
なぜか常に二位でした。


満を持すかのように、1936年のベルリンオリンピックの
芸術競技に、前述の管弦楽曲「台湾の舞曲」を出品。
当時は「3位入賞」と報じられましたが、
実際には四位相当の、選外佳作という扱いでした。

当時の日本で作曲家の大御所の曲が入賞せず、
文也の曲が入賞してしまったということで、
オリンピックにおける入賞は楽壇の世界で大きく取り上げられず、
台湾出身という暗黙の差別に、
文也はいらだっていたと伝えられています。


その後も中国、台湾、日本の音楽語法と
モダニズムを融合したピアノ曲、声楽曲、交響曲などを
数多く発表しました。

1936年に北京に出発し、
37年には中華民国臨時政府の国歌に相当する曲を完成。
北京中央公園の大広場で、日本と中国の混成大ブラスバンドで演奏し、
中国全土に放送されました。
1938年には北京師範学校教授として迎えられ、
その後は優遇されて、1939年には国立音楽院院長となり、
家族のいる日本と中国を往復する日が続きました。


そんな彼の人生を一変させたのが
戦争でした。

第二次大戦が終わることにより、彼は日本国籍を失い、
家族を残した日本に戻ることができなくなりました。

蒋介石の国民党政権下では、日本軍部に協力をしたということで、
「文化漢奸」として10ヶ月拘禁されましたが、
米軍クラブのジャズバンドの指揮をして
糊口をしのぐことができ、
しかも、この頃、現地の女性と再婚をします。

1947年には北京の中央音楽学院教授に就任し
1949年の中華人民共和国成立後も大陸に残り、
1950年からは天津中央音楽院教授に就任しました。


しかし、1957年からの反右派闘争、
そして1966年からの文化大革命で
彼は「日本帝国主義の手先である」と糾弾され、
地位を剥奪された上に、
大半の作品の自筆譜やピアノなどを焼かれてしまいます。

そして下放労働に送られました。

その間も密かに作曲を続け、
文革が終結した後の1978年に他の文化人と同様「平反」で
解放されやっと名誉回復されましたが、すでに健康を害していました。
肺気腫、胃潰瘍に加えて脳卒中で倒れ、
五年後、北京で73歳にてこの世を去ったのです。


中国に残って以降、江の名は
日本の音楽界から忘れ去られてしまっていました。

しかし文革終了後の名誉回復以降、
香港、台湾、そして中国での再評価・録音が増え、

日本でも徐々にその名が知られるようになって来ました。

1999年には
「まぼろしの五線譜 江文也という『日本人』」(井田敏著、白水社)が
出版されましたが、
中国側の遺族の扱いをめぐって日本側の遺族が抗議したうえ、
東京の江家に保管されていた銅製のベルリンオリンピック参加メダルを
第3位用の銅メダルと誤認して記述したことから、
現在は絶版になっています。

2004年に公開された映画『珈琲時光』においては
江文也が映画のテーマとなっていて、
彼のピアノ曲が取り上げられると共に、
日本側の乃ぶ夫人と娘が出演していのす。

Naxosの「日本作曲家選輯」でも作品集のリリースが予定されており、
彼の日本での再評価はこれから進むといわれています。



また、彼の政治に翻弄された
理不尽にも感じる生涯を見るに
政治と平和についても、考えてしまいます。

音楽や美術などの芸術は
人の心を豊かにするものですし、

スポーツを見て得られる感動やカタルシスは
まさに芸術を味わうことで得られるものと
等しいと思っています。


そのようなスポーツを通じて、
国と国とのみにくいエゴ向きだしの争いではなく、
等しく人間としてのびていく可能性ある存在であることで、
手と手を取り合いながら、人と人、国と国との関係が、
もっと良くなるといいなと思ったのです。

五輪が象徴するものは、
五つの輪が支えあって協調する「平和の祭典」です。

あらためて芸術・スポーツ・平和について
考えてみたいと思うのです。







ヘタリアに言論と表現の自由を!
民族浄化[ここでは、ある民族のみを浄
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自由ヘタリア救国民族解放戦線の「イトー×ani」がお届けする
FURANO History Factory(F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
北海道富良野市・上富良野町・中富良野町など限定で聴く事が出来る、
コミュニティー放送局FM「ラジオふらの」の
月曜午後五時からオンエアー中

番組へリクエスト・メッセージは
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弥生三月も二週目に突入しました。

富良野地区にある4つの高校をはじめ
北海道内多くの公立高校では
3月1日に卒業式がありましたが、

先日の日曜日は富良野地区の
中学校の卒業式がありました。


また、今週は富良野看護学校、
来週末は地区の小学校と、
卒業式が続いていくことになります。


多くの別れがありながら、
慌ただしく時は流れて、

出会いの春を向かえていくのです。


また、週末には、
富良野のスキーシーズンを締めくくるともいえる、

第22回全国高等学校選抜スキー大会(アルペン種目)や
第11回富良野市長杯スーパージャイアントスラローム競技大会が
富良野スキー場を舞台に開催されます。

今週の週間天気を見ると、
連日小雪が降りそうということなので、
ゲレンデコンディションは
維持できそうです。

再び、全国から来た高校生スキーヤーによる
熱い戦い繰りが、富良野を舞台に
くり広げられることになるのです。



3月8日 オンエア 第256回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
です。

熱気を帯びて連日伝えられた
オリンピックの報道については
一段落した感がありますが、

今週は、バンクーバーで
今度は冬季パラリンピックが
現地時間の3月12日に開幕し、
21日までの10日間にわたって
熱戦が繰り広げられることになります。


日本選手団は、前回2006年のトリノ大会では、
金2、銀5、銅2と、合計9個のメダルを獲得し、

今回も、5大会連続出場となる
ベテランのチェアスキーヤー大日方邦子選手
(電通パブリックリレーションズ・
冬季パラリンピックにおける日本人初の金メダリスト(1998年長野大会、滑降)
にして、その後もアルペンスキー競技で合計8個のメダル
(金2個、銀3個、銅3個)を獲得)らを筆頭に、
男子34人、女子8人の合計42名の選手たちが
メダル獲得を目指すことになります。


さて、オリンピックのあとに開催されるのが
最早恒例のようになっている
パラリンピックですが、

国際パラリンピック委員会(International Paralympic Committee、略称IPC)が
主催する身体障害者を対象とした
世界最高峰のスポーツ競技大会のことです。

オリンピックと同じ年に同じ場所で開催され、
2004年のアテネ大会から夏季オリンピックと
共同の開催組織委員会が運営をしています。

その歴史は比較的新しいといえます。


パラリンピックのはじまりは、
1948年のロンドン・オリンピック開会式の日に行われた、
車いすの入院患者による
アーチェリー大会にあります。

第二次世界大戦の後期である
1944年にイギリス政府は、神経専門医であった
「ルードイッヒ・グッドマン博士」に要請して、
傷病軍人の治療のためロンドン郊外に
ストーク・マンデビル病院国立脊髄損傷センターを開設しました。

グッドマン氏は、戦争で負傷した兵士たちのリハビリテーションとして
「手術よりスポーツを」との主張を強く持っていた人物で、

そこでは病気やケガによる身体障害からの回復に、
スポーツを取り入れていたために、
その一環として、この病院の競技場で洋弓の大会を開催したのです。

それが1948年のロンドン・オリンピックの
開会式の日に行われたのでした。


この競技会は、この後も続くことになります。

最初は入院患者のみの競技大会でしたが、
その後、1952年には国際大会となり、
第1回国際ストーク・マンデビル競技大会の名で
大会が開催されました。

参加国はイギリスとオランダの2カ国でした。

このグットマン氏の行動を支えたのは、
「将来、障害がある選手たちにとって、
この大会が、オリンピックと同じ価値を持つ大会になるように」という考えで、

障害者も健常者も、将来は一緒に出場できる可能性を持った大会を
視野にいれていました。

この大会は、毎年開催され、
大会ごとに参加選手や競技種目が増えていきました。

そうして1960年には、グッドマン氏を会長とした
国際ストーク・マンデビル大会委員会が組織されて、

この年にオリンピックが開催されたローマで、
国際ストーク・マンデビル競技大会が
開催されたのでした。

今では、この大会を、第1回パラリンピックとよんでいます。

そして、第2回大会が開催されたのが
1964年の夏季オリンピック開催地の東京でした。

東京の大会は、国際ストーク・マンデビル競技大会と
全身体障害者を対象にした日本人選手だけの国内大会の
2部構成で行われました。

現在は、この両者を合わせて
パラリンピック東京大会と呼ばれています。

「パラプレジア・オリンピック」
(半身の不随とたたかっている人たちのオリンピック)を
省略して、「パラリンピック」という呼び方が広まったのは、
この東京大会からでした。

オリンピックの開催都市で、大会が行われることは
東京で一旦中断しますが、

1972年のハイデルベルク大会は、
この年にオリンピックが行われた
ミュンヘンと同じ西ドイツでの大会でした。

1976年、モントリオールオリンピックの年、
国際ストーク・マンデビル競技連盟と
国際身体障害者スポーツ機構との共催で、
モントリオールと同じカナダの
トロントで大会が開催されました。

そして、この大会以降は、
半身の不随以外の障害のある選手の参加が認められるようになり、
さらに、障害の違いをこえて競う競技も実施されるようになりました。

また、1976年から冬季大会が始まり、
第1回大会は、オリンピックは札幌で行われましたが、
パラリンピックはスウェーデンの
エーンシェルドスピークで開催されました。


このように開催が大規模になってきて
認知度が上がってくると、
パラリンピックの場は、リハビリテーションの延長ではなく、
障害がある人たちが身体を鍛えて
技や力を競い合うスポーツ大会として発展するようになりました。

また、パラリンピックという名称について、
難色を示していた、国際オリンピック協会も
影響力を軽視出来なくなったようで
1985年、国際オリンピック委員会の同意によって、
正式に "パラリンピック"という名称が使われることになりました。

元々は前述した通り、
「パラプレジア・オリンピック」
(半身の不随とたたかっている人たちのオリンピック)の
略語でしたが、
半身不随者以外も参加するようになったため、
1985年からは、
「パラレル(並行・もう一つの)オリンピック=パラリンピック」
と解釈をすることになりました。

だから、開催時に既に「パラリンピック」と呼ばれていた大会は、
この次の1988年ソウル大会からで、

この大会はオリンピック組織委員会が
パラリンピックに直接関わる初めての大会ともなり、

この大会からは再び夏季オリンピック開催都市が
夏季パラリンピックも開催されるようになりました。

なお、冬季大会が冬季オリンピックと同一都市で開催されるようになるのは
1992年のアルベールビル冬季大会からです。


その後、IOCは、積極的にパラリンピックとの協力を進め、
2000年のシドニー大会からは、
オリンピックとパラリンピックの大会組織委員会が同じ組織になり

さらに、「オリンピック開催国は、オリンピック終了後、
引き続いてパラリンピックを開催しなければならない」ということも
義務になりました。
それ以降も、オリンピックとパラリンピックは、協力関係を深め、
2008年夏季大会、2010年冬季大会からIOCはパラリンピックについて
運営・経済両面においてIPCを支援。
また、パラリンピックの構成や保護を強化するとともに、
パラリンピック競技大会の組織委員会は、
オリンピックの組織委員会に統合されることになりました。

こうして、パラリンピックは、グッドマン氏の願いどおり、
まさに「もう一つのオリンピック」となったのです。



今回のバンクーバー・パラリンピックは、
アルペンスキー・ノルディックスキー・
アイススレッジホッケー・車いすカーリング
が行われます。

これらの競技のなかには、障害者のために特別に
考案されたルールもありますが、
大半は、原則として健常者が行っているスポーツのルールを、
一部変更して行っているのが中心となっています。

これは、そのルールを使えば、
障害者でも健常者でも、誰もがその競技を
楽しめるところになりまして、
ここが、最大の特徴ですし、
グッドマン氏の理念が生きているところだと
いえるでしょう。


このように、スポーツとして、
大きな可能性を持った障害者スポーツですが、

ヨーロッパのスポーツクラブでは、
クラブでできるスポーツのなかに、障害者の競技がふくまれ、
障害者、健常者の区別なく楽しんでいる競技も
たくさんあるそうです。

夏季パラリンピックの種目ですが、
車椅子バスケットボールは、人気があって、
アメリカでは、プロリーグもできていますし、
そこでは、日本人の車椅子バスケットボールの選手も
プロとしてプレーしたことがあります。

これも、夏季パラリンピックの種目ですが、
シッティングバレーボールの盛んなイランでは、
試合会場の体育館が満員になるほど盛りあがっています。

これらの国々にとっては、障害者スポーツは特別な存在ではなく、
それぞれが、他のスポーツと同様に
スポーツの1種目として、みんな楽しんでいるのです。



そんな一方で、40年も前から、
パラリンピックとかかわってきた日本ですが、

残念ながら、今でもリハビリの延長と考えている人が少なくないですし、
障害者スポーツを見たことがない人も多いのが現状です。

理由の一つとして、政府のスポーツを担当する
役所の違いがあげられます。

日本でJOCは文部科学省管轄の機関ですが、
それに対して、障害者スポーツを所管するJPCは、
厚生労働省が担当しています。

この行政の区分には、
パラリンピックはオリンピックと同様の「スポーツ」であるとするより、
リハビリテーションの延長上にある「医療」「福祉」により
振興を図る大会であると見られてきた経緯があるのです。


しかし、パラリンピックの回が重なるごとに
「リハビリ」よりも「競技性」の要素が高まると、
選手の間から「競技」としての取り組みが要求されるようになりました。

国際的にはすでに競技スポーツとしてのレベルアップが進んでおり、
日本もこれに挑む選手および関係者を中心として
「競技スポーツ」としての強化が図られるようになったのです。

国際的には競技の最高峰の祭典として、
オリンピックとの統合に向けた取り組みが
国際パラリンピック委員会と開催地の
オリンピック、パラリンピック委員会の間で進行しています。

このような競技を取り巻く世界の情勢や、
国内での現状を考えると、

パラリンピックにおける競技スポーツの振興は、
福祉だけでなく「スポーツ文化」全体の発展につながる
「文化」としての理解と支援が求められることになるのです。

ただ、たとえば施設面で言うと、
役所や文部科学省が建てる体育館は
健常者を考えて作られていることが多く、
障害者スポーツは、厚生労働省が支援して作る
障害者専用のスポーツセンターでしかやりにくい、
という状況もあります。

障害者専用のスポーツセンターを作ることよりも、
パラリンピックの精神にもあるとおり、
すでにあるスポーツ施設を、障害者スポーツでも
利用できるようにすることのほうが、

安く簡単に施設は出来るでしょうし、
そうすれば、健常者と障害者の垣根のない社会、
バリアフリーな世界をつくることにもつながります。

駅や学校にエレベータをつけたり、
公共の建物の階段の横にスロープをつくる、
といったことだけじゃなく、

障害者と健常者がみんなが一緒に、
スポーツを楽しめる環境を作ることだって、
バリアフリーです。

そんなことを考えるきっかけに
バンクーバー・パラリンピックが
なればいいのかなと思いました。

冬季オリンピックを視聴しているうちに
普段目にしない競技の思わぬ面白さに
気がつくように、

パラリンピックを視聴しているうちに、
上のようなことに気がつく人が
増えるといいなと思っているのです。



また、競技自体の楽しみとして、
今大会は、アルペンスキーのスーパーコンビ
(スーパー大回転と回転を1本ずつ滑りタイムを競う)が
正式種目として新たに加わり、

車いすカーリングで初出場を果たすなど、
日本選手団の出場種目数が増えたこともあり、
前回を上回るメダル獲得が期待されるそうです。

ただし、前術したとおり、パラリンピック大会は、
障害のある人たちに高水準の競技に参加する機会を与え、
世界にパラリンピックの精神を広め
国際親善を図ることを目的として、4年に一度開催される大会ですから

どの国の選手にも声援をおくることが
出来るような観戦をしたいものです。


と、はいうものの、日本選手や
北海道出身の選手は応援してしまいますね。


ちなみに、下の新聞記事は
毎日新聞の記事です。


バンクーバー冬季パラリンピック:美幌出身・車いすの久保選手、スキーで /北海道
3月6日10時47分配信 毎日新聞

 ◇車いすの久保恒造選手、マラソンから転身「夢」実現
 障害者スポーツの祭典、第10回冬季パラリンピック大会が12日(日本時間13日)、カナダ・バンクーバーで開幕する。網走管内美幌町出身の久保恒造選手(28)=日立システム=は、車いすマラソンで夏の北京パラリンピックを目指していた。夢はかなわなかったが、ノルディックスキー距離・バイアスロンでメダルを目指す。【芳賀竜也】
 夢半ば、だった。車いすマラソンにあこがれ、挑んだ北京パラリンピックは男子3枠の代表選考から漏れた。「ロンドン(パラリンピック)までの4年間は長い」と、ぼうぜんとした。当時の支援先企業との契約も「北京までの4年間」。そんな時、ナショナルチームの監督を務める日立システムスキー部の荒井秀樹監督(55)が「バンクーバーとソチでメダルを目指して、スキーをやりませんか」と声を掛けた。
 地元の美幌町は距離スキーが盛ん。バンクーバー五輪で距離スキー日本勢過去最高となる5位入賞を果たした石田正子選手(JR北海道)も同町出身だ。実家の目の前も距離スキーコース。たびたび練習していたチームメートで札幌出身の長田弘幸選手(日立システム)は夏場のトレーニングに車いすマラソンを取り入れており、荒井監督は久保選手の評判を長田選手から聞いていたという。
 距離スキーの座位用スキーは「シットスキー」と呼ばれる。アルペンの「チェアスキー」と似ているが、サスペンションがなく、スキー板が2本なのが違いだ。「やってみると、体の使い方が(車いすマラソンと)似ている」。冬場の雪上トレーニングと合わせ、マラソン用の車椅子「レーサー」を使った走りこみで持久力が向上した。
 美幌高時代は球児だった。三塁手で4番打者。選抜大会への参考資料となる秋季全道大会の出場経験もある。「野球は終わり」と思った夏の地区大会数日後。知人が運転する車に同乗して事故に遭い、下半身不随になった。車いすマラソン選手を目指そうと思ったのは、入院中に見たレース中継がきっかけ。「野球少年がプロ野球選手を目指すように、トップの車いすレーサーになりたいと思った」という。
 雪原のレーサーに転身し、新たな刺激を感じている。「人生はたった一度しかないのに、立ち止まってはいられない」。パラリンピックは初出場だが、ワールドカップ・バイアスロンで今季総合2位。北京行きの切符を逃した悔いを、バンクーバーで晴らすつもりだ。
 ◇道内6選手、日本代表に
 第10回冬季パラリンピック大会には日本から選手・役員95人が出場し、道内在住の6選手も日本代表として世界の強豪に挑む。
 大会はアルペン▽ノルディック距離▽バイアスロン▽アイススレッジホッケー▽車いすカーリングの5競技で行われる。道内在住者は、久保、長田両選手のほか、アイススレッジホッケーに永瀬充(34)、三沢英司(37)、伊藤仙孝(26)=いずれも旭川市、須藤悟(39)=札幌市=の4選手が出場し、上位進出を目指す。【三沢邦彦】




と、いうわけで、道内・国内の選手を含め、
全ての関係者の健闘を

心よりお祈りしたいと思います。





ヘタリアに言論と表現の自由を!
民族浄化[ここでは、ある民族のみを浄
化した姿で描けという要求]反対!
自由ヘタリア救国民族解放戦線の「イトー×ani」がお届けする
FURANO History Factory(F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
北海道富良野市・上富良野町・中富良野町など限定で聴く事が出来る、
コミュニティー放送局FM「ラジオふらの」の
月曜午後五時からオンエアー中

番組へリクエスト・メッセージは
〒07 6-0026 富良野市朝日町5-17 ラジオふらの
E-mail radio@furano.ne.jp FAX 0167-22-2775

リクエストなどは
当ブログのコメント欄でも
受け付けています。
2010.03.02 弥生の空に
FHF
如月二月も終わりまして、
弥生三月に突入であります。

2010年も、もはや6分の1が
終了したことになるのです。

一月は行く
二月は逃げるの言葉の通り、
慌ただしく日々が過ぎていった気がします。

そして、三月は去る。
これからも早く過ぎる
日々が続いていくのです。

また、三月は去ると言えば、
学校の卒業や、職場の人事異動などが
ある季節でもあります、

今日も市内など富良野管内をはじめ
多くの高校で、卒業式が行われました。

この後も、中学校、小学校と
卒業式が行われていき、

多くの別れがありながら、
慌ただしく時は流れて、
出会いの春を向かえていくのです。



3月1日 オンエア 第255回放送分
「FURANO History Factory(=FHF・フラノヒストリーファクトリー)」
です




17日間にわたって繰り広げられた
連日の熱戦が続くバンクーバーオリンピックが
無事終了いたしました。

選手達の超人的な技量とともに
そのような技量を高めてきた、
多くの選手の努力を垣間見ることが出来て、
僕自身もたいへん刺激を受けました。

スキー競技やリュージュのコース状態の悪さや、
フィギュアスケートの音響ミスに
ジャッジの不公平さなど、
気になることもありましたが、

基本的に、それぞれの競技の面白さに、
思わず生活時間帯がひっくりかえってしまった
そんな日々も、とりあえずはこれでおしまいです。

さて、そんな冬季五輪中は、
普段あまりテレビで放映されない種目が
テレビで見ることが出来て、思わぬ面白さに
目覚めたりするのですが、


その最たるものがカーリングでしょう。


僕自身も、地元、富良野の高校を卒業した
目黒萌絵選手がトリノの大会に続き出場し、
今回はチームの主力だということもあって、
前回大会同様に、注目していたのに加えて、

今回も序盤などでの健闘ぶりがあって
声援をおくったクチなのです。


カーリングは、氷上で行われるウィンタースポーツで、
4人ずつ2チームで行われ、
目標とする円をめがけて各チームが交互に8回ずつ
石を氷上に滑らせて、
石を円の中心により近づけたチームが得点を得て、

これを10回繰り返し、総得点で勝敗を競う競技です。


高度なコントロールなどの技術とともに
優れた戦略が必要とされることから、
「氷上のチェス」とも呼ばれています。



カーリングが日本で普及されたのは、
結構最近のことで、

僕自身がカーリングを知ったのは、
今から二〇年近く前に
当時の週刊少年サンデーに連載されていた
吉田聡さんのマンガ『ちょっとヨロシク!』に
出てきたこととともに、

単行本の中で、
吉田さんがカーリングを体験した時、
吉田さんがいくらスィープをしても
まったくストーンの速度も軌道がかわらないのに
選手がスイープすると、速度や軌道がかわるので、
選手はスゴい、

といったムネのマンガを
描いていたので、
印象に残っているのです。


その後、冬季オリンピックの種目に
正式採用された長野での
男子チームの活躍で、
より身近に感じるようになったのです。

だから、新しいスポーツであるのかと
勝手に思っていたのです。



そもそも競技の発祥は、
15世紀のスコットランドで
池や川の氷上で、石を投げ合って遊んだのが
起源ではないかと言われています。

スコットランドでは、1551年の日付が記された、
世界最古のカーリーグストーンが発見され、
保存されていますので、
16世紀にはすでに定着していたのが
定説になっています。

ただ、当時は底の平らな川石を
氷の上に滑らせていたものとされていて、
このカーリングの元となった遊びは、
こちらもスコットランド、グラスゴー近郊の
レンフルシャーで、1541年2月に行われたと
記録されているのが最古のものです。


「カーリング」という名称の起源も
定かではないですが、
ストーンがクルクルと回転(カール)しながら滑っていくさま、
又は、ストーンがサークルに向かっていく様子が
女性の髪の毛のカールのように、
ゆっくりとカールを描きながら動いていくところから
カーリングと名付けられたと言われていまして、

1630年のスコットランドの印刷物中に
この名称の使用が確認されています。

そんなスコットランドでは16世紀から19世紀にかけて
戸外でのカーリングが盛んに行われていて、

1760年には、エジンバラキャノンミルズクラブが設立され
その他いくつものカーリングクラブがあったそうです。

一方でスコットランドから渡った移民も
カーリングを楽しんでいて、
現在のルールは主にカナダで確立したもので、
1807年には王立カーリングクラブが設立されました。

また、1832年にはアメリカ合衆国にカーリングクラブが誕生し、
新大陸でも活発に競技が行われるようになると、

1838年には、母国とも言うべきスコットランドで
グランド・カレドニアン・カーリングクラブが出来ます。

このクラブは時のヴィクトリア女王によって
ロイヤルの名称を授かり、
ロイヤル・カレドニアン・カーリングクラブとして
現在も残っております。

160年前にスコットランドで結成された、このカーリングクラブは
やがて世界のカーリングを統括していき、
世界選手権の開催にも貢献をしました。

その活動の中で生まれた、
多くのカーリング選手(カーラー)は、
自国のカーリング協会に登録されますが、
それは同時にロイヤル・カレドニアン・カーリングクラブの
メンバーとしても登録されるというシステム、

言い換えると、世界中のカーラーは
ひとつのクラブの仲間という考えが確立されました。


そんなカーリングは、19世紀の終わりまでには
スイスとスウェーデンへと広まり、
更にヨーロッパ全土へと広まり
1957年に「国際カーリング連盟」が創立されます。

1991年に、国際カーリング連盟が発展解消する形で
「世界カーリング連盟(WCF)」に名称変更され、
その翌年にスペインのバルセロナで行われたIOCの総会で
カーリングが冬季オリンピックの正式種目として認められ、
1998年の長野オリンピックから
オリンピックでのカーリング競技がスタートをしました。

現在はヨーロッパを中心に北米、中南米、アジア、オセアニアなど
45ヵ国がWCFに加盟しています。



さて、カーリングが日本に初めて登場したのは、
1937年(昭和12年)と言われています。

この前の年、ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンで開催された
冬季オリンピック大会に参加した日本選手団が、
4年後の1940年に、札幌で開催されることが決まっていた
冬季オリンピック競技大会に、このゲームを導入する目的で
現地からストーンを持ち帰り、
長野県諏訪湖で実演。

カーリングクラブを設立し、
カーリング大会も開催しました。


しかし、日中戦争、第二次世界大戦になって
札幌オリンピック自体が幻の大会になり、
この競技はそれ以後、日の目も当たらず、
休眠状態になってしまいました。

その後1947年(昭和22年)1月頃、
諏訪湖氷上でカーリング大会や
1958年(昭和33年)北海道ウトナイ湖において
カーリングストーンの導入が行われたようですが、

こちらも、普及するには至りませんでした。

では、いつから本格的な普及が
始まったのかというと、

北海道で、1977年(昭和52年)以降、
カナダアルバーター州との文化交流事業の一環として
カーリングが紹介されましたが、

1980年(昭和55年)1月から北海道庁が
カナダの元世界チャンピオンであったウォーリー・ウースリアック氏を
招聘し北海道内21市町においてカーリング講習会を開催して普及につとめ、
各市町にカーリング協会が次々と誕生したことに端を発します。

これを機会に、1981年(昭和56年)に
北海道カーリング協会が設立されました。


この波は、本州へ広がり、東京都をはじめとして、
インドアリンクのある名古屋市などにカーリングファンが増え、
同時に協会が設立されることになりました。


1983年(昭和58年)東京都カーリング協会が、
1984年(昭和59年)愛知県カーリング協会が
それぞれ結成されたことから
日本を統一する組織化についての機運が高まり、

準備委員会を経て、1984年(昭和59年)2月に、
北海道、東京都、愛知県の3都道県のカーリング協会によって
日本カーリング協会を設立しました。

この設立を記念して第1回日本カーリング選手権大会を、
第11回札幌冬季オリンピック大会の会場となった
札幌市真駒内アイスアリーナで開催しました。


このような各地で競技が浸透をしている中、
特に普及に熱心であったのが、
北海道の常呂町(現 北見市)です。


常呂町は、80年代の普及がはじまった当初から、
ビールのミニ樽やプロパンガスミニボンベなどで
ストーンを自作し、町を上げての普及に取り組み、
1981年には、第1回NHK杯(北見放送局)カーリング大会を開催、

1988年には、「はまなす国体」のカーリング競技場として
五本のレーンを備えた国内初の屋内カーリング専用ホールを建設、

国内外の大会を開催し、
オリンピック選手を多数輩出などの
非常に大きい功績をもたらしました。

1998年の長野オリンピックでの
男子チームスキップとして活躍をし
競技の知名度をあげた
敦賀信人さんをはじめとして、
多くの選手が処出身なのです。

なんといっても、
長野オリンピックでは男女の代表十人中五人が、

これまたテレビで注目を集めた、
2002年のソルトレイクシティオリンピックでは
女子チームの五人中四人が

全試合を中継された中で
7位入賞という活躍を見せたことで、
日本におけるカーリングの認知度が一挙に高まった
2006年のトリノオリンピックでは、
女子チーム五人中三人が、

そして今回のバンクーバーオリンピックでも
五人中二人が、常呂出身なのです。



と、いうことは今までオリンピックの
日本代表になった二五人のうち、
一四人が、常呂町出身。

そんな競技って寡聞にして、
僕は知りません。


常呂町は、先述した
五本のレーンを擁する
専用のカーリングホールがあって、

冬場は草野球ならぬ、草カーリングが
行われておりまして、

老若男女問わず、熱い戦いが
繰り広げられています。

オリンピックの代表になった選手達も
そのような場数を踏んで、競技に目覚めた
人たちなのです。


このように、
競技の面白さともに
国内での歴史が比較的新しいというところも
注目するところです。



さらに、カーリングの試合を見ていて気がつくのは、
最後の微妙なストーンの近い遠い以外には

審判らしい人が出てこないところです。


これは、前述した、全員が一つのクラブの仲間である
という意識とも通じるかもしれませんが、

カーリングというスポーツは、
スポーツマンシップを重んじる競技であるため、

例えば相手チームの失策を喜んだり、
あるいは、そのような態度を示すことは、
慎むべき行為として忌避されています。

途中のエンドの終了時に自チームに
勝ち目がないと判断したとき、
潔く自ら負けを認め、
それを相手に握手を求める形で示すという
ギブアップの習慣も

フェアプレーの表れの1つだそうです。

競技者がファウル・ルール違反をした時、
それを自己申告するくらいのプレイ態度が期待されています。

試合中のその場の両チームの競技者自身が判定する
セルフジャッジの競技であることからも、

無用のトラブルを避けるためにも、
フェアプレーはカーリングに欠かせない要素と考えられているのです。


そのあらわれが

世界カーリング連盟が定めるRULES OF CURLING(カーリング競技規則)の
冒頭に掲げられている
The Spirit of Curling(和訳「カーリング精神」)です。

カーリング競技の根本は、この理念から
成立していることを示しているのです。

カーリング精神(The Spirit of Curling)は、
カーリング競技の基本理念。また、これを述べた文章のことで、
すべてのルールやジャッジを支えるものとして、
競技者の間で尊重されています。


原文は英語ですが、競技各国によって
それぞれ翻訳をされています。

ちなみに以下の文章が
日本語訳 です。

「カーリングは、技量と同じくらい、しきたりを重んじるスポーツである。うまくいったショットはひとつの喜びだが、カーリングの伝統あるしきたりが真に生きているゲームを目の当たりにすることは、それに勝るとも劣らないくらい素晴らしいことである。カーラーは勝つためにプレイするのであって、負かすためにプレイするのではない。真のカーラーは、不正をして勝つくらいなら負けることを選ぶだろう。

良きカーラーは対戦相手の気を散らしたりしない。またそういう行為によって、ベストを尽くそうとしている相手を邪魔したりはしない。

いやしくもカーラーたる者は、故意にルールを破ったり、しきたりを辱めたりはしない。しかし、もし偶然そうしてしまい、それに気づいたならば、誰に言われるまでもなく、自ら違反を申し出るものである。

ゲームというものは、プレイヤーそれぞれの技量を明らかにするためにある。しかし同時にゲームの精神について言えば、善きスポーツマンシップ、思いやりある態度、そして誇り高い振る舞いが求められている。この精神は、ルールの解釈や適用のしかたに生かすべきであるのみならず、アイスの上にあるとなきとにかかわりなく、すべての参加者が行いの鑑とすべきものである。」


なかなか、いい文章だと思いませんか?

このような文章の存在も
僕にとって、カーリングについての興味を
ますます多くしてくれる原因となりました。

ここに述べられている理念の背景として、
カーリングがイギリス(スコットランド)発祥のスポーツの例に漏れず、
プレイヤーを審判の監視でがんじがらめにするよりも、
その自発的・自律的なフェアプレイにゆだねること=セルフジャッジを
美徳とする競技であるということが挙げられます。

最後のよりどころとしてルールは存在しますが、
その解釈や適用は第一義的にはプレイヤーにゆだねられ、
プレイヤー間の意見が食い違い、紛争が生じた時に
初めて審判が介入するのが
カーリング競技の基本的なありかたなのです。

と、いうことを考えると
ゴルフと似ていると考えるのが
わかりやすいのではないでしょうか。



このようなルールを重んじることが出来る精神性とともに、

繊細なストーンのウエイトをコントロールするテクニック、
微妙なスウィーピングによるコース誘導そして
欧米人と比較して体格面での不利が競技に影響しないこと。

これらを鑑みても、カーリングは
細かい仕事が得意な
日本人向きのスポーツと言えるのではないかと思うのです。



前回、前々回もオリンピックでも盛り上がったのですが、
今回の中継での盛り上がりをきっかけとして、

さらにカーリング人口が増えると
ソチでも面白いことになるのでは
と思いますし、

今回の遠征や今までのチーム強化については
青森県におうところが多かったのです。


冬季オリンピックはどうしても、
雪国にある地場の企業の協力の大小が
結果に結びつく例が多く、

北海道・東北の景気がなかなか良くならないなかでの、
ソルトレイクシティーやトリノの結果という

反省項目があったのですが、

なかなか、この点については、
改善されない問題でした。


来週はそんな話をしたいと思います。





ヘタリアに言論と表現の自由を!
民族浄化[ここでは、ある民族のみを浄
化した姿で描けという要求]反対!
自由ヘタリア救国民族解放戦線の「イトー×ani」がお届けする
FURANO History Factory(F.H.F.フラノヒストリーファクトリー)
北海道富良野市・上富良野町・中富良野町など限定で聴く事が出来る、
コミュニティー放送局FM「ラジオふらの」の
月曜午後五時からオンエアー中

番組へリクエスト・メッセージは
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